①1話〜 挫折
ヒナはエリンと出会い、時間をかけて気持ちを積み重ねる
穏やかな日々が次第に変化していく
種族、愛、信頼に悩み、乗り越えようとする物語。
小説1話:
【すれ違う街角、交わした家族の約束】
街は穏やかに賑わっていた。道を行き交う人々の中で、特に目を引く一団がいた。
その中心にいたのは、一人の青年──
肩にかかるほどの長さの銀白に
毛先が紫色の繊細な髪が軽やかに風になびく
赤い瞳、神秘的なエルフのような美しさの中に、悪魔のような妖艶さと威圧感を纏った存在。
まるで人ならざる者のような、美しさと冷たさが同居するような雰囲気だった。
通行人たちは無意識に足を止め、その姿に目を奪われる。
その隣にいたのは、
桃色のふわりとしたカールのボブヘアが揺れ、同じ色の犬耳と尻尾がぴこぴこと愛らしく動いている小柄な少年。
ピンク色の大きめの開いたパーカーから覗く黒のタンクトップ越しにニップルピアスの凹凸が薄らわかる。
獣人らしく引き締まった腹筋とすらりと伸びた脚。
耳にも複数のピアスを開けていて、
奇抜な服装と珍しい毛色の彼も また人目を引いていた。
「はじめまして、ノアです!
リオくんからお話し聞いてます!
狐さん、おれとも仲良くしてね〜!」
明るい笑顔と無邪気な声が印象的な彼は、ぱっと咲いた花のような天真爛漫さで、その場の空気を和らげていた。
ノアの愛嬌たっぷりの挨拶に、
紺色の狐の少年──蒼真は一瞬、目を見張った。
「すごい美少女だな…!…うちの自慢の弟達も美人だけどな!?」
思わず漏らす声に、隣の灰色の狐耳を持つ少年がぽつりとつぶやく。
「…兄さん、よく見て…たぶん、男の子だと思う」
左目が紫、右目が金色。アンニュイな雰囲気を纏い、どこか物憂げな双子の弟──夜白が小声で指摘した。
すると、その横にいたもう一人の狐──白夜がコホン…と咳払いをした。
彼は静かに一礼しながら、丁寧に言葉を繋げる。
「すみません…うちの兄が失礼しました。
改めまして、白夜と申します。
それと兄の蒼真、双子の弟の夜白です、よろしくお願い致します」
白夜の肩上で綺麗に切り揃えられた髪がお辞儀でサラリと流れる。
白と水色を基調にした袴風の羽織には、雪の結晶や桜が織り込まれている。
少し幼さは残るが狐の三人、特に額に角が生えた双子はまるで、どこかの神社に仕える神獣のようだった。
その様子を、隣で見ていた青年──リオンはくすりと笑った。
「…相変わらず暑苦しいな、弟離れできない『お兄ちゃん』は…。」
リオンはからかうように、唇の端をゆるく吊り上げた。
蒼真がむっとした表情で睨み返しながら、狐耳をぴくりと動かす。
「…なんでコイツに懐くんだよ、うちのかわいい弟達は…!」
蒼真は悔しそうに吐き捨てた。
ノアが、少し戸惑ったように問いかけた。
「…あの…!いやだったらごめんね…?
