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2-2:名乗らぬ男

 その日は、しとしとと降る雨が、森の木々をしっとりと濡らしていた。

 空は重たい灰色に覆われ、午後の時刻とは思えぬほど周囲は薄暗く、吐く息がかすかに白むほど肌寒い。

 木々の葉を滑り落ちる雨粒の音、遠くで鈍く響く雷鳴──それらが、森に沈黙と緊張を添えていた。


 ぬかるんだ山道を、ひとりの男が無言で歩いていた。

 フード付きの黒いローブに身を包み、肩から胸元にかけては傷ついた軽鎧がのぞいている。

 雨に打たれしっとりと重くなったローブの裾が足にまとわりつき、革のブーツは泥に沈みながらも、男の歩みは一度も乱れなかった。

 その背筋には、風雨すら遠ざけるような、研ぎ澄まされた空気が漂っていた。


 ──そして、彼は扉の前に立った。


 木造の建物《ヒヨリ亭》。森の中にひっそりと佇むそのカフェの明かりは、雨にけぶる景色の中で、ぬくもりを放っていた。

 小さな窓から洩れる橙の光、カップを置くやわらかな音、客同士の穏やかな談笑。そのすべてが、この場所だけが異なる時間を生きているような錯覚を生む。


 キィ──


 木の扉が静かに開いた。ドアベルがからん、と乾いた音を立てた瞬間、店内の空気がわずかに揺れる。


 カウンターの端で丸くなっていた三毛猫、ぽん太が耳をぴくりと動かした。


「……にゃ?」


 ひよりがカップを片づけていた手を止めて、ゆっくりと入口を振り返る。リオとノエルも、動きを止めた。


 扉の向こうに立っていたのは、雨に濡れた長身の青年だった。フードを深く被っていて顔は見えない。だが、纏う空気には明らかにただならぬものがあった。


 男は店内を一瞥すると、無言のまま足を踏み入れた。その動きは静かで、しかしどこか獣のように研ぎ澄まされていた。床板がきしむ音すら、抑えられているように思えるほどだった。


 ノエルの身体が、ごくわずかに緊張する。彼の視線が、まっすぐに男へと向けられていた。


 ──燃えるような激情と、冷たい理性が同居している。ノエルは目を細めた。

 彼から感じる魔力は不安定で、だが明らかに洗練されている。それは、場数を踏んだ魔術師──いや、戦場を知っている者が持つ魔力だった。


「……いらっしゃいませ」


 ひよりが、柔らかな声で言葉をかける。笑顔はいつも通り、けれどその眼差しは真剣だった。


 相手が無口でも、言葉にしない感情は、どこかに表れている。彼女はそう信じていた。


「寒かったでしょう。どうぞ、お好きな席へ」


 そう言いながら、ひよりはカウンター脇に常備している清潔な布籠から、白いタオルを一枚取り出した。 そのタオルは、ほんのりとストーブの熱が染み込み、柔らかく温かかった。


「よろしければ、これ……濡れた顔や体を拭いてください」


 そっと差し出されたそのタオルを、男はしばし見つめた後、静かに受け取った。

 その手つきはごく慎重で、まるで何年も“こういった気遣い”に触れてこなかった者のようにぎこちなかった。


 タオルの柔らかさに触れた瞬間、彼の瞳にわずかな揺らぎが浮かぶ。

 それは気のせいかもしれない。だが、ひよりは確かに感じた。彼のなかの何かが緩んだような、そんな変化を。


 男はひよりの言葉に短く頷き、静かに店の中央、窓際の席へと腰を下ろした。フードを外すと、濡れた金髪が重たげに揺れ、青い瞳がちらりと彼女を見た。その瞳には、深い孤独が沈んでいた。


「……何か、温かい料理をお願いできるか」


 低く、よく通る声だった。その一言で、彼が長い時間、外に身を置いていたことが伝わってくるようだった。


「はい、すぐにご用意しますね」


 ひよりは頷き、厨房へ向かった。


 ぽん太がひよりに近寄り、小声で囁く。


「……あいつ、ただ者じゃないにゃ」


 ひよりが厨房に入ると、ぽん太は男を再び見つめた。その表情は、いつになく真剣だった。


「ひより、気をつけるにゃ。あいつから感じるのは……かなり濃い“戦場の気配”だにゃ。魔物や強い冒険者とは違う、命の境界に近い何か」


「うん、わかった。けど……それでも、ここでは」


 ひよりは静かにエプロンを締め直し、火を入れる。コンロの上で小鍋が温まり始め、バターの溶ける香りが立ち上る。彼女は迷わなかった。客が誰であれ、温かな食事を出す。それが《ヒヨリ亭》の主としての仕事だ。


