2-4:影と地脈
──夜が明けた。
空の端がわずかに白み始めるころ、霧を含んだ冷気が町の屋根を包み、通りの石畳には朝露が鈍く光っていた。
ライアスはイリナ町の宿屋で目を覚ました。昨晩は遅くまで地図と記録を見直していたが、それでも眠りは深かった。
朝の空気は、肺の奥まで刺さるような冷たさで、それでいてどこか甘く澄んでいた。ライアスは荷を整えると、イリナ町の周辺に点在する古い遺構や地脈の痕跡を調査するため、足を踏み出した。
(この街に何かが残っているなら、魔力の流れを見ればわかるはずだ)
午前中、彼は街の外れにある古い通りや、水路の傍を歩きながら、地脈の流れを読み取っていった。
(街の地下にも薄く魔力の筋が走っている。だが、ごく自然なものだ。人為的に操作された痕跡はない)
町の南側、少し外れた一角に、朽ちかけた教会があった。崩れかけた屋根と、蔦に覆われた外壁。誰も立ち入らないその建物に、彼は静かに足を踏み入れる。
床を踏むと、わずかに木材が軋む音がし、それと同時に乾いた埃が宙に舞い上がった。古い紙のような匂いが鼻をかすめ、空間そのものが長い眠りから目覚めたようだった。割れたステンドグラスの破片が光を受けて鈍く輝く。
(……地下に、空間の圧縮痕。ここに何かが埋まっている)
魔力を探る手を広げ、彼は床の継ぎ目に触れた。 微かに震えるような感触。長年放置された魔術封印の“外殻”のような構造だ。
(歪みまでは至っていないが……古代の術式体系に近い。時代の裂け目に置き去りにされた魔力の痕跡……。そんな印象を受ける)
ライアスは床から手を離し、短く息を吐いた。 ここでは深入りすべきではない。直感がそう告げていた。
ヒヨリ亭へ向かう道すがら、街の喧騒から離れ、並木道に差しかかった瞬間──足元から微かに伝わってくる温もりのような感覚に、ライアスは思わず足を止めた。
(……この空間そのものが、魔力の器のように整えられている)
血の気が指先に戻るような、不思議な温もり。 深呼吸したくなる空気の清らかさが、足元から胸へと広がっていく。
ただの“静けさ”とは違う──癒しと安定を根本から支えるような、揺るぎない気配。
ドアを開けると、錆びたベルが小さく音を立てた。その向こうに広がるのは、午前の光が差し込む温かな空間。薪の香りと焼きたてのパンの香ばしさが交じり合い、まるで時間の流れがゆるやかに変わったかのようだった。
窓際の席では、長耳のエルフの女性と、紅い髪の火魔族の少女が同じテーブルを囲んでいた。
少女──スィラ・フェルグレイアと名乗った火魔族は、橙色の瞳を輝かせながら、椅子に少しだけ背を預け、両腕を組んで座っている。
その尾が軽く揺れるたびに、微熱を含んだ空気がほのかに漂う。彼女の肌には紅色の鱗がわずかに浮かび、火山の民らしい威圧感をまといながらも、どこか場違いなほど整った空気に溶け込んでいた。
「……その森、ほんとに魔力が澄んでるの?」と、ぶっきらぼうな口調で尋ねるスィラに、エルフの女性は頷いた。
「ええ。けれど、澄みすぎてると逆に、何かあるんじゃないかって思っちゃうの」
そんな会話の応酬はぎこちないながらも、互いに拒絶は感じられず、相手の言葉を受け止めようとする意思がにじんでいた。
異種族であることを忘れたわけではない。ただ、それ以上に、対話が生まれていた。
それを見て、ライアスは思った。
(ここに……何か“癒しの核”がある。希望を繋ぐ場所なのかもしれない)
戦場では、風の音すら呪文に聞こえた。だがこの店では、木が軋む音すら、ただの静けさに感じられる。
その思考の余韻に浸りながら、彼はカウンター席の端に腰を下ろした。木目の温もりが、掌からゆっくりと沁みてくるようだった。 背後では椅子を引く音と、誰かの笑い声が重なり、どこか懐かしい、戦場にはなかった音が満ちていく。
(あの地脈の静けさ、料理の香り、会話の温度……。この店に満ちているものの正体を、言葉で定義するのは難しい)
それでも、確かなことがひとつあるとすれば──この場所は、皆の心を癒す“何か”を、確かに宿しているということだった。