表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/16

1-4:新しい日々の一歩

 朝の光がやわらかく差し込む《ヒヨリ亭》の店内に、静かな温もりが満ちていた。昨日の賑わいが嘘のように、今はまだ誰もいないカウンターを、ひよりは一人で拭き上げていた。


 窓の外では森の葉がそよ風に揺れ、木漏れ日が床に淡く揺れている。ぽん太はカウンターの端で丸まり、うとうとしていた。


 ひよりはそっと息を吸い込むと、小さくつぶやいた。


「……決めた」


 その声に、ぽん太がぴくりと耳を動かした。


「にゃ?」


「リオくんとノエルくんのこと。働いてもらおうと思う」


「おおっ、いい決断だにゃ」


 ぽん太の尻尾がぱたぱたと揺れた。ひよりはふっと笑い、少しだけ気持ちが軽くなるのを感じた。あのふたりと過ごした時間が、こんなにも心強かったのだと、今さらのように気づく。


 ふと、視線が階段の先、二階へと向く。《ヒヨリ亭》の二階には洋室が四つとリビングが一つある。ひよりの部屋の向かいにある二つの部屋は、これからリオとノエルが使うことになるのだろう。まだ誰もいないその空間にも、もうすぐ新しい日常が流れ込んでくる。


 昼前、リオとノエルが店にやってきた。


「おはよう!」


 ひよりは扉の音に振り返り、笑顔で迎えた。


「おはよう、リオくん、ノエルくん。……あのね、もしよかったら、これから《ヒヨリ亭》で、一緒に働いてくれないかな?」


 一瞬の沈黙。


 リオの耳がぴくっと立ち、しっぽがふわりと揺れる。


「えっ、ほんとに!? ぼく、いいの!? やったぁ!」


 隣でノエルが表情を動かさずにいたが、やがて、ゆっくりと頷いた。


「……ありがとう」


 二人の緊張が、次第に安堵と喜びへと変わっていく様子を見て、ひよりの胸にじんわりと温かいものが広がった。これが“仲間”というものなのかもしれない。

同時に、責任感も芽生えてくる。誰かの居場所を作るということ。それはきっと、簡単なことではない。けれど今の彼女には、その覚悟があった。


「部屋も、ちゃんと用意してあるよ。二階の洋室、それぞれ一部屋ずつ使って」


 そう言って彼女は、二人に部屋の鍵を手渡した。


「ほんとに!? わぁ……!」


 リオが大きな目を輝かせる一方で、ノエルはひよりの言葉に短く頷く。その表情にはどこか照れくささが滲んでいた。


 こうして、三人の新しい日々が本格的に始まった。


 昼過ぎ。店内には、昨日よりもさらに多くの客が訪れていた。


 ドワーフの夫婦は、仲睦まじくカウンター席に並んで座っていた。ドワーフは地の種族とも呼ばれ、頑丈な体と職人気質の性格を持つ。


 今日の二人の注文は、鍋でじっくり煮込んだビーフシチュー。深い赤褐色のソースは、テーブルの上に置いた瞬間、ふわりとワインとハーブの香りを立ちのぼらせた。角切りの牛肉はスプーンがすっと入るほど柔らかく、口に入れるととろけるように崩れる。

付け合わせの黒パンはこんがりと焼き色がついており、発酵バターが添えられている。


「……こいつぁ、肉の煮込み具合が絶妙だわい」

「ふん。外食ってのも、たまには悪くないねぇ」


 夫婦はパンで皿のソースを丁寧にすくい取りながら、満足そうに目を細めた。


 店の隅では、エルフの青年が静かにサンドウィッチを口にしていた。エルフは森と自然を尊ぶ種族で、長命で感覚が鋭い。


 彼の前に置かれているのは、淡い緑色のアボカドと、香ばしくローストされた豆をふんだんに挟んだサンドウィッチ。

焼きたての全粒粉パンはこんがりとした焼き色がつき、断面には滑らかなアボカドペーストが艶やかに光っている。パプリカやルッコラの彩りも鮮やかで、見た目からして軽やかで健康的だった。