どうして…狐の群れから離れちゃったの…?」
その言葉を聞いた蒼真が
ため息をつくようにした後 答える。
「離れたっていうか…追い出されたんだ。
…双子は、悪魔と狐の混血種。
群れの長が“穢れ”だって決めつけた。
俺はただの狐獣人──純血を失って混血種にもならなかった一般的な中間種…いわゆる『交差種』ってやつだ。
亡くなった親の代わりに こいつらを守らなきゃって、それで必死に生き延びてここまできたんだ。」
ノアは小さく息を飲んだ。
──混血種。
純血の種族同士から、極めて稀に生まれる“魔力に満ちた特異体質”。
その存在は珍しく、同時代に出会える確率など本来なら限りなく低い。
けれど今、この場には──
悪魔とエルフの混血・リオン。
エルフと犬獣人の混血・ノア。
狐獣人と悪魔の混血・双子の白夜と夜白。
偶然のように見えて、決して偶然ではなかった。
引き合わせた気まぐれな悪魔の悪戯な笑みの裏に
どこまでが策略でどこまでが興味なのか、
誰にも読み取れない。
「だからさ。…悪魔の混血。
俺の家族に妙なことしたら……絶対に許さねぇからな。」
蒼真の言葉はまっすぐで、迷いがなかった。
兄としての誇りと、守ってきた時間。
それを失いかけている焦燥が、言葉の端に滲んでいた。
──家族愛、ね…。
大切なものを“家族”として扱い、縛る。
それが善意であっても、鎖になり得る。
リオンはそれを嗤うように、けれどどこか…憐れむように笑った。
「……あーあ、そっちの『家族』も重たいんだねぇ。」
彼の瞳はふと遠くを見た。
家族という言葉に縋り、依存し、壊れかけていった“優しすぎる少年”──
「家族、ね……オレさ、家族が欲しいとか、愛を返したいとか、離れたくないとかさ
そういうの……一度も思ったことないんだよね。」
「でも──“壊れた原因”がオレだったら。少しくらいは責任とってやってもいいと思ってる。」
リオンの声は、軽く響くようで、どこか静かな深みを孕んでいた。
「……エリンさんのこと、だよね?」
ノアが、ぽろっと言葉を零す。
その瞬間、時間が一瞬だけ凍る。
リオンの赤い瞳が、無言のままノアを見た。
無感情に見えるのに、どこかひどく冷たい。
ノアはビクッと肩をすくめて、慌てて両手を振る。
「ご、ごめん! なんでもない、今のナシでっ!」
リオンはため息をひとつついて、目を細めた。
ノアが小さくしょんぼりするのを横目に、リオンは再び蒼真へと視線を戻した。
「オレは双子が『必要だ』って言うから手を貸してるだけだよ。
別に他人の家族を壊そうとか、引きはがすつもりはないよ。」
「……あんたが時々なに考えてるかわからない。本心を話してるように見えない時がある。
…それでも」
蒼真が低く呟く。
「……場所も、食い物も、あんたが用意してくれたのは……感謝してる。
あの時、お前がいなきゃ、俺たち、どうなってたか分からなかった。」
「……でも俺は、兄としての責任を手放す気はねぇ。
誰かに譲るつもりもない。双子のことは……俺が、守る。」
そのぶっきらぼうな言葉に、白夜がピッと眉を寄せる。
「兄様……。
そういうところは、変わりませんね。
けれど恩を受けた相手に対して、その態度は──。
私は少し、怒っています。」
白夜の一人称は柔らかく、言葉は穏やかなのに、微かに頬を膨らませて本気で怒っていた。
蒼真は一瞬だけ目を逸らしてから、小さく鼻を鳴らした。
夜白が小声でぽつりと言う。
「……でも、兄さんは、ずっと俺たちを守ってくれてたし、リオンさんにも助けてもらったのも事実だし……。
どっちも、大事な人だから……うん、きっと、仲直りしてくれるよ…、兄さんが素直になれば…。」
その言葉に、リオンはくすくすと笑う。
「……かわいい弟たちに挟まれて、大変だね、“お兄ちゃん”?」
「……うるせぇ。」
蒼真が顔をそむけながら呟くと、ノアがぱっと表情を明るくした。
「じゃあ、みんなで帰ってお菓子食べよ〜!お話の続きはおれの家でしよっ!
それから、双子くんたちの新しいおうちも見てってね!