「今日のおすすめ……あの人には、あれが合いそう」


 冷蔵庫から取り出したのは、グラタン用の材料だった。

 玉ねぎとベーコンを炒め、小麦粉でルゥをつくり、牛乳で伸ばす。ホワイトソースにチーズを混ぜ、ゆでたマカロニを絡めて耐熱皿に盛る。表面にチーズを振りかけ、オーブンに入れた。


「副菜は……うん、あれでいこう」


 彼女は人参とくるみの温野菜サラダを準備し、さらにローストした牛骨で仕込んだコンソメスープを温め始めた。


 オーブンの熱が客席にもじんわりと届き、香ばしい匂いが店内へと広がっていく。リオが「うわぁ、いい匂い……!」と鼻をひくつかせた。


 カウンターの奥で、ノエルはじっと“あの男”──ライアス・アーデルを観察していた。


 彼の姿勢、視線、呼吸。すべてが整っている。だが、その整い方は、異様なほど無駄がなかった。まるで、常に何かを警戒しているような……あるいは、何も信じていない者の構えだった。


 ノエルは再び魔力の流れを感じ取ろうと、意識を集中する。すると、空気に混じるように、鋭利な刃のような波動が浮かび上がった。


 ──燃えるような激情と、冷たい理性。それらが矛盾しながらも調和している。研ぎ澄まされ、整えられたその魔力は、戦場を歩き続けた者だけが持つ、静かな狂気に近かった。


(……やはり、只者ではない)


 ノエルの表情がごくわずかに引き締まる。彼の中で、警戒と興味が同時に揺れていた。



 ──料理が完成する頃には、店内にはバターとパン、香味野菜のやさしい香りが溶け合っていた。


 ひよりはミトンをはめ、グラタン皿を取り出した。表面は香ばしく焦げ目がつき、端からはとろりとホワイトソースが顔をのぞかせている。


 グラタンの隣に並べるのは、やさしい甘さの温野菜サラダ。柔らかく火を通した人参と、香ばしくローストしたくるみをあわせ、手製のドレッシングでさっと和える。


 鍋ではコンソメスープが静かに揺れていた。牛骨と香味野菜の旨味がしっかりと溶け込んだスープを、ひよりは木製のおたまで丁寧にすくう。器に注ぐと、湯気とともにやさしい香りが広がった。


 最後にパン。ミニクッペをトースターから取り出す。外はこんがりと焼き上がり、内側はふわふわで、小麦の甘い香りが立ちのぼる。


 すべての皿を木のトレイに並べると、ひよりは小さく息をついた。そして、柑橘のコンポートティーをそっと添える。その香りは雨の午後にぴったりな、ほっとする甘酸っぱさだった。


「お待たせしました。身体が冷えているでしょうから、熱々のものを」


 ひよりは笑顔を添えつつ、料理を丁寧にテーブルへ置いた。ライアスはわずかに視線を彼女に向け、無言で一度だけうなずく。


 グラタンの表面は、香ばしい焼き色を纏い、ぷつぷつと音を立てながら湯気をあげている。彼はスプーンを取り、それをゆっくりとすくった。


 ──口に含んだ瞬間、チーズのとろける熱と、ホワイトソースのやさしい塩気、ベーコンの旨味が広がった。


 ライアスは手を止めた。


 戦場にいたとき──温かい食事など、頭にすら浮かばなかった。干し肉や保存食、それらは、ただ命をつなぐ手段だった。


(……熱い)


 今、舌に広がるこの熱。その熱が、喉の奥、胸の内にまで染みていく感覚に、戸惑いが生まれる。


(……なぜ、こんなにも安らぐ?)


