2-1:焔の客
午後の《ヒヨリ亭》は、やわらかな陽光に包まれていた。
ランチタイムのまっただ中、店内には料理の香りと談笑の声が広がり、温かな活気に満ちている。木のテーブルに並ぶ皿の湯気、グラスの氷が鳴る音。ひよりは注文をこなしつつ、笑顔で客たちに声をかけていた。
風に揺れる木々の音が、人々の会話の合間にふと混じり込む。そんな中、カウンターにはぽん太が丸まり、リオとノエルは仕事に励んでいた。
──その時、ドアベルがからんと鳴った。
振り向いたひよりの目に、印象的な来客の姿が飛び込んできた。
紅蓮のように燃える長髪に、琥珀がかった橙の瞳。鼻先はやや尖り、熱を帯びたような淡い朱色の肌。衣の間からは、小さな紅い鱗が覗く。細い体躯ながら、内に熱を秘めるような威圧感を漂わせ、長い尾が後ろでゆらりと揺れていた。
火魔族──ノクスラディア魔王国の南部山岳地帯に暮らす、サラマンダー系の亜種族。唐辛子、花椒などの香辛料をふんだんに使った刺激的な料理や、色鮮やかな料理を好むものが多い。
「いらっしゃいませ」
ひよりがいつもの柔らかな声をかけると、少女は少し眉をひそめて、鋭く言った。
「……ここが噂の店?」
その声に、リオが興味津々でカウンターから顔を出した。
「うわっ、すごい……サラマンダー族!? 本物、初めて見た!」
「ちょっ……見すぎ。……ま、いっか」
ぶっきらぼうな言葉の裏に隠れた、橙色の目元に浮かぶ好奇心を、ひよりは見逃さなかった。
「スィラ・フェルグレイア。ノクスラディアから来たの。人間の街に来るのも、店に入るのも初めてだけど、ここの料理がおいしいって噂を聞いたから、試してみようと思って」
その言葉に、ノエルが少しだけ身じろぎした。だが、すぐに黙って席を勧める。
スィラはメニューを一瞥し、少しだけ眉をひそめた。見慣れない料理名の羅列に、戸惑いの色が浮かぶ。
「おすすめ、何ある?」
その問いに、ひよりはにっこりと頷いてからエプロンの紐を結び直す。
「おまかせでいいなら、辛味が効いた料理を用意してみるね」
ひよりはまず、スパイスのテンパリングを始めた。
フライパンにオイルを落とすと、乾いたスパイスをひとつかみ投入する。
弱火でフライパンを温めると、チリペッパーとパプリカ、クミンの香りが立ちのぼる。
それは少し刺激的で、しかしどこか芳ばしく、食欲をくすぐる匂いだった。
「よし……豆を煮よう」
鍋に赤豆と黒豆、黄色いトマトを加え、弱火でことことと煮込んでいく。
トマトの酸味と豆の甘みが溶け合い、そこへ刻んだにんにくと火山塩を加えると、スープの色が赤く濃くなっていった。
最後に焦がしニンニクオイルを回しかけ、刻みパプリカをふわりと散らす。
「一皿目、完成──」
続いて取り出したのは、厚みのある赤身の獣肉だった。
表面に軽く塩を振り、焼き石の上でジュウと焼き目をつける。
肉の脂が熱で溶け、香ばしい煙が立ち上るたびに、ひよりは火加減を細かく調整した。
その横で、ラベンダーとカイエンペッパーをベースにしたスモークハーブソースを調合する。
紫と赤が混じる鮮やかな色合い。仕上げにライムを一滴絞る。
「うん……これなら、きっと喜んでもらえる」
冷蔵庫から取り出したのは、赤いベリーとジンジャー、そしてほんの少しのシナモンを漬け込んだ特製ドリンク。
グラスにはたっぷりの氷が入れられ、注ぐたびに涼やかな音を立てた。
ひよりは料理を木製のトレイに整え、深呼吸を一つ。
店内からは、スィラが鼻をくんくん動かす気配がかすかに届く。
「……お待たせ。お口に合うといいな」
その言葉とともに運ばれた皿は、まるで紅蓮の炎を思わせるような彩りと湯気を纏っていた。
スィラが、橙色の瞳を輝かせながら辛味豆と香草の煮込みを口に運ぶ。
「っ、あつ……でも、うまっ……! これ、人間が作ったの?」
彼女の尾がぴんと立ち、目元の鱗が微かにきらめく。
「この辛さ、わかってるじゃん……。火魔族の舌、甘く見ないでって思ってたのに、これなら認めざるを得ないわ」
スィラが真剣な顔で煮込みを味わいながら、隣の皿へも手を伸ばす。
こんがりとした焼き目の入った肉をひと口頬張ると、目を見開き、そのまま小さく身をよじった。
「……っくぅ、こんな肉料理、ノクスラディアではなかなか出ない……!」
その言葉に、他の客の目線が自然と集まってくる。
窓際の席に座っているドワーフの夫婦は物珍しげにスィラを見ながら、口を開く。
「魔族か……外見じゃ中身はわかんないもんだね。うまそうに食ってる顔はいいもんだ」
「……ずいぶんと辛そうだが、知らない味ってのも良さそうだな。いつか試してみるのも悪くない」
その斜め向かいのテーブルでは、長身のエルフの青年が静かに目を細めていた。 陶器のような指でストロベリークレープを静かに口へ運ぶ。
「辛味の熱気と甘やかな香気が交わるこの場……まるで調和の庭だ」
その言葉に、彼の隣にいる若い人間の旅商人が目を丸くする。
「さすがエルフさん……詩みたいに話すなあ」
ひよりがそっと差し出したピクルスを、スィラは「ふん」と言いながらも素直に受け取る。
それを一口味わうと、彼女の表情がわずかに緩んだ。
「これ、酸っぱくておいしいな……」
その一言が、空気を和らげた。
店内に流れる音は、木の床を歩く足音と、湯気の立つ皿が置かれる音。
少しずつ、種族を超えた穏やかな会話が広がり、再び温かな活気に満る。
《ヒヨリ亭》──それは、これまでにない交流の場だった。 種族も文化も違う者たちが、ただ美味しいものを囲み、共に笑う。 そこには争いも疑いもなく、確かな安らぎがあった。
そして、ひよりはその光景を、静かに、確かに見つめていた。