2-3:焦土の記憶
──かつて、世界が崩れかけていた時のことだ。
焦げた風が吹き抜ける荒野。地面にはまだ熱を帯びた亀裂が走り、黒く焼け焦げた死体の中に、赤黒い霧のような魔力が漂っていた。
ライアスはその中心に立っていた。剣を引きずり、息は荒く、左の肩から血が滴っている。
──いつから、こんな風になったのか。
思い出すのは、戦場の始まりではない。終わりの、ほんの数日前──
最後に交わした仲間たちの言葉ばかりが、耳に残っていた。
「ライアス。あんたは最後まで、生き延びなさいよ」
声の主は、回復役だったメリア。
彼女の手はいつも暖かく、笑顔はどこか母性を感じさせた。
誰かが倒れるたび、真っ先に駆け寄り、決して泣かなかった。
血に染まりながらも、人の命をつなぐことだけを考えていた女性だった。
──その笑顔が、焼け爛れた大地の中でも消えずに残っていたことだけが、救いだった。
だが、その笑顔のまま、彼女は崩れ落ちたのだ。
魔族の毒呪を受け、仲間の治療を終えた直後だった。
その毒呪には、どこか異様な魔力の残滓があった。
それはセリディア王国軍の中でも情報が分断されていた、“あの集団”の痕跡── 〈紅月の残火〉。魔族の中でも、ごく一部の過激派により構成された、武装組織。 彼らは魔族こそが創世の正統な継承者と信じ、他種族を支配すべき存在と見なしていた。
土地を持たず、ノクスラディア魔王国からも拒絶された彼らは、各地で非合法な奇襲を仕掛けていた。
「……十分よ。もう、いいでしょ」
そう囁くように言って、メリアは静かに息を引き取った。
指先が力を失い、包帯がはらりと落ちたとき、ライアスは叫ぶことすらできなかった。
そのときの空は、不自然なまでに晴れわたっていた。
空が青ければ青いほど、地上の赤黒さは異様だった。
その空の下、次に倒れたのは──カイルだった。
「ライアス、いいか……聞け」
魔術師カイルは、地面に膝をつきながらも、周囲の状況を冷静に見渡していた。
左腕はすでに肘から先が焼け落ち、ローブは裂け、血が滴っている。だが、その眼差しだけは鋭く、思考の炎を灯し続けていた。
「この座標に、火力を集中させろ。……十秒後に、魔族の増援が出てくる。次で、大軍を分断できる。いいな、指揮はもうお前が取れ」
「カイル、お前は──!」
「いいや、俺の魔核はもう限界だ。詠唱すらできない。……だが、判断する頭だけは残ってる」
その声は、震えてなどいなかった。
カイルはいつも戦場で“先”を考える男だった。
仲間の配置、敵の動線、魔力の流れ──すべてを冷静に読み切って、最も合理的な選択を積み上げる。
だからこそ、ライアスたちは彼の言葉を信じて戦ってこられた。
だが今、彼の顔にはそれまでとは違う“感情”が滲んでいた。
「俺の残した術式、使えるものは全部使え。魔石の中にも新しい防壁陣が入ってる……生き延びろ、ライアス。今度こそ、お前が“導く側”に回れ」
その一言が、胸に突き刺さった。
自分はただの戦闘者だった。力で前を切り開くだけの存在。
“導く”などという言葉は、彼にとって遠いものだった。
だがカイルは、それを託した。
カイルは、自らの胸元に手を当てた。
残っていた魔力を、すべて術式に変換し、ライアスの懐へ転送した。
次の瞬間、辺りが白く光り、地鳴りのような爆音が戦場を揺るがした。
土煙が巻き上がり、視界が一瞬、白に染まる。
塵にまみれた視界の中、カイルの姿はすでに見えなかった。
「……また、守れなかった」
ライアスはそう呟いたが、声に感情は乗っていなかった。
焦げついた大地の上、剣を握る手にただ力を込める。
悔しさよりも、冷たい沈黙のほうが心に深く沈んでいく。
──そして最後に、バルド。
「ライ! さっさと下がれッ!」
豪快な怒声とともに、巨大な剣が魔物の群れをなぎ払う。
鉄の壁のように立ちふさがったその背中が、焼け焦げた空気を裂いた。
「後方から魔力の弾道が来てる! 避けろ、バルド!」
「ははっ、無理無理! 今のお前にゃ、俺の盾はまだ要るだろうがよ!」
──バカな男だ。
でも、その背中に命を預けた日々が、確かにあった。
バルドの巨体が、まるで盾のようにライアスを覆うように動いたその瞬間──
空から灼熱の光が降り注いだ。魔族の術士が放った破壊の魔弾が、真正面から彼の背中に直撃した。
「バルドォォッ──!」