 わからなかった。だが、確かに感じている。


 ほんの少し、肩の力が抜けた。彼は再び、スプーンを口に運んだ。


 ひよりは厨房のカウンター越しにその様子を見つめていた。無言で料理を味わう男の仕草。視線の揺れ、眉の動き。その一つひとつから、彼の心の動きを読み取ろうとしていた。


(言葉数は少ないけれど、目の奥に隠してるものがある──)


 彼は“ここ”に、何を求めてやってきたのだろう──


 リオは遠巻きにその様子を見ていた。温かなグラタンを静かに口に運ぶ男の姿が、どこか不思議に感じられた。


「かっこいい……」


 ぽつりとつぶやいたその声は思わず漏れたものだったが、隣のノエルが視線を送ると、リオは慌てて手で口を覆った。


 ノエルは苦笑を浮かべかけたが、すぐに再び真顔に戻る。リオと違って、彼にはあの男がただの“旅人”ではないことが分かっていた。

 おそらく敵意はない。むしろ、内側に抱え込んだ何かが彼を縛っているように感じられた。


 ひよりが店の隅で伝票をまとめていると、客の視線がちらちらとライアスへと向けられているのに気づいた。彼の存在感は、それだけで空間を変えるほど強い。

 だが、恐れではなく、不思議と誰もが静かに見守っている。それは彼が、荒々しさよりも「傷ついた静けさ」をまとっているからだった。


 やがて、ライアスはティーカップをそっとソーサーに戻した。一息ついてから、窓の外に目をやる。


 雨は、まだ止みそうになかった。だが、室内のあたたかさに包まれていると、あの冷たい雨すらも、遠い出来事のように思える。


 リオがそろそろ我慢できなくなったように、ノエルの袖を引っ張りながらささやいた。


「ねぇ、名前……聞いていいかな……。でも、やっぱ変かな……」


 ノエルは視線だけで「勝手にしろ」と言いたげに肩をすくめた。だが、リオが声をかける前に──


「あんたら、名前を知りたそうな顔をしてるな」


 突然、男が口を開いた。


 リオがびくりと肩を震わせ、ノエルは驚いたように目を細める。


 男は、わずかに口元を緩めて──それが微笑だったのか、単なる疲労の緩和だったのかは、誰にもわからない──そして静かに言った。


「“ライ”とでも呼んでくれ。それで十分だ」


「ライ……さん、だね! うん、よろしく!」


 リオがぱっと笑顔を見せ、しっぽをぶんぶんと振る。


「ぼく、リオっていいます! あっちにいるのがノエル。二人とも、このお店を手伝ってて……よかったら、また来てください!」


「……気が向いたらな」


 ライアスの返答はぶっきらぼうだったが、その声色はわずかに柔らかくなっていた。この店の空気が、彼の心をほんの少しだけ溶かしていた。


 そのやりとりを遠巻きに見ていたひよりは、安堵と、そして小さな達成感を覚えていた。ほんのわずかでも、誰かが心を開いてくれる瞬間。それが、彼女にとっての「この店を開いた意味」だった。


 ぽん太がカウンターの端で欠伸をしながら呟く。


「……にゃーるほど。こりゃ、ちょっと面白くなるにゃ」


「何が?」


 ひよりが問いかけると、ぽん太はしっぽをぴんと立てて答えた。


「“ライ”。たぶん仮名だにゃ。でも、あいつ……なにか大事な選択をしようとしてる顔をしてたにょ」


「選択……?」


「うん。雨に濡れた男が、温もりに触れて、少しだけ歩みを止める。そういう時って、道が分かれるときなにょ」


 ひよりはカウンター越しに、ふたたび窓際の男──ライアスの背中を見つめた。彼の肩越しに見えるのは、森の緑と、静かに降り続ける雨。


(この店が……その“選択”の中で、少しでも心を休められる場所になれたなら──)


 その思いが、胸の奥にそっと灯る。ただ料理を出すだけじゃない。この店には、もっと大切な「何か」を育む力がある。そう、確かに思えた。


 ライアスは席を立ち、会計を済ませると、短くひよりに礼を言った。


「……ごちそうさま。……妙に、落ち着いた」


 その言葉を聞いた瞬間、ひよりの胸がほんのりと温かくなる。


「こちらこそ、来てくださってありがとうございました。またいつでもどうぞ」


 それは決まり文句だったかもしれない。けれど、その声には確かな心が込められていた。


 扉が開き、また“からん”とベルが鳴る。


 雨はまだ降り続いていたが、ライアスの足取りは先ほどよりも、わずかに軽くなっていた。


 《ヒヨリ亭》の窓からこぼれる光が、彼の背中をそっと照らしていた。



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