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1-1:異世界のカフェ《ヒヨリ亭》

 朝日が森を金色に染める頃、柔らかな光が一軒の木造の建物を優しく照らしていた。その店の名は《ヒヨリ亭》。


 カフェでありながら、どこか懐かしい香りのするその建物は、セリディア王国の郊外、森の近くにひっそりと佇んでいた。馬車道から少し奥まった場所にあり、鳥のさえずりと風の音が響く静かな空間。だがその静けさの中に、確かに息づく温もりがあった。


 この朝、《ヒヨリ亭》の厨房では、一人の少女が店の準備に励んでいた。


 一ノ瀬ひより。この世界に召喚されたばかりの普通の高校三年生。だが今は、この異世界の小さなカフェの店主として、静かな時間を迎えていた。


 厨房の奥に並んだ調理器具はどれも新品だが、彼女には見覚えのあるものばかりだった。ステンレスの調理台に、エスプレッソマシン、グラインダー、コンロ、オーブン。


 実家である《喫茶いちのせ》と同じような形状と配置に、ひよりは驚きと安心を感じていた。


「……すごい、完璧……」


 ポットの取っ手の感触や、トレーの質感まで手に馴染む。思わずそう呟いたひよりは、冷蔵庫を開け、備え付けられた食材を確認する。


 卵、牛乳、ベーコン、チーズ、野菜、そしてバターや小麦粉、豆類。瓶に詰められた茶葉やコーヒー豆が棚に整然と並び、その準備の良さにひよりは目を丸くした。


「これ……全部、神様が用意してくれたのかな」


 そんな彼女の問いかけに、カウンターの隅でひなたぼっこをしていた三毛猫が耳をぴくりと動かした。


「そだにゃ。神様のことだから、“ひよりが安心できる程度の初期装備”って考えてるにゃ」


 その猫──ぽん太は、召喚神の使いとして、ひよりの補佐をするために送り込まれた存在だった。


 ぽん太はひょいとカウンターから飛び降り、しっぽを立てて厨房に入ってきた。


 その姿はどこか人間じみていた。整った三毛の毛並みに、赤いベストを着こなし、金色の瞳がきらりと輝く。感情を表すかのように、ふさふさとしたしっぽが揺れ動く。二足歩行も器用にこなすその仕草は、まるで人と猫の中間のようだった。


「でも、次から仕入れは自分でやらなきゃだめだよ? この世界、なかなかシビアだから」


「やっぱり……そうよね。で、買い出しって、どこでどうやって?」


「イリナ町の市場が近いにゃ。馬車で片道1時間くらい。でも、配達を頼める商会もあるにゃ」


 ひよりは思わずため息をついた。現代のように徒歩数分で済む買い物とはわけが違う。


「通貨の単位も覚えたほうがいいにゃ。これが小銅貨、1ビル」


 ぽん太が取り出したのは小さな銅色のコイン。


「ざっくり1ビル=1円換算にゃ。で、だいたいこんな感じにゃ」


 小銅貨(1ビル)


 大銅貨(10ビル)


 小銀貨(100ビル)


 大銀貨(1,000ビル)


 小金貨(10,000ビル)


 大金貨(100,000ビル)


「物価もそれに応じてるにゃ。パン1個が100ビル、ランチなら1000ビルくらいかにゃ」


「なるほど……。とりあえず、開店準備の費用は?」


「ぜーんぶ、初期資金として支給済み。レジの奥に袋があるにゃ」


 ひよりが確認すると、そこには各種のコインが丁寧に仕分けされた袋が確かに存在していた。


「……やたら本格的だね」


 ひよりは笑い、カウンターに戻ってエスプレッソマシンのスイッチを入れた。機械が唸りをあげ、豆の香ばしい香りが広がっていく。


 彼女はグラインダーで豆を挽き、ミルクをスチームし、ラテアートを試す。


 その様子を見ていたぽん太がひょいと跳ね上がる。


「おー、さすが。きれいにゃ!」


 それから彼女は、料理の試作に取りかかる。


 チーズとハーブのキッシュは、バターたっぷりのタルト生地にしっとりとしたフィリングが絡む。切り分けると、とろりと溶けたチーズがのぞき、ハーブの香りがふんわりと広がる。


 ベーコンエッグのオープンサンドには、半熟の黄身がとろりと垂れ、焼きたての厚切りパンがじんわりとその旨味を受け止めていた。


 彩りサラダはレタスやパプリカ、紫キャベツなどが並び、ドレッシングは玉ねぎと蜂蜜を使った自家製。


 豆と根菜のスープには、ベーコンの旨味が溶け込み、黄金色の優しい風味が広がる。


 レモンとカモミールのハーブティーは、琥珀色の透明な液体に湯気が立ち上り、飲む前から心が和らぐようだった。


「……ああ、これ、間違いなく喜んでもらえる味」


 彼女は小さく頷いた。


 この店の周囲には、召喚神が張った特殊な結界が存在する。


 魔物は近づけず、人々の心も穏やかになるという特別な空間。


 ひよりはカウンターの上に手を置き、外の景色を見つめる。


 森の緑、静かな風、鳥の声。そこに確かに息づく、新しい自分の居場所があった。


 この《ヒヨリ亭》には、居住スペースも用意されている。二階には洋室が四つとリビングが一つ。


 それはまるで、実家《喫茶いちのせ》で過ごした日々の延長線のようだった。


 しかし、彼女の胸の内には不安もあった。言葉、文化、誰も知らない土地──そのすべてが未知であり、責任はすべて自分一人にのしかかる。


(本当に、ここでやっていけるのかな)


 それでも、ひよりはエプロンのひもを結び直した。


「ここが……私の店なんだ」


 ひよりの胸に、ほんのりと希望の光が灯った。


 この異世界で始まる新しい物語──その幕が、今ゆっくりと開こうとしていた。


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