味を知らない令嬢と、音を持たない精霊騎士〜触れ合うとき、あなたの世界が流れ込む〜
クレマチス伯爵家の朝餉の時間は、いつも寸分の狂いもなく整えられた一枚の絵画のようだ。
磨き上げられた銀のカトラリー、湯気の立ち上る純白の皿、そして季節の花々を映し出す豪奢な料理の数々。王国でも指折りの美食家として知られる父、クレマチス伯爵が吟味を重ねた食材だけが、この食卓に上ることを許される。
「リナ。このオマール海老のコンソメはどうだね? 昨夜、港に届いたばかりの逸品だ」
「はい、お父様。素晴らしいですわ」
私、リナ・フォン・クレマチスは、陶器のように滑らかな微笑みを浮かべ、銀のスプーンをそっと口に運ぶ。
琥珀色の液体が舌の上に広がる。温度と、わずかな塩味。それだけ。私の脳裏では、無数の情報が瞬時に駆け巡っていた。
(ビスク・ド・オマール。甲殻をブランデーでフランベし、香味野菜と共にじっくり煮詰めた出汁。隠し味は南方の島で採れる星茴香のはず。お父様は常々おっしゃっていたわ。『最高級の星茴香は、朝霧に濡れた一番摘みに限る。その芳醇な香りは、もはや香りというよりも、夜明けの清澄な空気そのものなのだ』と。この鼻腔を抜ける、甘くも爽やかな微かな香気は、まさしく……)
「オマール海老の濃厚な旨味と、それを引き立てる香味野菜の繊細な甘み。そして後から鼻腔を抜ける星茴香の爽やかな香り。まるで暁の海を旅しているようですわ。お父様の舌は、今日も王国の宝ですわね」
その声音に翳りはなく、非の打ち所なく整えられた賛辞は周囲を納得させる。伯爵は満足げに頷き、母も「リナは本当に私達の自慢の娘です」と微笑んだ。
誰も疑わない。このクレマチス伯爵家の令嬢である私が、生まれついてこのかた、一度も「味」というものを感じたことがないなどとは。
色も、香りも、形も、食感も分かる。知識として、それがどんな味であるべきかも知っている。父から叩き込まれた膨大な知識を頼りに、香りや見た目から答えを導き出す。食事とは、私にとって採点作業に過ぎないのだ。
その、感情の揺らぎ一つ見せない仮面の下で、私の心はいつも、上質な霜降り肉のように冷たく凍てついていた。
その日の朝餉が終わりに近づいた頃、父が改まって口を開いた。
「リナ、お前に王宮から辞令が下った」
「まあ、私にですの?」
「うむ。精霊騎士、シルヴァン・アストール卿の世話役として、彼の屋敷へ赴くように、と」
シルヴァン・アストール。
その名を、私は知っていた。
十年ほど前、国境の森で瀕死の状態だったところを強大な風の精霊「シルフ」に見初められ、契約を交わした少年。彼は命を救われた代償に、その聴覚を永遠に失った。今や王国の守護を担う精霊騎士団の中でも、最強と謳われる存在。同時に、極端に人を避ける孤高の騎士としても知られていた。
「音を持たない騎士、ですわね……。これまで何人もの方が世話役を務められましたが、皆ひと月と持たずに辞めてしまわれたとか」
「そうなのだ。だからこそ、王家は我がクレマチス家に白羽の矢を立てたのだろう。お前の細やかな気遣いと教養ならば、きっと彼も心を開くに違いない、と」
父の言葉は期待に満ちていたが、私の心には別のさざ波が立つ。
音のない世界に生きる人。それはつまり、食事中の退屈な会話をしなくてもいいということ。味の感想を求められ、嘘をつく必要もないということ。自分の欠落を、探られる心配のない相手。
私は、淑女の礼儀作法に則った最も美しい角度でお辞儀をした。
「謹んで、お受けいたします。クレマチス家の名に恥じぬよう、完璧に務めてみせますわ」
その凍てついた微笑みの下で、ほんの少しだけ、息苦しいこの家から出られることに安堵している自分に、私は気づかないふりをした。
数日後、馬車は王都を離れ、風の強い丘陵地帯へと入っていく。シルヴァン様の屋敷は、ひときわ精霊の気配が濃いとされる丘の上に、静かに佇む。
華美な装飾を排した、質実剛健な石造りの館。人の気配はなく、ただ風の音だけが、絶えず私の耳を撫でていく。
玄関の扉の前で待つこと数分。
予感も気配もなく、すぐ目の前に、一人の男性が立っていた。
(……風?)