リオくんが放置してた空き家だから…まだちょっとお掃除しなきゃだけど、手伝うよ!」
「行こっ!」
ノアはそう言って、ぱっと笑顔で先に歩き出す。
狐兄弟も少し迷いながらも、その後に続いていった。
──その空気の中、
遠くの人混みの中を、一人の少年が通り過ぎていった。
白い髪に小柄な背。
青い瞳が好奇心に揺れ、人目を引く一団──リオンたちに、一瞬視線を向けて、また前を向いて歩いていった。
──その瞬間、ふと。
リオンは、わずかに足を止めた。
群れの流れに身を任せていたはずの空気が、わずかにざわめいたように感じた。
……ほんの一瞬、人混みの中から漂ってきた、淡い香り。
懐かしく、けれどどこか痛々しい気配。
「……これは──」
言葉にはしなかった。
だがその“匂い”は、決して錯覚ではない。
リオンはそっと立ち止まり、石畳の上に落ちた自分の影へ視線を落とした。
「……ちょっとだけ、見てきて。」
そう囁くと、リオンは自らの指先を噛み、血を滲ませる。
赤い血が、指先から一滴、影へと落ちる。
すると、影がゆらりと歪んだ。
静寂の中、影の奥から、黒く滑るような獣の気配が形を成していく。
狐のような姿を持ちつつも、翼のようにひらめく煙を纏った小さな影。
それは、リオンの影からするりと這い出し、地面を滑るようにして人混みの中へと消えていった。
──使い魔。
血を代償に呼び出される、闇の従者。
もとは狐たちの“式神”に近い性質の魔法。
リオンは、それを自分のものとして吸収していた。
そして、リオンは何事もなかったように歩き出す。
その背を、影だけが見送っていた。
──その影が追う白髪の小柄な少年こそが、
ノアとリオンが数年ぶりに再会するはずの“旧友”エリンの、新しい“家族”。
そしていずれ、彼らは再び巡り合うことになる。
⸻
森の奥にあるその屋敷は、静けさの中に佇んでいた。
レンガ造りの大きな家には柔らかな夕日が差し込み、まるで絵画のように美しい景色が広がっている。
小柄な少年──ヒナは、少し緊張した面持ちで扉の前に立っていた。
白い髪が夕陽を受けて淡く輝き、蒼い瞳が不安と期待で揺れている。
扉をノックすると、しばらくして中から足音が聞こえてきた。
そして、扉が静かに開かれる。
現れたのは──
まるで絵本の王子様のような、穏やかに微笑む美しい青年だった。
中性的で整った顔立ち、優しい緑の瞳に、淡い金色の髪が柔らかく揺れている。
色素の薄い繊細な風貌に、ヒナは一目でエルフだと分かった。
──それと同時に、胸の奥がぽっと温かくなる。
本当に…王子様みたいだ、と思った。
誰かが自分を出迎えに来てくれるなんて、本当にあるんだ──と。
「君が…ヒナだね?」
穏やかな声がそう語りかけると、ヒナは目を見張ってから、すぐに頭を下げた。
「はい…今日からこちらでお世話になります。どうぞよろしくお願いいたします」
主人──エリンは、ヒナの白い髪に目を留めて、柔らかく笑った。
「ようこそ、ヒナ。ここは静かな場所だから、きっとすぐに気に入ると思うよ」
その言葉に、ヒナの肩から少しだけ緊張が抜ける。控えめに頷くと、
主人は扉を大きく開き、「中へどうぞ」と手を差し出した。
その仕草はどこか優雅で、ヒナを迎え入れる心遣いが感じられた。
「ありがとうございます…失礼します。」
ヒナは緊張してその手を取ることはできなかったが、一歩一歩、重い足取りで屋敷の中へ入った。
家の中は想像以上に広々としていて、暖かな雰囲気に包まれていた。
高い天井、大きな窓から差し込む光、どこか懐かしさすら感じる空間だった。
「疲れてない?少し休むかい?」
主人の優しい声に、ヒナははっとしたように顔を上げた。
「いえ、大丈夫です。すみません…少し緊張していて…」
正直な言葉を口にしてしまったヒナに、主人はクスリと笑みをこぼした。
「緊張しなくて大丈夫だよ、肩の力を抜いて。
君がここにいる間、君のことを本当の家族だと思って大切にするつもりだから──仲良くしよう。
よろしくね、ヒナ。」
その言葉に、ヒナは心の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
そして、初めて笑顔を見せた。
「…ありがとうございます…!」
勢いよくお辞儀をするヒナ。
その瞬間、2人の関係が始まる予感が漂っていた――。
【小説2話:新しい家】
「寝室、できたっすよ〜。
もー、マジで人使い荒いっす。リオンさんの頼みじゃなきゃ手伝わなかったっすよ〜」
ぼやきながら廊下から顔をのぞかせたのは、赤髪の狼獣人の青年・煉。
やや乱れた長髪の毛先を揺らしながら、ふわっと顔を覗かせる。
その声に反応して、ノアがぱっと顔を上げた。
耳がぴくりと動き、笑顔が花開くように浮かぶ。
「煉くんありがと〜! じゃあちょっと休憩しよ!
