自己犠牲
本作は、暴力・依存・心の傷といった繊細なテーマを含んでいます。登場人物たちの苦しみや過去の描写の中に、読者の心をざらつかせるような場面が含まれる可能性があります。ご自身の心と対話しながら、無理のない範囲でお読みください。
昨日、傘を貸した少女のことが頭から離れなかった。
名前も知らない。声は、どこか懐かしさを感じたけれどそれだけだ。
でもーーそんなことよりも、
彼女が喜んでくれたこと。助けになれたこと。
それが僕にとっては何より大切なことだった。
僕の存在が、誰かの役に立った。
その事実が僕の心を少しだけ暖かくする。
あの人にはならない。人を傷つけるような人には。
その気持ちだけが今の僕を形作っているから。
支度をして駅へ向かう。
いつもと同じ電車に乗る。しかし、あの子は電車には乗ってこなかった。
それがどうしてだったのか知るのは、もっと後のことだった。
昼休み直前の教室。
担任が持ってきたのは、体育祭の備品リストと印刷された大量の配布資料。
「印刷室まで行って、分けて配って置いてくれると助かるんだけど.....」
周囲が一斉に視線を逸らす。
「え〜、めんどくさ......」と、そんな声を上げる生徒もいた。
その時、僕の口が勝手に動いた。
「僕がやりますよ。」
空気が少し和らいだ気がした。担任も「助かる」と笑った。
配布資料の束を抱えて廊下に出る。
誰かに感謝されることに、少しだけ安心している自分がいた。
でもーー
「またやってるのね」
背後からナイフを刺されたような感覚がした。
振り返ると、斎藤さんがこちらを見ていた。
腕を組み、呆れたような顔。
「あなた、ほんと便利よね。頼めば断らないし、嫌な顔一つしない。
.....それ、他人からしたらただの都合のいい人よ?」
「そういうつもりじゃなくて......」
「じゃあどういうつもり?ありがとうって言われたい の?
それとも、偉いねって言われたいの?自分の存在に意味が欲しいの?」
そんな言葉が僕に突き刺さる。
僕は何も言い返せなかった。ただ、苦笑いを浮かべていた。
「その笑い方、本当に嫌い。」
そう吐き捨てて、斎藤さんは踵を返した。
残された僕の手には、まだ重たい紙の束があった。
夕暮れ時、薄暗くなった自室の窓から差し込む淡い光の中、僕は机に向かっていた。どこか落ち着かない気持ちを抱えたまま、ぼんやりと窓の外を見ていると、廊下から足音が近づいてきた。
「晴、ちょっといいか?」
普段僕に一切干渉してこない祖母の声に僕は少し驚きながらも頷いた。
祖母は静かに座り、目を細めて言った。
「お前のことを見ているとね.....昔の悟を思い出すんだ。あの子もお前と同じように、人のために動く子だった。」
悟とは僕のお父さんのことだ。僕は言葉を飲み込みながら聞いていた。
「でもな、自己犠牲っちゅうのは、ただの我慢じゃない。誰かのために動けることは素晴らしいことだが、同時に自分を大事にすることを忘れちゃいけない。
お前は、自分を傷つけてまで誰かを助けようとしてないか?」
祖母はそれだけ言って、静かに部屋を出ていった。
ドアが閉まる音が、やけに重く感じられた。
僕はゆっくり立ち上がって、窓の外を見た。
暮れかけた空に、うっすらと雲が広がっている。
「昔の悟を思い出すんだ。」
その言葉が、ずっと胸の奥で鈍く響いている。
人のために動けるのは素晴らしいこと。
けれど......。
「お父さんと同じ.....。」
そう呟いた自分の声に嫌気が差した。
父はーー僕達家族を傷つけた。
母を追い詰め、僕を壊した。僕が見てきたあの人は、自己犠牲なんてしていなかった。自分の欲望のままに何かを壊していた。
それとなにが似ているんだ。自己犠牲をしていたとしてもそれはただの逃避だ。
都合よくいい人を演じて、自分を正当化していただけに過ぎない。
だったら僕はーー?
あの人にならないように、母に言われた通り、僕は人のために動いていた。
でもその自己犠牲が父と同じなら、僕がやっていることも父と同じなのか?
わからない。僕にはわからなかった。あの人にならないために生きてきた自分が
あの人にそっくりだなんて。到底受け入れられることではなかった。
それでも、僕は何も壊していない。そうだ、壊していない。それが僕とあの人のーー父との決定的な違いだ。僕は誰かを傷つけてなんていない。
怒鳴りもせず、責めもせず、ただ手を差し伸べてきた。
だから、僕はあの人とは違う。そうでなければならない。
......僕は、正しい自己犠牲をしているんだ。
自分に言い聞かせるように、胸の奥でそう呟いた。
けれどその言葉は、まるで冷たい霧のように、しんと胸の中に広がっていくだけだった。
このお話はフィクションです。
ここまで読んでくださっている読者の皆さん!本当に感謝しかないです!次のお話からどんどん物語の山場に入っていくつもりなので、ぜひ!次回も読みに来てください!