アンと呼びたい
その日、オイラーとアンダーは、共にオイラーの自室にいた。
こうして二人同じ部屋で過ごすことにも段々慣れてきて。
今では互いにそういう過ごし方をすることに違和感を覚えなくなっている。
最初にアンダーはひょっこり現れた時にはオイラーは戸惑った。王子として生きてきたオイラーには自分の部屋に自分以外の誰かがいるという経験がなかったからだ。また、部屋で過ごすアンダーの振る舞いが他人の部屋に入れてもらっている感じではなかったことも、戸惑いが生まれる原因の一つとなっていた。
自分の部屋に他人が入ってきていて、しかも、その人がまるでそこが自分の部屋であるかのように過ごしている――戸惑いの種はそれだった。
だがそんなオイラーも今はもう違和感を覚えない。
すっかり馴染んだのだ。
自室にアンダーがいることに。
「アン」
特別なことなんてない平凡な夜。
ふと思い立ってオイラーは口を控えめに動かした。
「何か言ったか?」
その日もオイラーの部屋へ来て椅子の上であぐらをかいていたアンダーは視線を速やかにオイラーの方へと向ける。
「呼び方についてなのだが」
「んだよ」
「これからは、アン、と呼んでも構わないだろうか?」
オイラーの言葉に目を開く。紅の瞳は宝石のように深い煌めきを隠さない。そこにあるのは明らかに困惑の色で。しかしながら二つの宝石は高貴な友を確かに捉えている。
「なんだそりゃ」
「実はずっと憧れていたんだ、友を特別な名で呼ぶことに」
「アホか」
「なぜ!?」
「子どもじゃねーんだし、んなことする意味ねーだろ」
アンダーは呆れていたが。
「い、いや、あるんだ。意味ならある。なんせそれは私がずっとやってみたかったことなのだから」
オイラーは主張をやめない。
「君が嫌なら無理にとは言わないが……だが、もし許されるのであれば、アン、と。そのように呼ばせてほしい。そうすればより一層良き友人な雰囲気が高まるだろうし」
流れるように思いを口にするオイラー。
その圧に負けたアンダーは、呆れ顔になりつつも「ま、べつにいーよそれでも」と返す。
「好きにしな」
「ありがとう!」
オイラーの面に花が咲いた。
嬉しさに包まれた彼は子どものような無邪気さをはらんだ表情でアンダーに近寄ると椅子の上であぐらをかいたその肩に左右それぞれの手をぽんと置く。顔をしかめたアンダーは「ベタベタすんな」と注意を言い放つが、オイラーはアンダーの表情にも言葉にも意識を向けないまま「ではこれからもよろしく! アン!」などと楽しそうに言っている。
「あんま触んなっつってんだろ!」
「……あ、ああ、すまない」
やがて鋭く言い放たれて。その時になってようやくオイラーはアンダーの感情に気づく。不快にさせてしまっていると察したオイラーは素早く謝罪し肩に乗せていた手も放す。身体の距離も少し離した。
「だが、アン呼びは構わないのだろう?」
「それは好きにしなって言ったろ」
「あ、ああ、そうだな……ありがとう、とても嬉しい。ではこれからは……アン、と呼ばせてもらう」
オイラーは高貴な人だ。
しかしだからこそ経験できなかったことというのも存在する。
裕福で恵まれた環境に身を置くことで遠ざかってしまう物事、というのも、この世界には存在するのだ。
「アン、これからも良き友でいてくれ」
◆
後日。
オイラーがアンダーをアンと呼ぶようになったことに気づいた同僚たちは密かに動揺していた。
何やら特別な関係なのかと。
変に気を遣ってしまいそうになるほどで。
だが、二人の関わっている様子に変化は特に見当たらなかったため、次第にその動揺は収まっていった。
単に呼び方を変えただけなのだ、と、正しく理解したのである。