音もなく現れた彼は、まるで風そのものが人の形をとったかのよう。陽光を弾く銀灰色の髪が、この丘を渡る風に柔らかく揺れている。背は高く、鍛えられた体躯は騎士のそれだと分かるものの、威圧感はなく、むしろ、どこか儚げな印象さえ受ける。
感情の温度が一切読めない、凪いだ湖面のような灰色の瞳が、じっと私を見つめていた。
私は慌てて、スカートの裾をつまみ、最も丁寧な淑女の礼をとる。
「本日よりお世話になります、リナ・フォン・クレマチスと申します。シルヴァン・アストール卿におかれましては……」
淀みなく続くはずだった挨拶の口上が、途中で途切れた。
彼の視線が、私の顔ではなく、その唇の動きだけを、ただひたすらに追っていることに気づいたからだ。彼は風の揺らぎで言葉を読んでいるのだと、直感する。
私はごくりと唾を飲み込み、できるだけゆっくりと、はっきりと口を動かした。
「精一杯、お仕えさせていただきます」
沈黙が落ち、風の音だけが、二人の間を通り過ぎていく。
やがて、彼が薄い唇をわずかに開いた。それは声というより、長い間使われていなかった楽器の弦を弾くような、乾いた響きを伴う音だった。
「……頼む」
ただそれだけを告げると、彼は私に背を向け、音もなく屋敷の中へと歩き出す。
取り残された私は、一瞬戸惑った後、慌ててその背中を追った。
これから始まる、味のない世界の私と、音のない世界の彼との、奇妙な生活。どのようなものになるのか、私には想像もつかなかった。
♢
シルヴァン様の屋敷での日々は、まさしく静寂そのもの。
大理石の床は私の柔らかなスリッパの音さえ吸収してしまうようで、生活の気配というものがどこまでも希薄な空間だった。家具は必要最低限のものしかなく、どれも質実剛健だが、そこに住む者の温もりは感じさせない。まるで、時が止まった舞台装置のよう。
私の仕事は、食事の準備、書斎の整頓、そして彼の身の回りの世話。クレマチス家で磨き上げた所作で、乱れなくそれをこなしていく。
しかし、屋敷の主人であるシルヴァン様は、そのほとんどの時間を自室か、丘の上の鍛錬場で過ごし、私との接触を意図的に避けているように思えた。
会話が必要な時は、私が差し出した羊皮紙に、彼は短い単語を書きつけるだけ。私がゆっくりと話しかければ、彼はその唇の動きと、彼にしか感じられない風の揺らぎで言葉を読み取るようだったが、その灰色の瞳が感情を映すことはない。
食事の時間は、特に奇妙な沈黙に満ちていた。
私は厨房に立つと、かつて教え込まれた手順をなぞるように料理を整える。味は分からない。それでも、上質な食材をしかるべき方法で扱い、皿の上に物語を描くことならできるのだ。
シルヴァン様はそれを、ただ黙々と、決められた手順をこなす作業のように口へ運ぶ。美味しいのか、そうでないのか。感想を口にすることも、表情に出すことすらない。彼にとって音のない食卓は、ただ生命を維持するための時間に過ぎないようだった。
そのことに、私は安堵していたはず。味の感想を求め合うことがない、これは私にとって何よりの救いなのだから。
……それなのに、日に日に胸の奥に溜まっていくこの澱のような感情はなんだろう。
(ああ、この人も、同じなのだわ)
皿の上の仔羊のロティは、柔らかな桜色を抱きながら静かに息づいているように見える。その美しさに胸を衝かれた瞬間、私はふと気づいた。
私にとって食事が味のない作業であるように、彼にとっても会話のない食卓は、ただ栄養を満たすだけの退屈な営みなのではないかと。共に囲むことの喜びを、この人もきっと知らないのだ。
その静かな食卓には、味覚のない私と、聴覚のない騎士という、二つの巨大な孤独が、ただ向かい合っていた。
そんな日々がひと月ほど続いた頃。
