呪い
本作は、暴力・依存・心の傷といった繊細なテーマを含んでいます。登場人物たちの苦しみや過去の描写の中に、読者の心をざらつかせるような場面が含まれる可能性があります。ご自身の心と対話しながら、無理のない範囲でお読みください。
面会室は思っていたより明るかった。
清潔で、無機質。音がすぐに吸い込まれていくような空間。
ここもまた、静かだった。
ガラス越しに、母が座っていた。面会用の電話を握るその手は少し震えていた。それでも、僕を見た瞬間、母はふわりと笑った。まるで何もかも忘れてしまったかのように。
「晴......会いに来てくれたのね。ありがとう......ほんとに、ありがとう.....」
声は震えていた。目は潤んでいて、どこか幸せそうだった。
僕は無言で頷く。
「変わってないわ....高校生になっても、あの頃と同じ目をしてる......」
母の声は優しかった。けれどその優しさにはどこかー気味の悪いねばつきがあった。
「お母さんはね、貴方のことを毎日考えていたの。
朝も、夜も、眠れないときも、ずっと...」
母は僕にそんな言葉を投げかけてくる。
「やっぱり、私には貴方しかいないわ。」
その言葉が、胸のどこかを締め付ける。
母は父からのDVの影響で精神に異常をきたした。その結果、過剰な依存を僕に見せるようになった。母が父を殺したあの日から、僕はその依存を振り払えずにいる。それはまるで、呪いのようだ。
「お父さんのことは覚えてる?........いや、もう思い出 さなくていいの。あんな人のことは忘れて。私と一緒 にいてくれたらいいの。
ね、晴。貴方がそばにいてくれたら、それだけで私は生きていけるの。」
ガラスの向こうから届く母の声は、懐かしくて、苦しくて、心の奥を揺らしてくる。
僕はまた無言で頷く。僕は母のことを見捨てることなんてできない。
僕がいなくなってしまったら、今にも死んでしまいそうだったから。
自分がその呪いに苦しめられていることから目を背けて。
母がガラスに向かって手のひらを当てた。僕はその手にぴったり重なるようにガラスに触れた。
「また来るね...」
僕はそう言って面会室を後にしようとした。その時、僕の背中に向かって母が声をかけた。
「晴は、お父さんのようにならないよね?」
僕は振り向いて精一杯の笑顔でこう言った。
「お母さん、安心して。なるわけないよ、あの人には」
母はそれを聞いて満面の笑みを浮かべた。
......そうだ、僕はあの人のようにはならない。それだけは、心の底から言えた。
でもーー
その笑顔の奥にあるものから目を背けたのも事実だった。
施設を出ると、空は鈍色の雲に覆われていた。
遠くで雷鳴が響いている。降り出すのも時間の問題かもしれない。そう思った時には、ぽつぽつと雨が降り出していた。
僕は駅へと続く道を歩いていた。面会の後の空気は、いつも重たい。
それでも母の笑顔を見られたのなら、きっと良かったのだろう。
ロータリーを抜けたところで、ふと、見慣れた後ろ姿が目に入った。
肩まで伸びた髪に、くすんだ色のリュック。駅の前で傘もささずに立ち尽くしている少女。いつも電車で見かけるあの子だ。
名前も声も知らない。ただ、毎朝同じ電車に乗っている静かな子。
制服は少し濡れていた。
足元を見つめるその姿は、どこか頼りなさげに見える。
気づけば僕は、ポケットから折りたたみ傘を取り出して歩み寄っていた。
「これ、使ってもいいよ。」
僕はその少女に傘を差し出した。
少女は最初、申し訳なさそうにしていたが、やがてその傘を受け取った。
「ありがとうございます....後で、必ずお返しします。」
そう言って彼女は傘をさして行った。
「僕のこと気づいているのかな...」
そうでなければ後で返すなんて言えないだろう。
名前だけでも聞いておけばよかった。いや、そんなことよりもーー
あの子の声はどこかで聞いたことがあった。
電車で感じたように、僕達はどこかで会っていたのかもしれない。
そう考えてしまうほどに、僕の中の何かが騒ぎ立てていた。
これが僕達の最初の接点だった。
このお話はフィクションです。
3話目を読んでくださりありがとうございます!不定期とは言ったものの今は午後8時に投稿できるようにしています!しかし、平日はただの学生なもので毎日投稿は難しいと考えております。ですが、それでも読者の皆さんに楽しんでいただけるような作品にしていくつもりですので今後ともよろしくお願いします!ではまた、次のお話でお会いしましょう!