夜白くんと白夜ちゃんも、それ途中でいいからおやつ休憩しよっ」
ぱたぱたと手を振るノアの声に、リビングの奥からふたりの少年が振り向いた。
「……おやつ……果物、ありますか」
夜白がぼそりと呟くと、隣の白夜が溜め息まじりに首を振る。
「夜白、遠慮がないですよ。私達、良くしてもらっているのですから、我儘を言ってはいけません」
背中を軽く押され、夜白はもじもじとしながらリビングへ向かった。
────
「煉くん、お手伝いありがとね!
ちゃんと紹介してなかったけど、改めて……この子達、狐の蒼真くんの弟の白夜くんと夜白くん!」
にこっと笑って、片手でふたりを指し示す。
「混血種の双子くんだよ!
悪魔と狐獣人の血が入ってるんだって」
煉と呼ばれた若い青年は、ちらりと自分よりも小さな体の狐の双子を見下ろした。
その金の瞳は、まるで人を見透かすようだった。
赤い獣耳と尻尾に褐色の肌。
赤と黒を基調にした服は、どこかアラビア風の刺繍が施され、放浪者にしては上等だ。
飄々と笑うその様子から、素性は掴めない。
「ある程度は知ってるっすよ。蒼真とは何回も会ってるんで。
弟達は今日初めて会ったっすけど」
気怠げに笑うその姿とは裏腹に、視線だけは鋭く双子を見定めていた。
薄く目を細め、その声色にわずかな探る気配が滲む。
「おとなしくなった現代悪魔の子供なんすよね。混血種なら……強いんすか?」
突きつけられたようなその物言いに、白夜の眉がわずかに動いた。
不快感を押し殺すように、わずかに目を細めて身構える。
「私達は戦ったことなどありません。
……貴方、兄と知り合いなのですか。どういう関係なんです?」
煉は肩をすくめると、壁にもたれかかる。
「リオンさんが紹介してくれたんすよ。」
夜白の小さな声が重なる。
「……リオンさんの……友達?」
空気が少し硬くなったのを察してか、ノアが笑顔で口を開いた。
「え〜と……ミアちゃんっていう、精霊王の血を受け継いでる女の子、知ってるよね?」
白夜は頷きながら、まっすぐに答える。
「知ってます。特別な力を持った少女。浄化の涙を持つって、神聖視されている存在ですね。
鮮度で劣化しない魔力……その涙を原料にした薬品開発。……獣人の抑制剤も、彼女の涙から。
ですが……最近は品薄ですね。どうしてでしょうか」
その言葉に、ノアは表情をほんの少し曇らせて言った。
「ミアちゃん本人が、攫われちゃったから」
瞬間、白夜と夜白の瞳がわずかに見開かれる。
驚愕と同時に、心のどこかにあった不安が現実となった瞬間だった。
「でも、やっと見つけたの! リオくんと一緒に!」
ノアの声には、微かな安心がにじんでいた。
壁にもたれていた煉が、ふっと口を開く。
「実行犯の一部のエルフ達と猫又の少女。
リオンさん達が生け捕りにしようと追い詰めたのに、
その瞬間、消えちゃったんすよね。堕天使の羽根に変わって……。」
「ま、オレはその場に居合わせただけっすよ。部外者っす」
その目元に、一瞬だけ鋭い光が閃く。
「いや〜……悪魔とエルフ…相反する2種族の血が入った混血種って、存在が奇跡っすよね!
