1-4:新しい日々の一歩
朝の光がやわらかく差し込む《ヒヨリ亭》の店内に、静かな温もりが満ちていた。昨日の賑わいが嘘のように、今はまだ誰もいないカウンターを、ひよりは一人で拭き上げていた。
窓の外では森の葉がそよ風に揺れ、木漏れ日が床に淡く揺れている。ぽん太はカウンターの端で丸まり、うとうとしていた。
ひよりはそっと息を吸い込むと、小さくつぶやいた。
「……決めた」
その声に、ぽん太がぴくりと耳を動かした。
「にゃ?」
「リオくんとノエルくんのこと。働いてもらおうと思う」
「おおっ、いい決断だにゃ」
ぽん太の尻尾がぱたぱたと揺れた。ひよりはふっと笑い、少しだけ気持ちが軽くなるのを感じた。あのふたりと過ごした時間が、こんなにも心強かったのだと、今さらのように気づく。
ふと、視線が階段の先、二階へと向く。《ヒヨリ亭》の二階には洋室が四つとリビングが一つある。ひよりの部屋の向かいにある二つの部屋は、これからリオとノエルが使うことになるのだろう。まだ誰もいないその空間にも、もうすぐ新しい日常が流れ込んでくる。
昼前、リオとノエルが店にやってきた。
「おはよう!」
ひよりは扉の音に振り返り、笑顔で迎えた。
「おはよう、リオくん、ノエルくん。……あのね、もしよかったら、これから《ヒヨリ亭》で、一緒に働いてくれないかな?」
一瞬の沈黙。
リオの耳がぴくっと立ち、しっぽがふわりと揺れる。
「えっ、ほんとに!? ぼく、いいの!? やったぁ!」
隣でノエルが表情を動かさずにいたが、やがて、ゆっくりと頷いた。
「……ありがとう」
二人の緊張が、次第に安堵と喜びへと変わっていく様子を見て、ひよりの胸にじんわりと温かいものが広がった。これが“仲間”というものなのかもしれない。
同時に、責任感も芽生えてくる。誰かの居場所を作るということ。それはきっと、簡単なことではない。けれど今の彼女には、その覚悟があった。
「部屋も、ちゃんと用意してあるよ。二階の洋室、それぞれ一部屋ずつ使って」
そう言って彼女は、二人に部屋の鍵を手渡した。
「ほんとに!? わぁ……!」
リオが大きな目を輝かせる一方で、ノエルはひよりの言葉に短く頷く。その表情にはどこか照れくささが滲んでいた。
こうして、三人の新しい日々が本格的に始まった。
昼過ぎ。店内には、昨日よりもさらに多くの客が訪れていた。
ドワーフの夫婦は、仲睦まじくカウンター席に並んで座っていた。ドワーフは地の種族とも呼ばれ、頑丈な体と職人気質の性格を持つ。
今日の二人の注文は、鍋でじっくり煮込んだビーフシチュー。深い赤褐色のソースは、テーブルの上に置いた瞬間、ふわりとワインとハーブの香りを立ちのぼらせた。角切りの牛肉はスプーンがすっと入るほど柔らかく、口に入れるととろけるように崩れる。
付け合わせの黒パンはこんがりと焼き色がついており、発酵バターが添えられている。
「……こいつぁ、肉の煮込み具合が絶妙だわい」
「ふん。外食ってのも、たまには悪くないねぇ」
夫婦はパンで皿のソースを丁寧にすくい取りながら、満足そうに目を細めた。
店の隅では、エルフの青年が静かにサンドウィッチを口にしていた。エルフは森と自然を尊ぶ種族で、長命で感覚が鋭い。
彼の前に置かれているのは、淡い緑色のアボカドと、香ばしくローストされた豆をふんだんに挟んだサンドウィッチ。
焼きたての全粒粉パンはこんがりとした焼き色がつき、断面には滑らかなアボカドペーストが艶やかに光っている。パプリカやルッコラの彩りも鮮やかで、見た目からして軽やかで健康的だった。
「この豆の風味……アボカドとの相性もいい。落ち着く味だ」
彼はそう呟き、静かにティーカップを傾けた。添えられた野菜のピクルスも爽やかな酸味で、料理全体のバランスを引き締めていた。
角のテーブルでは、旅の商人たちが小声で話していた。
「最近、南の街道沿いで魔物退治をしてる若い冒険者がいるらしいぜ。ひとりで数体の魔物を退けたとか」
