軋む扉
本作は、暴力・依存・心の傷といった繊細なテーマを含んでいます。登場人物たちの苦しみや過去の描写の中に、読者の心をざらつかせるような場面が含まれる可能性があります。ご自身の心と対話しながら、無理のない範囲でお読みください。
あの日から、少しだけ時間が経った。
それでも僕は変わらなかった。いや、変われなかった。
頼まれごとは断らず、誰かが困っている姿を見れば手を差し伸べる。
掃除、資料運び、委員会の雑務、時には誰かの失くしもの探しまで。
自分ができることはなんだってした。誰かの「助かった」の声に
心が満たされる気がした。
でもそれは、温かさじゃなかった。
ひび割れた心の隙間に、冷たいコンクリートを流して固めているだけだった。
周囲の誰もが、僕を「優しい人」だと呼んだ。
僕は、その言葉に微笑んで頷いた。
胸の奥は空っぽだった。
放課後の教室。僕はまたプリントを人数分に分け、配布用にまとめていた。
雑談するクラスメイトの中で、一人、静かに動き続ける自分。
「......遠野くん」
不意に呼び止められて振り返ると、そこには斎藤さんが立っていた。
「ねえ、最近.......無理してない?」
その声色は、いつもと違う。
戸惑いと、どこか温かい迷いが混じっていた。
「無理なんてしてないよ。」
僕はすぐにそう答えた。
「でも、あなた.......最近ちょっと怖いくらい全部やろうとするじゃん。
手、止まってないよ。」
「好きでやってるから。」
「それは前にも聞いた事ある。」
斎藤さんの目が、じっと僕を見ていた。
あの日とは違う瞳。少し潤んでいるようにも見えた。
「遠野くん....本当に大丈夫なの?」
’’本当に大丈夫なの?’’
その言葉は、誰かに問われるには少し遅すぎたのかもしれない。
「うん、大丈夫」
僕は笑ってみせた。苦しくもなかった。ただ、そうするしかなかった。
斎藤さんがなにか言いかけたような顔で視線を伏せた。
「そう.......なら、いいけど。」
そう言って彼女は背を向けて歩き出した。
一瞬、彼女の背中が少しだけ、悲しそうに見えた。
「本当に大丈夫なの?」
その言葉が、胸の奥で何度も繰り返される。
誰かに聞かれたかった。でも、同時に誰にも気づかれたくなかった。
僕は正しい自己犠牲をしてる。
そう思っていないと、崩れてしまいそうだった。
それからまた少し経った。変わらず、人のために動く。しかし、日々誰かのために酷使していた僕の体はとうに限界を超えていた。
いつも通り掃除を始める。ほうきを取ろうと手を伸ばすとその手は空を切った。
なぜだろう、と思ったときには視界がぐわん、と歪む。そうして僕はそのまま意識を失った。失う直前、斎藤さんの心配するような声がした気がした。
【斎藤理香の独白】
最初はただの「いいひと」だと思ってた。
遠野くんは何でも引き受けるし、誰にでも優しい。
断ることを知らない人。
でも、ある日ふと気がついた。
彼の「ありがとう」の受け取り方が、切実すぎることに。
先生に「助かった」と言われたときの微笑み、
クラスメイトに「ありがとう」と言われた後のあの、ほんの一瞬の
.......空っぽな目。
それから私は彼によく突っかかるようになった。
そして、その自己犠牲を少し馬鹿にした。
彼に怒ってほしかった。怒りがない人間なんていないから。
それでも彼は怒らなかった。それどころか、彼は笑ってみせた。
私はその笑顔が嫌いだった。
彼が、誰かのために動くたびに、心のどこかがざわついた。
彼は我慢している?いや、あれが素なの?
いつしか私は彼のことばかり考えてしまっていた。
どちらにしろ、私には彼が壊れかけているように見えた。
彼の心が壊れてしまう前に、どうにかしてあげたかった。
それから、彼の自己犠牲はエスカレートしていった。
私から見た彼はもう、壊れていた。手遅れだって、心の中ではわかってた。
それでも私は声をかけた。
「遠野くん......本当に大丈夫なの?」
遠野くんは言った。
「うん、大丈夫」
その時の遠野くんの顔は笑っていた。けれど、私はその笑顔が怖かった。
人はここまで苦しそうな笑顔ができるんだって。
本人は気づいてない。自分が苦しんでいることから目を背けている。
それからまた少し経った時、彼は倒れた。
私はたまたま近くにいて、彼を保健室に連れて行った。
ベッドに横たわる彼の顔を見ながら考えを巡らす。
何があなたをそこまで苦しめているの?
私は気になってしまった。しかし、それはただの好奇心じゃない。
彼を救いたい。それだけだった。
このお話はフィクションです。
読了ありがとうございます!今回のお話から徐々に斎藤理香が深く関わってくるようになります!是非、次回のお話もお楽しみに!