魔力高い種族同士の血を引いてて、めちゃくちゃ戦闘向きっすもんね……マジで怖ぇーっす」
鋭い牙を覗かせる笑顔とは裏腹に、どこか探るような気配があった。
そしてふと、視線を夜白たちから外す。
「だから、ついてきたんすけどね。
強い人に惹かれるのは、獣人の本能みたいなもんっすかね〜」
軽く体をひねると、煉はそのまま玄関へと歩き出す。
「とりあえず。雑用済んだんで、俺は戻って人探しっす。
珍しい血筋と、その猫又少女の行方追わなきゃなんねーんで。
……不思議っすよね、すぐにミアさん取り返しに来てもおかしくねーのに、なんで来ないんだろ……」
そう呟いたその背中に、ふいに布の擦れる音。
振り返ると、ノアがそっと煉の袖を掴んでいた。
「……ノアさん?」
煉の問いに、ノアは真剣な顔で首を振った。
「煉くんは今日はお泊まり。
リオくんと蒼真くんが帰ってくるまで、待ってて」
そのまなざしは真っ直ぐで、揺るぎがない。
「狐くんたちにもお願いしたいの。ミアちゃんのそばにいてあげて。守ってて欲しいの。
リオくんも魔法かけてくれてるから心配ないけど……変な人が近づいてきたら、ちゃんとリオくんに報告して」
白夜と夜白は目を見開いたまま、しばし動かなかった。
やがて、互いに視線を交わし──静かに、頷き合う。
「もちろん、協力します。我々には恩がありますから」
「……護衛だ……俺、頼られてるってこと……だよね」
夜白の声は小さいながらも、どこか誇らしげだった。
──────
夜の帳が降りる頃、雨がぽつぽつと降り始めていた。
屋敷を囲む静かな森はその雨音を優しく受け止め、まるでヒナを迎え入れるように穏やかな空気に包まれている。
与えられた部屋の扉をそっと開け、ヒナは中へと足を踏み入れた。
白いカーテンが柔らかな月明かりをぼんやりと遮り、どこか温かみのある空間だった。
木製のベッドに白いリネンが整然と敷かれ、書き物机にはシンプルなランプが置かれている。
壁には小さな棚があり、本が何冊か並んでいた。
どこか懐かしさを感じる静謐な部屋だった。
ヒナはその部屋の空気を一度吸い込むと、肩から鞄を下ろし、軽くため息をついた。
「…つかれた…」
独り言が自然とこぼれる。
遠い土地からの移動、その上、今日から仕える主人に初めて会った緊張感
──すべてが重なり、身体がどっと疲労を感じていた。
鞄を床に置くと、ヒナはふと周囲を見回した。
部屋の隅々まで整えられた清潔さは、主人が事前に気遣いを込めて準備してくれたものだとすぐにわかった。
その事実に、ヒナの胸がほんの少し温かくなる。
外では雨音が静かに響いている。ぽつぽつと窓を叩く音は、耳に心地よいリズムとなり、ヒナの疲れた心を癒していった。
ヒナはベッドの端に腰を下ろし、ぼんやりと窓の外を眺めた。雨に濡れた庭木が淡く光を反射しているのが見える。自分の新しい生活がここから始まる――
その実感が、胸の奥でじんわりと広がっていた。
「明日から…どうなるんだろう。」
ヒナはぽつりと呟いた。
その声は、部屋の中で静かに消えていく。
ヒナは主人の柔らかな声や穏やかな物腰を思い返すたび、少しだけ胸が高鳴るのを感じた。
それがなぜなのかは、まだ自分でもはっきりとはわからなかった。
「…ボク、本当にやっていけるのかな。」
ベッドに横になると、ヒナはそっと瞼を閉じた。雨音が遠くで優しく響き続けている。
……その頃、屋敷の外。
雨に濡れた木々の間を滑るように、黒い影がひとつ、音もなく忍び寄っていた。
それは狐の形を模した小さな使い魔。