「この豆の風味……アボカドとの相性もいい。落ち着く味だ」


 彼はそう呟き、静かにティーカップを傾けた。添えられた野菜のピクルスも爽やかな酸味で、料理全体のバランスを引き締めていた。


 角のテーブルでは、旅の商人たちが小声で話していた。


「最近、南の街道沿いで魔物退治をしてる若い冒険者がいるらしいぜ。ひとりで数体の魔物を退けたとか」


「それ、ライ……とかって名前じゃなかったか?」


「詳しくは知らねえが、妙に強いらしい」


 それは、いずれ《ヒヨリ亭》の扉を開くことになる男──ライアス・アーデル、その人だった。



 夕暮れ時、静かな店内のキッチンでは、ひよりがまかないの準備に取りかかっていた。


 鉄板の上では、厚切りの食パンがじりじりと音を立て、表面にこんがりと焼き色が浮かび始める。

 耳の部分はカリッと香ばしく、中央はもっちりとした弾力を残すよう、火加減を微調整しながらトングで返す。

 その上にのせたバターが、じんわりと熱にとけて、黄金色の膜をゆっくりと広げていった。


 隣のフライパンでは、ベーコンと卵が同時に焼かれている。

 カリカリに焼かれたベーコンから香ばしい香りが立ち上り、卵の白身はぷくりと膨らみながらも、黄身はとろりと揺れる──絶妙な火の入り具合。

 ひよりはフライ返しでその焼き加減を確認し、火を止めた。


 サラダボウルには、シャキッと冷やしたレタスときゅうり、彩りの赤パプリカをざっくりと盛りつけていく。

 手際よくオリーブオイルと塩をふりかけ、菜箸でふわりと混ぜれば、野菜の瑞々しい香りが湯気とともに立ちのぼった。


 カウンターの奥で、オレンジコンポート用のシロップが弱火にかけられている。

 薄くスライスした果実が、透明な液の中で静かに揺れていた。

 とろみを帯びたシロップが煮詰まるにつれて、柑橘の爽やかな香りがキッチンいっぱいに広がっていく。


 仕上げにストレートティーのポットを温め、香りの立った紅茶を丁寧に注ぐ。

 その琥珀色の液体に、ひよりは一瞬だけ微笑んだ。

この温もりを届けに行く相手の顔が、ふと浮かんだからだ。


「はい、できたよ。今日はちょっと、しっかりめの夕ごはん」


 木製のテーブルには、厚切りトーストとベーコンエッグ、サラダに加え、ガラスの小鉢に盛られたオレンジコンポートと、温かい紅茶が並んでいた。


 リオは湯気の立つプレートを見て、目を輝かせた。


「うわぁ……これ、ぜんぶ作ってくれたの!? すっごくいい匂い……!」


「お昼軽めだったし、働いてくれたお礼も兼ねてね」


 ひよりが柔らかく笑うと、リオはしっぽをぶんぶん振りながら椅子に飛び乗った。

 ノエルも黙って席につき、皿の並びをちらりと確認する。視線は淡々としているが、そのまなざしには微かに期待が滲んでいた。


「トースト、耳がカリッとしてる……」


 リオがひとくちかじると、パンの中からじゅわっとバターの風味が広がった。

 満足そうに頬を緩めるリオの横で、ノエルもナイフとフォークでベーコンエッグを切り分ける。

 黄身がとろりと流れ、香ばしいベーコンの脂と絡まるのを見て、彼は小さく頷いた。


「……うまい」


 その一言に、ひよりは思わずふふっと笑みをこぼす。


 言葉は少ないが、それが彼なりの“おいしい”の証だということを、ひよりは少しずつ分かってきていた。


「サラダもしゃきしゃきしてる! パプリカが甘い〜」


 リオは口いっぱいに頬張りながら、合間にオレンジコンポートをひとくち。

 酸味と甘さのバランスに目を丸くして「これ、デザートにぴったりだね!」と無邪気に言った。


「そう思って、あえて最初に出しておいたの。冷やしてあったから、口の中がさっぱりするでしょ?」


 ひよりの言葉に、リオは頷きながら言った。


「ひよりさんと一緒に食べてるから、ずっと美味しい気がするんだ」



 カフェの一日は終わりに近づいていた。

 雨はあがり、窓の外には茜色の光が木々を照らしている。


 三人の時間は、穏やかに流れていた。


 夜。ひよりが後片付けを終えて階段を上ると、リビングの隣の部屋から、小さな寝言が聞こえてきた。


「……ふふっ、おいし……かった……」


 リオの部屋だった。


 ひよりはドアの前で立ち止まり、小さく笑った。


「……ふたりとも、ありがとう。これから、よろしくね」


 店の外では、夜の帳がゆっくりと降りていた。

 《ヒヨリ亭》の窓から漏れる柔らかな明かりが、森の静寂の中に、小さな希望のように灯っていた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