エッセイ「国宝が描く、生き続ける愛と犠牲」
エッセイ「国宝が描く、生き続ける愛と犠牲」
お盆休みの最終日、私は清水のドリームプラザへ映画を見に行った。ここを訪れるのは十年以上ぶりのことだった。三津子が存命のころ、休みの前日のレイトショーによく二人で足を運んだ場所である。懐かしい思いがあふれる中、選んだ作品が映画『国宝』だった。
劇場を出た瞬間、胸の奥に残響していたのは、春江(高畑充希)が放った一つの言葉だった。「たくさん稼いで、劇場を建ててあげる。きくちゃんが主役よ」「私が一番のご贔屓になって、特等席で見るから」――このセリフを聞いたとき、なぜか涙がスーッと出た。それは、単なる恋人の別れの言葉を超えて、愛の本質を問いかける鋭い刃のような響きがあったからだ。
喜久雄(吉沢亮)の輝かしい歌舞伎人生を描いた作品において、春江の存在は一見脇役のようでありながら、実は物語の深層を貫く重要な軸となっている。彼女の選択は、近松門左衛門の傑作『曾根崎心中』のお初と徳兵衛の純愛と驚くほど呼応しながら、現代における愛の形を提示している。春江の決断を『曾根崎心中』との対比で読み解き、『国宝』が描く愛と芸の関係性について考えてみたいと思う。
・『曾根崎心中』の愛の形―死による永遠の結びつき
まず、『曾根崎心中』の物語を振り返ってみよう。元禄16年(1703年)に実際に起きた心中事件を題材にした近松の浄瑠璃は、醤油屋の手代徳兵衛と堂島新地の遊女お初の悲恋を描く。徳兵衛は友人に騙され金を騙し取られ、お初との結婚の約束も果たせず、名誉も失う。二人は現世での結ばれない愛を、死によって永遠のものにしようと決意し、曾根崎の森で心中を遂げる。
映画『国宝』では、この『曾根崎心中』が重要な演目として登場する。喜久雄がお初のセリフの稽古を受ける場面で、師匠の小野川万菊(役所広司)が激しい指導を行う。「あと鐘一つで命を絶つ気持ちが表現できていない」と厳しく叱責される喜久雄の姿は、単に技術的な演技指導を超えて、死への覚悟とは何かを問いかける深刻な場面となっている。この指導の厳しさは、歌舞伎における感情表現の奥深さと、演じる者に要求される精神的な深度を象徴している。
この物語の核心は、愛する人のために自らの命を投げ出す崇高な自己犠牲にある。お初は徳兵衛の名誉を守るため、彼と運命を共にすることを選ぶ。徳兵衛もまた、お初への愛を貫くために死を選ぶ。二人の愛は、現世の制約や社会の理不尽に屈服することなく、死という究極の選択によって純粋性を保つのである。
万菊の厳しい指導が示すように、この「死への覚悟」を舞台で表現することは並大抵のことではない。喜久雄は稽古を通じて、ただ死を演じるのではなく、愛のために死ぬ気持ちの真実を理解しなければならない。それは春江との関係における彼自身の選択とも深く関わってくる問題であった。
しかし、この愛の形は同時に「現世での添い遂げを諦める」ことでもあった。二人は生きて共に歩む未来を放棄し、死の瞬間にのみ真の結びつきを見出した。それは美しくも悲しい選択であり、江戸時代の観客の心を激しく揺さぶったのである。
・ 春江の選択―生きて支える愛の決意
一方、映画『国宝』の春江が示した愛の形は、『曾根崎心中』とは対照的でありながら、本質的には同じ崇高な自己犠牲の精神を宿している。
春江と喜久雄は長崎での幼なじみであり、互いの背中に対の入れ墨を刻むほど深い絆で結ばれていた。しかし、喜久雄が歌舞伎の世界で頭角を現し始めた時、春江は重要な決断を下す。彼のプロポーズを受け入れる代わりに、「私が一番のご贔屓になって、特等席で見るから」と告げ、自ら身を引くのである。
この選択は、愛する人の芸を守るための深い洞察に基づいている。春江は理解していたのだ――喜久雄にとって歌舞伎は単なる職業ではなく、魂そのものであることを。もし自分が彼の傍にい続ければ、その純粋な芸への献身に微細な翳りを落とすかもしれない。だからこそ彼女は、妻としてではなく、最も理解ある観客として彼を支える道を選んだのである。
「たくさん稼いで、劇場を建ててあげる」という言葉には、単なる経済的支援を超えた深い意味が込められている。劇場は芸を披露する聖なる空間であり、春江は喜久雄のために理想的な舞台を創造しようとしているのだ。それは彼女なりの愛の表現であり、現実的でありながら詩的な誓いでもある。
・二つの愛の共通点と相違点
『曾根崎心中』のお初と『国宝』の春江は、愛する人のために自らの人生を捧げるという点で共通している。しかし、その方法は正反対である。