私は、屋敷の裏手にある荒れ果てた庭が気になり始めた。手入れをされなくなって久しいのだろうか、雑草が生い茂る中に、それでも懸命に緑を保つ植物たちがいる。
息詰まる静寂から逃れるように庭の手入れを始めると、土を耕し、雑草を抜き、水を与えるその無心になれる作業は、私の心を少しずつ軽くしていった。
庭の隅に、ひときわ強い風が吹きつける場所があった。そこに、風雨に耐えるようにして咲く、一輪の青い薔薇。まるで空の欠片を映したような、凛とした深い青色。その逞しい生命力に、私は知らず見入っていた。
「……何をしている」
背後からの気配に振り返ると、鍛錬を終えたシルヴァン様が立っている。
その灰色の瞳が、驚いたようにわずかに見開かれていた。その視線が私ではなく、傍らで咲く青い薔薇に注がれていることに、私は気づく。何か、この人にとって大切な花だったのかもしれない。
「申し訳ありません、勝手なことを……」
慌てて立ち上がろうとしたその時、薔薇の鋭い棘が、私の白い指先にちくりと刺さった。
「あっ……」
私の指に小さな紅い玉が浮かぶ。それを見たシルヴァン様の雰囲気が、凍りついたように変わった。ためらいがちに一歩近づくと、彼はほとんど無意識のように、そのたくましい手を伸ばす。怪我を案じるように。棘が刺さったままの私の指先に、彼のごつごつとした指が、そっと触れた。
二人の指先が、青い薔薇の茎を挟んで、重なる。――世界が、反転した。
未知の感覚が、私を直撃する。
口の中に、奔流のような「何か」が流れ込んでくるのだ。それは甘く、それでいて朝露のように清涼で、少しだけ草の青さを帯びた、えもいわれぬ芳醇な……味。
『これ……なに? 薔薇の……あじ……?』
驚きに目を見開くも、思考が追いつかない。香りが、味覚として認識されるというあり得ない現象。そして同時に、自らの聴覚とは全く質の違う、精霊が聞く世界の音が、魂に直接流れ込んできた。風が葉を揺らす囁き、遠くで鳴く鳥の声、すぐ傍で咲く薔薇の花びらが風にそよぐ衣擦れの音。それは、私の耳が捉える音ではなく、万物の生命が奏でる微細な音楽だった。
シルヴァン様もまた、硬直している。
時が止まったかのような彼の静寂の世界に、突如として「音」が殺到したのが、私にも伝わってくるようだ。風が丘を渡る音、雲が流れる音、鳥の羽ばたき。そして何より鮮明に、私自身の速くなる心臓の鼓動が、彼に届いているような気がした。彼の表情は、今まで見たこともないほどに強張っている。
失われたはずの世界が、洪水となって彼を満たしているのだろうか。同時に、鼻腔をくすぐるのは、これまで感じたことのないほどに甘く、豊かな薔薇の香り。
あまりの衝撃に、私達は弾かれたように、同時に手を離した。
途端に、魔法は解ける。
私の口からはあの芳醇な味が消え、耳に流れ込んでいた精霊の世界の音も止んだ。シルヴァン様の世界からも音は消え去り、再び静寂が訪れたのだろう。あとには、現実離れした数秒間の記憶だけが、鮮烈に残る。
何が起こったのか、理解できない。
ただ、互いの顔を見つめる。
被り続けてきた「淑女」という仮面が剥がれ落ち、私は、ただ呆然と立ち尽くしていた。感情の読めなかった騎士の瞳に、初めて「驚愕」と「困惑」という明確な色が浮かんでいるのが見えた。
風が吹き抜ける丘の上の庭で、味を知らない私と、音を持たない騎士は、初めて互いの魂の、その片鱗に触れたのだ。
あの庭での出来事を境に、屋敷の濃密な静寂は、少しずつその性質を変えていった。私達の間に流れる沈黙は、もはや断絶や拒絶ではなく、言葉にならない感情を確かめ合うための、もどかしい余白となる。
翌日、私と彼は、まるで共犯者のように、再びあの青い薔薇の前に立った。