爆風が吹き荒れ、耳をつんざく音が鳴り響く中、ライアスは吹き飛ばされ、地面を転がった。
目の前にいた男の姿が、煙の中に飲まれていく。
──焼けた金属の匂い。肉の焦げる臭い。
それでもなお、彼は最後の力を振り絞り、ライアスを守った。
「……お前は、生きて……誰かに、伝えてくれ……」
最期の言葉は、風にかき消されるほど小さな声だった。
ライアスは震える足で立ち上がった。
剣は手の中にあった。だが、その重みは戦うためのものではなく、背負うためのものへと変わっていた。
──三人とも、己の命を惜しまなかった。だがそれは、誰かが生きて語り継ぐことを信じていたからだ。
その“誰か”に、なってしまったのが、俺だった。
焦げつく大地の上で、ライアスは剣を握りしめ、天を睨んだ。 だがその瞳に浮かぶのは、怒りでも悲しみでもなかった。
虚無だった。
──戦争は、終わった。
それは唐突な終焉だった。
〈紅月の残火〉の本拠地が制圧され、各地で敗走が相次ぎ、戦線は崩壊。
戦勝報告とともに、鐘が鳴り、兵士たちは歓声をあげた。
だが、ライアスには“終わった”という実感など、どこにもなかった。
空はただ青く、地面は黒く、耳にはもう何の音も入ってこない。
──数日後。
彼は豪華絢爛な王城で表彰されていた。
王族たちが並び、貴族たちが整列し、国民が称える。
絢爛たる礼装の中、ライアスはひとり、ぼろぼろの服を着ていた。
左胸には、見覚えのない金色の勲章がぶら下げられていた。
「あなたの戦いが、この平和をもたらしました」
「あなたこそ、我が国の英雄です」
「名誉ある功績は、永遠に語り継がれるでしょう」
次々に差し出される手。恭しく頭を下げる者たち。
しかし彼の頭には、ただ一つの思いしか浮かばなかった。
(──お前たちは、何も知らない)
拍手が鳴るたびに、頭の奥が鈍く痛んだ。
称賛の声が重なるたび、仲間たちの最期の声がかき消されていく気がした。
(ただの人間を、武器として消費しただけだろう。道具のひとつとして、戦場に並べただけ)
“英雄”という言葉が、これほど空虚なものだったとは思わなかった。
あれほどの被害が出たにもかかわらず、〈紅月の残火〉の名は式典では一度も触れられなかった。
彼らが起こした侵攻や、民間人への魔術テロ、仲間を蝕んだ禁忌呪術。 そのすべてが“魔族の暴走”という一括りで片づけられた。
──まるで、最初から存在していなかったかのように。
夜。
彼は与えられた部屋で、灯りもつけずに窓辺に座っていた。
薄暗い部屋の隅で、勲章がかすかに光を反射していた。
ライアスはそれを手に取ると、無言で握り潰した。
厚い金属板が、ゆっくりと歪む。
そのまま床に投げ捨て、彼は顔を伏せた。
──その夜、夢を見た。
血塗れの戦場。焦げた空。
だがそこにはメリアの笑顔があり、カイルの声が響き、バルドの背中があった。
その幻影の中で──何かが脈打つ音が聞こえた。
それは、魔力だった。
ただの夢ではない。
かつて、戦場で目にした、〈紅月の残火〉が執り行った“儀式”。 紅い満月が天を照らす夜、その光と共鳴する特異な “魔力の純潮”を用い、魔族でも禁じられた呪紋陣を展開していた。
中心には犠牲者の血が注がれ、生け贄の命を媒体に、空間そのものの魔力の“流れ”を書き換える仕組みだった。
あのとき、空が震えた。 地脈の流れが反転し、風も重力も歪んだ。 兵の多くは、それが何かもわからず、ただ呪いのような不快感に身をよじった。
──ライアスは、その中心にいた。 そして、今夜の夢で感じた歪みは、あのときの揺らぎと酷似していた。
違う点があるとすれば──今回は“空間の軋み”が、より広く、深く、静かに世界を侵しているということだ。
〈紅月の残火〉の儀式は、ただの呪いではない。 魔力の大循環を撹乱し、異常な領域を創り出す“構造の干渉”だったのだ。
ライアスは拳を握った。あの歪みが、いつかこの世界を破滅に導くかもしれない。──それを止めるのは、歪みに触れた自分の役目だと、理解していた。
翌朝、ライアスは旅装を手に取った。
黒いローブ、剣、小さな地図と、道具袋。
かつて戦場を駆けた英雄は、誰に見送られることもなく、静かに城都を後にした。
彼の中にあったのは、名誉でも、功績でもない。仲間の声と、未解決の歪み、ただそれだけだった。
それが、《ヒヨリ亭》へと至る旅の始まりだった。