リオンの血を代償に生まれ、静かにヒナの“気配”を辿っていた。
けれど、屋敷の門へと近づいた瞬間──
「……っ」
何もない空間に、バチリと火花のような反応が起きた。
目に見えぬ結界が、使い魔の身を押し返す。
空間そのものが、優しく、けれど確固たる意思で「中へ入るな」と拒絶していた。
結界の魔力は、静かに光を放つようだった。
守るためだけに展開された、純粋で穢れなき力。
それはまるで──「この場所は、大切な者を守っている」と語っているようだった。
使い魔は微かに形を崩し、そのまま音もなく霧のように掻き消えた。
──ヒナは、まどろみの中でふと、何かの気配を感じて目を開けかけた。
……けれど、それはほんの一瞬のことで、
眠気に引き戻されるように、再び瞼が閉じていった。
「……なんか、今……誰か……」
雨音が、すべてを包み隠すように優しく響いている。
どこか遠くから聞こえたその音は、もはや幻のように溶けて消えた。
体の疲れが次第にヒナの意識を引きずり込む。
明日から始まる新しい生活――期待と不安が入り混じり、ヒナはいつしか静かに眠りに落ちていった。
【小説3話:欲望を映す一口の魔法】
雨音が強くなり始め部屋に響くような夜。
使い魔の羽音はもう聞こえず、代わりに紙をめくる乾いた音が、静かな空間に淡々と響く。
「使い魔……結界に触れて、消滅したみたい。」
本を持つリオンがぼそりと呟いた。
「え〜!? 何かしてたの?」
リオンの言葉にノアが身を乗り出すようにして聞き返す。
「街で面白い奴見つけたから、追いかけさせてたの。
……エリンの屋敷にいる。」
エリンの名前に反応して、ノアの耳がぴくりと立った。
「エリンさんっ!? 元気かなぁ〜!
リオくんのお城出てからしばらく会ってないから……会いたいな〜!」
「……別にオレの城じゃないけどね。
あれ、悪趣味な奴隷屋敷でしょ。」
リオンの冷めた声に、ノアは少し戸惑ったように笑ってみせる。
「え〜……うーん、まぁ、そう……かも?
でも〜……おれとリオくんとエリンさんの“出会いの場所”っていうか〜…。」
どこか懐かしむように目を細めながら、ノアはぽつぽつと話し始めた。
「おれ、あの時はエリンさんよりももっと、チビちゃんだったし……。
やなこともあったはずなのに、覚えてないことの方が多いけどね〜」
ノアの声にふと翳りが混じる。
「大きくなったら天使に会わせるから……って、
体が成熟するまで魔力を蓄えろって言われて、無理やり譲渡されそうになって……」
ぽつりぽつりと語られる記憶。
ノアの声はだんだん小さくなっていった。
「……なんか、わけもわかんなくて、でも…全然知らない悪魔の人に触れられるの怖くて……いやで……
逃げ回ってばっかで、抵抗してて……
それで魔力が枯渇して、倒れて……」
ノアはリオンを見上げ、切り替えるように笑ってみせた。
「でも!それでリオくんと出会えたんだよ〜。
王子様のお迎えみたいでしょ?♡
……運命って、感じだよね! ねっ、リオくんっ♡」
「……もっと敵意むき出しにしてたよね。
オレが譲渡しようとしたら、死にかけのくせに抵抗してきたじゃん。」
リオンの皮肉混じりの返しに、ノアはぷくっと頬を膨らませてみせる。
「その時は〜…悪魔だからって決めつけちゃって〜…ごめんねっ。今は抵抗しないから いつでも来て〜♡
愛するリオくんに魔力を注がれるなら大歓迎だよ〜!」
ノアは目を輝かせながら、
ふと何か思い出したように、楽しそうに話し始めた。
「ねーねー! 悪魔の人ってパートナーたくさん持つものなんでしょ?