恐る恐る、そして確かめるように、私達は同時にその茎に触れる。途端に、昨日と同じ奇跡が訪れた。私の舌には芳醇な味が広がり、彼の耳には風の歌が届いたのだろう。私達は驚きに満ちた互いの顔を見合わせ、そして、初めて同時に、小さく笑みをこぼした。
「二人で触れると、繋がるのかもしれませんね」
私は、庭の片隅にいた蝸牛をそっと指に乗せ、シルヴァン様に差し出す。彼がためらいながら、その蝸牛の殻にそっと触れた。強烈な味を感じ、私は顔をしかめる。シルヴァン様も触れた感覚に眉を寄せて、思わず声を漏らした。
「……ぬるり、とするな。これは……強烈だ」
感じたくもない“味”を、二人で共有してしまった――思わず顔を見合わせ、私達は笑いをこらえきれず、また笑った。
その日から、私達のささやかな「実験」が始まる。
食事の時間、私は温かなスープが注がれた椀にそっと片方の指を添え、シルヴァン様を招いた。
「どうぞ、この椀に触れてみてください。私の指から伝わる、このスープの温もりを介して……きっと、何かが」
シルヴァン様がためらいがちに、けれど信じるように陶器に触れた瞬間、彼の灰色の瞳が、夜明けの星を見つけたかのように大きく見開かれる。
私の指を起点として、生命ある食材から溶け出した温かな奔流が、液体と器を媒介にして、シルヴァン様の手へと流れ込んでゆくのが、私には分かるのだ。不思議なことに、味のない私の世界を通して、味のある世界が彼に注がれていく。
「……温かい。そして……優しい……。これが、人が『美味しい』と語り合う時の、幸福な感覚なのか」
彼が味を知らなかったわけではない。けれど彼にとって、味とは常に音のない世界でただ咀嚼するだけの、孤独な作業。私という、味わいの知識だけを持ちその実感を知らない空っぽの器を通すことで、彼は初めて、温かい感情を伴う「味わい」に触れたのだ。
その無垢な喜びに、私の胸まで温かいもので満たされていくよう。彼が「美味しい」と感じることで、私もまた、その幸福の味を分けてもらっている。食事の時間が、生まれて初めて待ち遠しいものに変わった。
ある日の午後には、手懐けた森の小鳥を書斎の窓辺に招いた。
「シルヴァン様、こちらへ」
私の指に止まる小さな命に、彼の指先をそっと重ねさせる。
途端に、私の世界に響き渡ったのは、ただの鳥のさえずりではなかった。私の耳は、いつでも鳥の声を聞くことができる。けれど、これは違うのだ。小さな心臓の命の鼓動、風を切る羽の微かな震え、その魂が放つ喜悦の響き。耳を通せず、魂に直接流れ込んでくる、生命の「音楽」。
それは、音を持たないシルヴァン様が、その代償に得た風の精霊を通して常に感じているはずの世界の旋律。彼が傍にいるからこそ、私にも聞こえる奇跡の音だった。
私がその調べにうっとりと目を閉じていると、シルヴァン様は懐から小さな竪琴を取り出す。彼は小鳥に触れたまま、もう片方の手で弦を爪弾いた。
風の精霊が奏でる清らかな旋律が、今度は私達の世界で重なり合う。シルヴァン様は、自分が奏でるその音色を、魂で聞く私の感覚を通して、初めてご自身で「聞いた」のだ。
想いが音となって溢れるような、熱を帯びた響きで彼が呟く。
「……君に、届けたかった音だ」
彼の瞳は、夜露に濡れた青い薔薇のように潤んで見えた。
私達は、そうしてようやく理解に至る。
私達の力とは、失われたものが入れ替わるような単純な奇跡ではないのだと。味を知らない私が、彼の「味わう心」の扉を開ける鍵となり、音を知らない彼が、私の魂に「生命の音楽」を教える扉を開ける鍵となる。二人で一つになって初めて、この世界の本当の豊かさに触れられるのだ。私達は、互いの欠けた部分を補い合う、唯一無二の半身だった。
屋敷はいつしか、温かい空気に満ちていた。シルヴァン様は少しずつ言葉を発するようになり、私も心の底からの笑顔を見せるようになっていく。互いの欠落は、二人でいる時だけ、奇跡のように満たされる。私達はもはや、半身を分け合った魂そのものだった。
