プロローグ:異世界への入り口
校門を出た瞬間、私はようやく息を吐いた。夕焼けが街をオレンジ色に染める中、自転車にのって坂道を下る。放課後の喧騒が、ゆっくりと遠ざかっていく。
──一ノ瀬ひより、高校三年生。
趣味なし、部活なし、彼氏なし。あるのは家の手伝いと、日々の生活だけ。でも、私にはちゃんと居場所があった。
駅前から少し外れた住宅街にひっそりと佇む、喫茶店《喫茶いちのせ》。今は父、母、兄、私の四人で営業している。
カウンターに座る常連のおじさんが「今日のマフィン、バナナ増しで美味かったよ」
と言ってくれるだけで、私は報われる。
──こういう、ちいさな安心を与えられる場所。それが、私にとっての“生きている意味”だった。
喫茶店を継ぐ予定の兄は、今日も仕事に励んでいる。私は、卒業後もこの場所で働き続けるかどうか、悩んでいた。
接客は好きだし、コーヒーを淹れる腕前は、もう一人前の自信がある。だけど──心のどこかで、何かが足りないとも感じていた。
このままここで生きていくのか。それとも、もっと違う場所を知るべきか。
進路指導のプリントには「接客業」と書いて提出した。先生も、周囲も、それで納得していた。でも私は……何かを探していた。
そんなことを考えていると、父の声がした。
「ひより、悪い! エスプレッソマシンの調子がまた……」
「うん、すぐ見てみる」
いつものようにエプロンを締める。店のカウンター越しに、父や母、兄と軽口を交わす。
私の人生が大きく変わったのは、この日の夜のことだった。
洗い物を終え、照明を落とした閉店後の店内。突然、足元の感触が消えるような感覚に囚われた。視界いっぱいに光があふれ、まるで夢の中に落ちていくような、ふわりとした感覚。
目を開けると、私は真っ白な空間に立っていた。
上下も左右も曖昧で、足元はどこまでも続く大理石のような白。周囲には何もない。
誰もいない──そう思った、そのときだった。
「おっ、やっと来たね」
不意に声が響き、光の塊が現れた。
その中心には人型をした……何かが浮かんでいる。白いローブに、金髪と黄色い瞳。姿はあやふやで、でもなぜか親しみのある雰囲気を持っていた。
「うわっ、だれ……?」
「おっと失礼。オレは召喚神。この世界に君をお呼びした張本人ってわけ」
軽い口調。だが言葉の意味は重い。
「……召喚って、異世界転移ってこと?」
「そ。びっくりした? でも安心して。ちゃんと選ばれた理由があるから」
光の人影──召喚神と名乗る存在は、手を広げて私を包み込むように言った。
「……君には、 “戦えない救世主候補”になってもらう。」
「戦えない?じゃあ何をするの……?」
「カフェだよ。異世界で」
その一言に、思わず耳を疑った。
「……えっ?」
「異世界カフェ、《ヒヨリ亭》。君に経営してもらう」
ぽかんとしている私に、召喚神は説明を続ける。
この世界──セリディア王国という国を中心に、複数の種族と国家が存在する世界。
エルフが暮らす森の国、セリナヴィエル。
獣人族が群れを成す国、ヴァルミール。
ドワーフの暮らす職人の国、グルンドバーン。
そして魔族たちが支配する国、ノクスラディア。
「この世界は、いま“安らぎ”を必要としている。ただの感情論じゃない。もっと根深い、魔力の問題だ」
その声は軽やかでありながら、どこか切実さを帯びていた。
「かつて、この世界を征服しようとした魔族の集団がいた。彼らは勇者によって倒されたけれど、完全には消えなかった。滅びる直前、自分たちの“意思”を世界に刻んだんだ」
「残された魔力の“種”は、各地で静かに芽吹き始めている。それが“魔力の歪み”──種族の心に軋みを生み、争いを生む毒なんだよ」
私は息をのんだ。種族間の争い──それがただの価値観の違いや偏見ではなく、目に見えない力で煽られているという事実に、背筋がひやりと冷えた。
「このままだと、平和に見える今も、すぐに瓦解する。誰もがそれを感じてるのに、口に出せずにいる。だからこそ、必要なんだ。“心を通わせる場”が」
召喚神の瞳が、真っすぐに私を見据える。
「君は、戦えない。けれど、“癒せる”。君の作る空間──温かい料理、やわらかな居場所。それが、種族を越えて誰かを和ませる。世界を、少しずつ変えていく」
「異世界カフェ《ヒヨリ亭》は、そういう場所になる。君だから、できるんだ」
胸が、ぎゅっと締め付けられた。
召喚神は、どこからともなく契約書とペンを取り出した。
『安らぎの空間・異世界カフェ《ヒヨリ亭》設立に関する召喚契約書』
「うそでしょ……」
契約書を手にした私は、一歩だけ後ずさった。
ここでサインすれば、もう二度と元の生活には戻れないかもしれない。家族、店、友達。全部、置いていくの?
──でも、もし何も変わらなければ、私はまた悩み続けるの?
その問いが、心の奥で静かに響いた。
「ちゃんと目を通して。怪しいところはないから。……いや、あるかもだけど、“悪意”はないから」
冗談めかした召喚神の言葉に、私は少しだけ笑ってしまった。そして、震える手でペンを取る。
「わかった……やってみる」
契約書に名前を書くと、文字がふわりと光を帯びた。足元がまたふわりと軽くなる。
「それじゃ、開店準備だ! 場所はセリディア王国の郊外、森の近くの馬車道沿いだ。静かで空気もおいしい、異種族も立ち寄りやすい土地を用意してあるよ」
「まって!まだ心の準備が──」
その言葉を言い終わる前に、光が私を包み込んだ。
次の瞬間。
──私は、土の匂いのする地面の上にいた。
見上げれば、青い空。
鳥の声、森を渡る風。
すぐ目の前には、どこか懐かしさを覚える木造の建物。
軒先には「カフェ」の看板が揺れている。
「……《ヒヨリ亭》……か」
まだ何も始まっていない。
でも、この世界で何かを始める準備だけは、もう整っているようだった。