なんかその方が“強くて魅力的!"って周りに自慢できるとかって……本に書いてあった!」
「“なかよし”じゃなくて、噛み合って魔力を奪い合うように上下関係を決めるみたいな、交尾するんでしょ〜!?知ってるんだよ〜!」
「……一般的には、そう。詳しくなったね。」
「えへへ〜! 調べましたっ!」
ノアは胸を張って言った。
「悪魔の文化でね、
他の人に魔力を奪われ続けちゃうような悪魔が“ひとりで慰める”のって、すごく恥ずかしいことなんだって〜!
えっちな気持ちも自由に引き出したり抑えたりできるから、
ほんとは一人でする必要がないって書いてあったも〜ん!」
くるりと身をひねって振り返るように笑う。
ノアは照れ笑いを浮かべて身を寄せた。
「おれ、お利口でしょ♡
ちゃんとお勉強しないと、リオくんのお嫁さんになれないかな〜って思ってっ!」
リオンは、やや冷めた目でノアを見た。
「……それは無駄な勉強したね。」
「え〜!? どういうこと〜!?」
「…今使わない知識も今後 役に立つといいね。」
「えっ!? 未来の旦那様のことだもん、
お嫁さんになるなら、相手の種族のこと詳しく知るのは当然だよね!?」
「そう? いい悪魔に出会えるといいね。応援するよ。」
「なんでそんな他人事なの〜!?
リオくんとノアが結ばれるんだよ〜!」
ノアはぐいっとリオンに身を寄せた。
「子供もたくさん欲しいな〜♡
女の子の体に変身して……その変身が解けないように、おれの魔力が尽きないように、リオくんが魔力をずーっと注いでくれたら、おれ……子供産めるんだよ〜♡
おれ、ままになりたい!
リオくんと家族になりたいのに〜っ!」
「……。」
「無視しないで〜! まだ先の話だからっ!
これから頑張ってリオくんを振り向かせるところなんだよ〜!」
リオンは、肩をすくめるように呆れ顔をした。
「……計画雑すぎ。
振り向かせるとか言って自分の願望 押し付けすぎ」
「めちゃくちゃ引いてるぅぅ〜〜!?
やだ〜! 離れないでよリオくぅん……!」
「犬の鳴き声混じってるよ。
ノアって面白いね。うるさいけど。」
「でも役に立つもんっ!」
「……たまにね。」
リオンがノアの頭をくしゃっと撫でると、ノアは嬉しそうに尻尾を振って、にこにこ笑った。
「おれ、狐さんの引っ越し手伝った! あとね、ミアちゃん守って〜ってお願いもちゃんとした!」
元気よく報告するノアに、リオンは手を止めることなく本のページを繰り続けながら、無言のままノアの頭を撫でる。
その手つきは雑でも冷たくもない。ただ淡々とした、日常の仕草のように自然だった。
「さっきから読んでるの、龍の魔導書の写し〜?
また魔法調べてきたの〜?」
「そう。変わった魔法の登録が増えてるし、見てて飽きないよ。」
「おれは半分獣人だから魔法、得意じゃないけど〜。」
ノアはしゅんとした表情でしっぽを小さく揺らしながら、隣に座り込む。
「魔法ってさ、初めて発動するとき龍から名前がつけられるんだよね!そのときに龍の魔導書に自動的に名前が書かれるんでしょ〜?
見た人が多ければ多いほど、魔法のこと、詳しく本に載るんだよね〜いいよね〜神託ってやつだよね〜!」
ノアは目をキラキラさせて、足をバタバタとさせ興奮気味に語っている。
「いいな〜、おれも自分だけの魔法とか欲し〜い!!