しかし、幸福な時間は、永遠には続かない。
「心を閉ざしたシルヴァンを変えた謎の令嬢」。私達の噂は、王都の社交界にまで届いていた。そのほとんどは好意的なものだったが、精霊騎士団の副団長バルトロメだけは、苦々しい思いでその報告を聞いていたようだ。
(あの忌まわしい精霊の力を、女一人が変えただと? 制御不能な化け物が、さらに未知の領域へ踏み込むなど、断じて許せん)
シルヴァン様の強大な力への嫉妬と、制御できないものへの恐怖。バルトロメの心に宿る闇は、数週間後に迫った王宮主催の「精霊顕現の儀」で、最も卑劣な形で牙を剥こうとしていた。
式典当日。
きらびやかな装飾が施された王宮の広場は、大勢の貴族たちで埋め尽くされている。世話役として同行した私は、人混みに慣れないシルヴァン様の傍らに、ぴったりと寄り添っていた。
「大丈夫ですか?」
私が唇をゆっくり動かすと、シルヴァン様はこくりと頷き、「君がいるから」と、私にだけ聞こえるような声で言った。その言葉だけで、私の心は満たされる。
式典は厳かに進行し、やがてシルヴァン様の番が来る。
彼が広場の中央へ進み出るのを、私は固唾を飲んで見守る。シルヴァン様が天に手をかざし、祈りを捧げた、まさにその時。群衆に紛れたバルトロメが、懐から取り出した小さな黒笛を、そっと口に当てるのが見えた。人間の耳には聞こえない、甲高い不協和音。それは、精霊の共振だけを狂わせる禁断の魔笛の音色。
「――っぐ!」
シルヴァン様の表情が、激しい苦痛に歪む。
彼の制御を離れた膨大な魔力が暴走し、足元からすべてを切り裂くような破壊の暴風が渦を巻き始めた。空はにわかにかき曇り、広場は阿鼻叫喚の地獄と化す。
「きゃあああ!」
「嵐だ! シルヴァン卿が暴走したぞ!」
私の目に映ったのは、悲鳴を上げて逃げ惑う貴族たちと、あまりの力の奔流に近づくことすらできない騎士たちの姿だった。
バルトロメが偽りの正義を叫ぶ。
「取り押さえろ! 早くしろ!」
暴風の中心で、シルヴァン様は両膝をつき、己の中で荒れ狂う力に必死に耐えている。その灰色の瞳からは、とうに光が消えかけていた。
絶望的な状況の中、私は、ただ一人。まっすぐに、嵐の中心にいる彼だけを見つめていた。
(シルヴァン様……!)
私の小さな叫びは、轟音にかき消され、誰にも届かない。
騎士たちが逡巡の末、剣の柄に手をかけるのが見える。誰かが絶望的に呟いた。
「もはや卿を止めるには、命を奪うしか……」
その言葉が、私の中で最後の引き金を引いた。
違う。彼は暴れたいわけじゃない。苦しんでいるだけだ。助けを求めて、声なく叫んでいる。
「おやめなさい!」
制止を振り切り、私は嵐の中心に向かって駆け出した。護衛の騎士が伸ばした手をすり抜け、ただ一心に、渦巻く風の中へ。
「リナ様! お戻りください!」
「危険だ!」
背後で叫ばれる声も、もはや私の耳には届かない。
風の刃が、私の豪奢なドレスを容赦なく切り裂き、柔らかな頬を朱に染める。常人であれば一瞬でその身を引き裂かれるであろう暴風の中を、私は、ただ前だけを見据えて進んだ。シルヴァン様がくれた温もり。初めて感じた「美味しい」という幸福。初めて聞いた「音楽」という歓び。その全てが、今、私を突き動かすたった一つの力だった。
満身創痍になりながら、私はついに暴風の中心、膝をついて喘ぐシルヴァン様の元へたどり着く。
彼の瞳は虚ろで、精霊の力に意識を喰われかけていた。もはや、目の前にいるのが誰かすら認識できていないようだ。
「シルヴァン様!」
私は叫んだ。もちろん、彼に声は届かない。嵐の轟音で、誰の耳にも届かないのだ。
それでも、私は覚悟を決めた。