「それ、ライ……とかって名前じゃなかったか?」
「詳しくは知らねえが、妙に強いらしい」
それは、いずれ《ヒヨリ亭》の扉を開くことになる男──ライアス・アーデル、その人だった。
夕暮れ時、静かな店内のキッチンでは、ひよりがまかないの準備に取りかかっていた。
鉄板の上では、厚切りの食パンがじりじりと音を立て、表面にこんがりと焼き色が浮かび始める。
耳の部分はカリッと香ばしく、中央はもっちりとした弾力を残すよう、火加減を微調整しながらトングで返す。
その上にのせたバターが、じんわりと熱にとけて、黄金色の膜をゆっくりと広げていった。
隣のフライパンでは、ベーコンと卵が同時に焼かれている。
カリカリに焼かれたベーコンから香ばしい香りが立ち上り、卵の白身はぷくりと膨らみながらも、黄身はとろりと揺れる──絶妙な火の入り具合。
ひよりはフライ返しでその焼き加減を確認し、火を止めた。
サラダボウルには、シャキッと冷やしたレタスときゅうり、彩りの赤パプリカをざっくりと盛りつけていく。
手際よくオリーブオイルと塩をふりかけ、菜箸でふわりと混ぜれば、野菜の瑞々しい香りが湯気とともに立ちのぼった。
カウンターの奥で、オレンジコンポート用のシロップが弱火にかけられている。
薄くスライスした果実が、透明な液の中で静かに揺れていた。
とろみを帯びたシロップが煮詰まるにつれて、柑橘の爽やかな香りがキッチンいっぱいに広がっていく。
仕上げにストレートティーのポットを温め、香りの立った紅茶を丁寧に注ぐ。
その琥珀色の液体に、ひよりは一瞬だけ微笑んだ。
この温もりを届けに行く相手の顔が、ふと浮かんだからだ。
「はい、できたよ。今日はちょっと、しっかりめの夕ごはん」
木製のテーブルには、厚切りトーストとベーコンエッグ、サラダに加え、ガラスの小鉢に盛られたオレンジコンポートと、温かい紅茶が並んでいた。
リオは湯気の立つプレートを見て、目を輝かせた。
「うわぁ……これ、ぜんぶ作ってくれたの!? すっごくいい匂い……!」
「お昼軽めだったし、働いてくれたお礼も兼ねてね」
ひよりが柔らかく笑うと、リオはしっぽをぶんぶん振りながら椅子に飛び乗った。
ノエルも黙って席につき、皿の並びをちらりと確認する。視線は淡々としているが、そのまなざしには微かに期待が滲んでいた。
「トースト、耳がカリッとしてる……」
リオがひとくちかじると、パンの中からじゅわっとバターの風味が広がった。
満足そうに頬を緩めるリオの横で、ノエルもナイフとフォークでベーコンエッグを切り分ける。
黄身がとろりと流れ、香ばしいベーコンの脂と絡まるのを見て、彼は小さく頷いた。
「……うまい」
その一言に、ひよりは思わずふふっと笑みをこぼす。
言葉は少ないが、それが彼なりの“おいしい”の証だということを、ひよりは少しずつ分かってきていた。
「サラダもしゃきしゃきしてる! パプリカが甘い〜」
リオは口いっぱいに頬張りながら、合間にオレンジコンポートをひとくち。
酸味と甘さのバランスに目を丸くして「これ、デザートにぴったりだね!」と無邪気に言った。
「そう思って、あえて最初に出しておいたの。冷やしてあったから、口の中がさっぱりするでしょ?」
ひよりの言葉に、リオは頷きながら言った。
「ひよりさんと一緒に食べてるから、ずっと美味しい気がするんだ」
カフェの一日は終わりに近づいていた。
雨はあがり、窓の外には茜色の光が木々を照らしている。
三人の時間は、穏やかに流れていた。
夜。ひよりが後片付けを終えて階段を上ると、リビングの隣の部屋から、小さな寝言が聞こえてきた。
「……ふふっ、おいし……かった……」
リオの部屋だった。
ひよりはドアの前で立ち止まり、小さく笑った。
「……ふたりとも、ありがとう。これから、よろしくね」
店の外では、夜の帳がゆっくりと降りていた。
《ヒヨリ亭》の窓から漏れる柔らかな明かりが、森の静寂の中に、小さな希望のように灯っていた。