1-3:三人のはじまり
森の奥にある静かなカフェ《ヒヨリ亭》。その扉が初めて開かれてから、一夜が明けた。
朝日が木々の隙間から差し込む頃、獣人の少年リオと魔術師の青年ノエルは、イリナ町の市場へ向かっていた。
彼らが暮らす町──イリナ町は、森の近くに広がる交易地帯。市場には朝から活気が満ち、果物や焼き菓子の香ばしい匂いが漂っている。
「ねえノエル、ひよりさん……今日も元気にしてるかな」
リオがぽつりと呟いた。まだ若さの残る声だが、そこには素直な好意と気遣いが滲んでいた。
ノエルは答えず、ちらりとリオに視線を送るだけだったが、その口元はわずかに柔らかく緩んでいた。
二人の心には、先日出会ったカフェの記憶がしっかりと刻まれていた。 暖かな空間、美味しい料理、そして何より──黒髪のポニーテールを揺らしながら、どこか不安げで、それでも懸命に笑顔を見せていた店主、ひよりの姿。
彼らは、かつての戦争で家族を失った孤児だった。今は冒険者として、森での採取や弱い魔物の狩猟などを行って日銭を稼いでいる。過酷な日常の中で見つけた《ヒヨリ亭》は、彼らにとって初めての“安心できる場所”だった。
リオの足取りが自然と早くなる。彼は耳をぴくぴくと動かしながら、街の市場へと駆け出した。
「聞いて聞いて! 昨日、森の近くでめっちゃすごいカフェ見つけたんだよ!」
通りすがりの商人に、パン屋の職人に、リオは誰彼かまわず話しかけた。 その表情の明るさと、感情のまま動くしっぽや耳に、町の人々も思わず笑みを浮かべる。
「へえ、カフェなんて珍しいな。森の近くってのがちょっと怖いけど……」 「でも美味しかったってんなら、行ってみる価値はあるかもな」
その一方で、ノエルは何も言わず、ただリオのそばに立ち続けていた。無言ながら、リオの言葉に小さくうなずく姿には、静かな説得力があった。
その日の昼頃、《ヒヨリ亭》の前にふたりの姿があった。
「こんにちはーっ!」
元気な声と共にリオが扉を押し開ける。
「リオくん、ノエルくん……どうしたの?」
ひよりがカウンターから顔を上げ、目を丸くする。
「今日はね、お礼しに来たの! 昨日の料理、ほんとにおいしかったから!」
リオはしっぽを揺らしながら笑顔で言い、ノエルも軽くうなずいた。
「だから、今日は一日手伝わせて!」
その申し出に、ひよりは驚きつつも、胸が高鳴った。
異世界でただ一人、店を切り盛りする不安──それが少しずつ溶けていくのを、彼女は感じていた。 自分の作った料理に笑顔を見せてくれた少年たちが、こうして戻ってきてくれた。それだけで、今までの緊張がゆっくりとほどけ、胸の奥が満たされていく。
「ありがとう……ほんとに、助かるよ」
こうして三人の一日が始まった。
リオは接客と掃除、ノエルは厨房での皿洗いや簡単な調理補助を担当した。
その日の夕暮れ、《ヒヨリ亭》の扉が、そっと開かれた。
最初に入ってきたのは、腰の曲がった老婦人だった。薄紫のスカーフを巻いたその女性──マルタは、リオの顔を見るなり微笑む。
「あらまあ、リオじゃないの。こんなところにいたのかい?」
「うん、今日はこのお店を手伝ってるんだ。おばあちゃん、紅茶でいい?」
「お願いするよ。……それにしても、このお店、居心地が良さそうねえ」
マルタはイリナ町で長く手芸を教えてきた人物で、リオのことも知っていた。
その後も、青果店の青年が店先に顔を出した。ノエルを見るなり、少し驚いた顔をする。
「……ノエルさん? まさか、こういうとこで働くとは思わなかったよ」
ノエルはいつもどおり無言でうなずいたが、青年は気まずさを隠すように笑った。
「いや、悪い意味じゃないさ。ちょっと意外で……でも、なんかいいな」
一方で、ふらりと通りがかった旅の商人は、初めて見る店に驚いた顔をしながら入ってきた。
「おや、ここは?なんだか不思議な空気感だな……」
リオが「おすすめはキッシュです!いかがですか?」と満面の笑みでメニューを差し出すと、商人は驚いた顔をしながらも嬉しそうに受け取った。
「へえ、こんな場所があったのか……」
こうして、町の人々の間に少しずつ《ヒヨリ亭》の噂が広まっていった。 リオやノエルの存在が、店の信頼にもつながっていた。
閉店後。ひよりはカウンターに手をついて、店内を眺めていた。
「……夢みたい」
その言葉の直後、リオがぽつりとつぶやいた。
「ひよりさん……ぼく、ここで働いちゃだめかな」
ノエルも、静かに言葉を重ねた。
「……俺も。ここにいたい」
ひよりは一瞬、言葉を失う。胸が熱くなる。
それと同時に、責任の重さに気づく。
オープンから数日しか経っていない《ヒヨリ亭》が、彼らの“居場所”になれるのだろうか?
「……ありがとう。でも、少しだけ考えさせて」
「うん、わかった」
リオはしっぽを揺らしながら笑い、ノエルも何も言わずにうなずいた。
夜の帳が、ゆっくりと森に降りる。ランプの光がテーブルを照らし、静かな時間が流れていた。
──三人のはじまりは、こうして確かに刻まれた。