プロローグ
―すべての始まりは、あの日だった。
荒れ狂う海、ざばざばの耳にこびりつく波の音。
「っはあ・・・・あぶっ」
酸素を吸う暇もなく波に沈められる息苦しさ。
嫌というほど鼻に突き刺さる潮のにおい。口に塩辛い味が広がって気持ち悪い。
「・・・・・はあっ、誰か、助けっ」
また、波が容赦なく打ち付けてくる。助けを求め上にあげた手は沈んだ。
(息が苦しい)
母と父はすでに流された。ほかの友達は?兄は無事だろうか?
(お兄ちゃんを一人にしたらだめ)
でも、だんだん意識が沈んでいく。苦しさも波に覆われる。
(ここで死ぬのは・・・・・だめ)
冷たい水の中で幼馴染の顔が浮かんだ。
(佑磨に会うまでは・・・・・・・・)
生きなきゃ・・・・・・・・・。
「・・・・・・呼吸あり、低体温。意識は―」
「ぐはっ!!」
急激に意識が浮上した。と同時に胸に圧迫感を覚えせき込む。
「ぐるしい・・・・・けど、生きてる?」
どうやら自分は陸上にいるみたいだ。上体を起こすだけでも体力的には一苦労だが、幸いにも怪我はない。試しに深呼吸をしてみた。酸素が肺に届いている。頭がしっかりしてくる。
ああ、肺循環と体循環って素晴らしい!
「・・・・・・意識あり。大丈夫?」
「えっ」
慌てて顔を上げると、ダイビングマスクにレギュレーターという呼吸装置を付けた女性が、こちらを見ていた。あまり顔が見えなくてちょっと怖い。
「は、はい」
(この人が救ってくれたのかな?)
ダイビングスーツを着ていて、手には通信機器。ザ・ダイバーだ。
「君、名前は?あと年齢と家族も」
「・・・・・・・あの、申し訳ないんですが個人情報なので」
命の恩人とはいえ、助けられたばかりとは言え、個人情報はべらべらと漏らすものではない。
さりげなく言葉と手でブロックしたらぱしん、とはたかれた。
「非常時にけったいなこと言わんといて!うちがいけずで言うてるとでも?」
「あ、あああ!すみません!帆梶澪、小6です!中1の兄がいます!」
(なんでこの人、急に京ことば?)
しかも地味に目が怖かった。絶対にらんでた。おそらくだけど。
女性はふんふんとうなずき、通信機器を操作する。
「ご両親は?」
「・・・・・・流されました。倒壊した建物に巻き込まれて沈んだので、多分もう助からないかと」
「そう。おおきに」
感情の読み取れない声で彼女は言った。
(この人、誰なんだろう)
装備と態度から救命活動には慣れているんだろう。そういう仕事には少しだけあこがれを感じる。
作業が終わったのか、「さて」と彼女はあたりを見渡した。
「今応援呼んだから、オレンジ色のボートが見えたらそれに乗って」
「わかりました」
立ち上がり返事すると彼女は背を向け、どこかに行こうとする。慌てて澪は引き留めた。
「あの、もう行くんですか?」
「悪いけど他にも仕事があるんよ。堪忍してな」
「そ、そうじゃなくて、名前!教えて欲しくて」
必死で頼むと彼女は怪訝そうに振り返る。
「なんで?うち個人情報は明かさん主義」
「方言でなんとなく明かしてますけど」
「・・・・・・気づいてなかった。一本取られました」
少しだけ困ったように笑う彼女に、少し親しみを感じた。
「それで、名前」
「ああ。私は―・・・ユウ」
「ユウさん、あの、また会えますか」
手を握りしめて叫ぶと、彼女の目が見開かれた。
「また会えなくても、私はユウさんみたいに活動したいです。どうすれば」
「私たちの職業は命がかかってる仕事だよ。曖昧な動機じゃなれない」
顔を背け、声色を低くされる。
先ほどの暖かさは抜け、別人のようなまなざしだ。
(拒絶されてる)
でも、そんなの気にしない。
「それまで待っててくれますか!?」
自分の叫びは思いのほか、広く響いた。
長い長い沈黙。
「・・・・・・・」
「・・・・・・・」
そして―
「気が向いたらね」
「え」
悪戯気にユウは目を細めると背を向けた。
「じゃ、またどこかで」
そういって走り去る彼女の背中を、澪はいつまでも見つめていた。