震える両手で彼の手を握りしめる。祈りが通じたかのように、世界から一切の色と形が消えた。
これまで経験したことのないほどに強く、鮮烈な感覚の奔流。もはや交換などという生易しいものではなく、魂そのものが混じり合う、完全な同調。
私の意識に、シルヴァン様の十四年分の孤独が流れ込んでくる。音のない世界の絶対的な静寂。強大な力を畏怖され、誰にも理解されない悲しみ。そして今、この瞬間の、己が己でなくなっていく激しい苦痛と恐怖。さらに、私の耳を通して、魂を直接揺さぶる魔笛の不協和音が、彼の精神をも苛んでいた。
あまりの激流に、私の精神は悲鳴を上げた。意識が千切れ飛びそうになる。けれど、私は歯を食いしばり、決してその手を離さなかった。
一方、シルヴァン様の苦痛の闇には、温かな光が差し込んでいるのを、私は感じていた。
それは、私の純粋で、ひたむきな愛情の光。彼と過ごした日々の、陽だまりのような記憶。初めて感じたスープの優しい味。初めて聞いた小鳥の愛らしいさえずり。そして何より、私の心の声が、彼の失われた聴覚を飛び越えて、直接魂に響き渡っているのが分かった。
『あなたを、失いたくない』
『お願い。あなたの痛みを、半分ください』
そのひたむきな願いが、暴走する風の精霊シルフの核に届いた。それは、かつて瀕死の少年だったシルヴァン様が、生きるために精霊と契約した時の「生きたい」という純粋な願いと、同じ響きを持っていた。
荒れ狂っていた風が、私達を中心に、まるで母親に抱かれた赤子のように、急速に凪いでいく。すべてを破壊し尽くさんとしていた嵐は嘘のように消え去り、あとには静寂と、傷つきながらも固く手を握り合った私達の姿だけが残されていた。
シルヴァン様が、ゆっくりと顔を上げる。
その灰色の瞳には、確かな光が戻っていた。彼は、自分を必死に抱きしめる私を見つめる。嵐の後の静寂に落ちる雫のように、かろうじて形になった声で、私の名を呼んだ。
「……リナ」
意識を取り戻した彼が、最初に紡いだ言葉だった。
バルトロメの陰謀は、白日の下に晒された。シルヴァン様を救った私の奇跡的な力と、何より、同調によって私を介し魔笛の不協和音を魂で「聞いた」シルヴァン様の証言が、動かぬ証拠となったのだ。
***
数ヶ月後。
シルヴァン様の屋敷の庭は、見違えるように手入れが行き届き、色とりどりの花が咲き誇っていた。
事件の後、シルヴァン様は騎士団の地位を丁重に返上。私もクレマチス伯爵家には戻らず、この丘の上で、彼と共に穏やかな日々を送っている。
私達の感覚は、元には戻らない。私の舌は味を知らず、彼の耳は音を聞かないままだ。
けれど、私達はもう、決して孤独ではなかった。
「さあ、焼き上がりましたわ」
私がテーブルに置いたのは、艶やかな焼き色のついたアップルパイ。シルヴァン様が、少し照れくさそうに、私と同時にパイにフォークを突き立てる。
生命ある果実に二人が触れた瞬間、彼の口の中に、林檎の甘酸っぱさと、バターの芳醇な味わいが広がったのを、私は自分のことのように感じた。
「……美味しい」
彼は、心の底から幸せそうに微笑む。
その笑顔を見ながら、私はシルヴァン様の大きな手を取り、そっと自分の胸に当てた。トクン、トクン、と響く穏やかで温かい心臓の鼓動が、彼の手のひらに伝わっていく。
「これが、今の私の気持ちの『音』ですわ」
シルヴァン様は目を閉じ、その愛おしいリズムに静かに耳を澄ませてくれた。
言葉を交わさずとも、触れ合うだけで、互いの世界のすべてを分かち合える。
風が、あの日のように丘を渡り、二人の傍らで咲く青い薔薇を優しく揺らす。シルヴァン様は私の肩を抱き寄せ、その唇に、そっとご自身の唇を重ねた。
味も、音も、言葉もないキス。
けれど、それは世界のどんなものよりも豊かで、幸福な味わいと、美しい音楽に満ち溢れていた。