お初と徳兵衛は「死による永遠の結びつき」を選んだ。彼らの愛は一瞬の純粋性の中で完結し、物語として後世に語り継がれることになった。一方、春江は「生による持続的な支援」を選んだ。彼女の愛は時間の経過とともに育まれ、喜久雄の芸の成長と共に深化していくのである。
この相違は、それぞれの時代背景と価値観の違いを反映している。江戸時代の『曾根崎心中』では、社会の制約が厳しく、身分を越えた愛は現実的に不可能だった。死こそが唯一の自由であり、純愛を貫く手段だったのである。
対して現代の『国宝』では、春江は経済的自立と社会参加の可能性を持っている。「たくさん稼いで」という言葉が示すように、彼女は自らの力で生計を立て、愛する人を支援することができる。これは現代女性の経済的・社会的地位の向上を背景とした、新しい愛の形なのである。
・舞台上の二人三脚と現実のシンメトリー
『国宝』の真に秀逸な点は、舞台で演じられる演目と現実の人間関係が絶妙なシンメトリーを描いていることである。喜久雄と俊介(横浜流星)が舞台で見せる息の合った演技は、まさに「二人三脚」と呼ぶにふさわしい完璧な調和を見せる。
しかし皮肉なことに、この舞台上の調和は、現実では春江を巡る複雑な三角関係によって支えられている。春江は喜久雄を愛しながらも俊介と結婚することを選び、歌舞伎の世界に深く関わり続ける道を見出した。この選択により、彼女は喜久雄と俊介の両方を支える存在となり、二人の芸の向上に寄与することになる。
舞台では敵対する役を演じることもある二人が、現実では一人の女性を通して結ばれている構造は、歌舞伎の「虚と実」「表と裏」の美学を見事に体現している。春江の存在は、二人の競争心を健全な形で刺激し、互いを高め合う関係を築く触媒となっているのである。
さらに興味深いのは、舞台で演じられる古典作品の多くが、恋愛と別れ、犠牲と美を主題としていることである。『曾根崎心中』もその一つであり、喜久雄が舞台で演じる徳兵衛の心境と、現実で春江を想う気持ちは微妙に重なり合う。芸が人生を映し、人生が芸を深める――このような相互関係こそ、歌舞伎という芸能の本質なのかもしれない。
・入れ墨という永遠の絆
春江と喜久雄が若い頃に刻んだ対の入れ墨は、二人の関係を象徴する重要なモチーフである。この入れ墨は、『曾根崎心中』で徳兵衛とお初が交わした愛の誓いと同様の意味を持つが、その後の展開は大きく異なる。
お初と徳兵衛の愛の誓いは心中によって完結したが、春江と喜久雄の入れ墨は生涯にわたって二人の身体に刻まれ続ける。春江が俊介と結婚し、表面上は喜久雄から離れても、この入れ墨は消えることがない。それは過去の愛の証明であると同時に、現在も続く深い絆の象徴でもある。
この入れ墨の存在は、春江の選択がただの諦めや妥協ではなく、より高次な愛の形であることを示している。彼女は喜久雄を諦めたのではなく、彼を愛し続ける方法を変えたのである。肌に刻まれた図柄が永遠に残るように、彼女の愛も形を変えながら永続するのである。
・国宝としての芸と支える愛
映画のタイトル「国宝」は、喜久雄が最終的に獲得する最高位の称号を指している。しかし、この称号は単なる個人の栄誉を超えて、日本文化の精髄としての価値を帯びている。喜久雄の芸は、もはや個人の表現ではなく、国家的な文化遺産となるのである。
国宝への道のりは、しかし、決して平坦なものではなかった。喜久雄が三代目を継ぐ際、子供に語った「悪魔と取引をした」という言葉は、芸を極めることの重い代償を暗示している。美しさを追求することは、時として人間としての普通の幸せを犠牲にすることでもある。映画の中で古老の役者が語る「美しさを求めて・・・いまはそれを止めたとき楽になった」という言葉は、芸の世界に生きる者の宿命的な苦悩を端的に表現している。
この言葉は、春江の選択にも深い意味を与える。もし彼女が喜久雄の傍にい続けたなら、彼は「悪魔との取引」を避けることができたかもしれない。しかし、それは同時に、彼の芸が国宝の域に達することもなかったかもしれない。春江は、愛する人が「美しさを求める」道を歩み続けることができるよう、自ら距離を置いたのである。彼女の愛は、喜久雄が芸の高みを目指すことを妨げない形で表現されている。
このような崇高な芸の完成には、表舞台に立つ者だけでなく、それを支える多くの人々の献身が必要である。春江の役割は、まさにそのような「見えない支援者」の代表と言える。彼女が築こうとする劇場は、喜久雄の芸を披露する場であると同時に、観客と芸能者を結ぶ聖なる空間でもある。
「私が一番のご贔屓になって、特等席で見るから」という春江の言葉は、単なる観客以上の存在になることを示している。最も理解ある観客として、最も愛情深い批評者として、彼女は喜久雄の芸の完成に寄与し続けるのである。この関係は、芸能者と支援者の理想的な形を示している。
・現代における愛の多様性
春江の選択は、現代社会における愛の多様性を象徴している。従来の「結婚して家庭を築く」という愛の形だけでなく、「異なる立場から支援し続ける」という愛の形も存在することを示している。
現代社会では、キャリアを重視する女性、芸術に人生を捧げる人々、そして彼らを支援する人々など、様々な生き方が認められている。春江の選択は、このような多様性の中で、自分らしい愛の形を見出した一つの例と言える。
彼女は喜久雄の妻になることで満足するのではなく、彼の芸を最も深く理解し、最も効果的に支援できる立場を求めた。これは現代的な価値観に基づく、自立した女性の選択である。
・芸能の世界における虚実の美学
『国宝』が描く歌舞伎の世界は、虚と実、表と裏が複雑に絡み合う空間である。舞台上では虚構の物語が演じられるが、その虚構が観客の心に真実として響く。喜久雄の人生もまた、このような虚実の境界線上にある。
春江の存在は、この虚実の美学を体現している。彼女は現実の人物でありながら、喜久雄にとっては理想化された存在でもある。遠くから見守る彼女の姿は、まるで舞台上の理想的な恋人のように美しく、同時に手の届かない存在でもある。
この距離感こそ、歌舞伎の美学に通じるものがある。最も美しい瞬間は、手に入れることのできない瞬間であり、最も深い愛は、表現されない愛なのかもしれない。春江の愛は、まさにこのような歌舞伎的な美学を体現していると言える。
・―生きて支える現代版心中
映画『国宝』の春江が示した愛の形は、『曾根崎心中』の現代版と呼ぶことができる。お初と徳兵衛が死によって永遠の愛を誓ったように、春江は生きることによって永続的な愛を誓った。
「たくさん稼いで、劇場を建ててあげる。きくちゃんが主役よ」「私が一番のご贔屓になって、特等席で見るから」――この言葉には、死ぬほどの愛を生きることで表現する、現代的な覚悟が込められている。春江は心中によって愛を完結させるのではなく、生涯にわたって愛を育み続ける道を選んだのである。
舞台上で演じられる二人三脚の美しい調和と、現実の複雑な人間関係のシンメトリーは、人生と芸術の深い関係を暗示している。喜久雄の芸が国宝と呼ばれる高みに達したのは、彼の才能と努力だけでなく、春江のような理解者の存在があったからこそである。
現代社会において、愛の形は多様化している。結婚という制度に縛られない愛、距離を保ちながら支え合う愛、そして生涯にわたって育まれる愛など、様々な選択肢が存在する。春江の選択は、その中でも特に美しく、崇高な形の一つを示している。
映画『国宝』は、表面的には一人の歌舞伎俳優の成功物語であるが、その深層には現代における愛の本質的な問いが込められている。真の愛とは何か、支えるとはどういうことか、そして芸術と人生はどのように関わり合うのか――これらの問いに対する一つの答えが、春江の生き方に示されているのである。
三津子とはよく「犠牲的精神」について話し合ったことがあった。彼女は「犠牲的精神」を全面的に否定する立場だった。私は「美徳と犠牲的精神」として肯定派だった。きっとこの映画を鑑賞した後、激しい議論を展開していただろうと思う。春江の選択を犠牲と見るか、自立した愛の形と見るか――私たちの議論は尽きることがなかっただろう。
劇場を出た後も心に残響し続ける彼女の言葉は、観客それぞれの人生における愛の形を問いかけている。それは『曾根崎心中』が江戸時代の人々に与えた衝撃と同様の、深い感動と思索を現代の私たちに与え続けているのである。
懐かしさが胸を満たす中で、早くあの世で三津子と再会し、この映画について語り合いたいという思いが込み上げてくる。彼女ならきっと、春江の選択にどんな鋭い洞察を示してくれるだろうか。
そして今思えば、春江のセリフに涙したのは、三津子との思い出がそうさせたのかもしれない。愛する人を見守り続けること、距離を置きながらも心の中で支え続けること――それは私自身が今、三津子に対して抱いている気持ちと重なっていたのだろう。