リオくんに褒められたいもん〜!
ないかなぁ、なんかこう……メロメロにしちゃうやつとか…」
「でもノアが堕としたい悪魔種ってマインドコントロール系の魔法得意だし耐性もあるから、あんまり効かないよ。」
「悪魔が好きってわけじゃないもーん…
いいなぁ、魔法…ずるいなぁ〜……」
ノアは拗ねた様子で唇を尖らせる。
「夢魔の魔法で、相手の唾液を飲むと求める欲や理想がわかるやつとかはある。
『夢遊惑』って魔法。
昔サキュバス見て習得して、意外と便利だなって思った。」
「え〜!いいな〜!おれもそれ覚えた〜い!!」
ノアはキラキラした目で、耳をぴくぴくと動かしている。
「ノアはエルフと獣人の混血なんだから、覚えられそうなのは守護魔法とかじゃない?」
「でも『結界』とか強い魔法は使えないよ〜!
おれ魔力の器大きいみたいだから総量はあるのに〜、もったいないよね〜」
耳をぺたんと伏せ、情けない声で呟くノア。
「何もできないのに魔力いっぱい持ってるだけ、って…」
「それはそれで役に立ってるからいいよ。」
その一言にノアはぱっと顔を上げ、ぽっと頬を赤らめる。
「…えへ♡ リオくんになら、いつでも魔力あげちゃう!
いっぱい血液吸っていいよ〜♡
血液じゃなくて…精液でも…いいよ♡」
もじもじと足をすり合わせながら、甘えるように上目遣いで見つめる。
「…血液の方が手っ取り早いから血液だけでいいよ。
悪魔で良かった、エルフは血液から魔力回復できないから面倒だよね。」
リオンはそう言うと視線を本へ戻し、
淡々とページをめくった。
「……“口止め”の魔法の記載が増えてる。誰かにまた使ったんだ。」
「……ん!?“口止め”!?…って、あれだ!
使われた人、秘密お喋りできなくなるやつ!
猫又の女の子の!!」
ノアは立ち上がりかける勢いで身を乗り出す。
「ミアちゃんの! 誘拐犯の子だ!!
おれのせいで……逃げられちゃったやつ!」
リオンはページを閉じると、静かに言った。
「いや、ノアのせいじゃないよ。
ノアが止めなきゃ、殺してたかもしれないし……止めてくれて助かったよ。」
「…ん、ノア、お利口?」
しっぽをふりふりと揺らし、甘えるように首を傾げるノアに、リオンはふっと笑みを浮かべて魔導書を手渡した。
「ありがと。助かってるよ。
変な お勉強よりも魔法の勉強、頑張ってね。」
作ったような甘い口調と優しげな笑顔。
けれどその笑みの奥にあるものは、読み取れない。
ノアは本を抱えながら、ちょっぴり不満げに唇を尖らせた。
「う〜……魔法かぁ…。
心を成長させて…ちゃんと使う魔法のイメージして…。
うーん…やっぱり詠唱とか、モーションも必要かなぁ……」
「リオくんの魔法は発動早いし、何も動きとかなく使えるもんね…
おれ、治癒魔法する時もお祈りするのに…」
「……今日珍しく落ち込むね。どしたの」
リオンの何気ない声に、ノアの肩が小さく揺れた。
「ん……おれも頑張る。みんなに置いていかれたくない…。魔法も、もっとできるようになる。
だから……リオくん、おれのこと見捨てないで……ずーっと、そばにいて……」
ぽつりと漏れたその声は、
夜の静けさに溶けるような、切実な祈りのようだった。
リオンはしばらく黙ってノアの方を見つめた。
赤い瞳が細く揺れ、まるで相手の本音を見透かすような視線。
「…まだ使えるのに、拾った命をわざわざ捨てるなんてしないよ。"眷属印"までつけたんだしね。」
それは甘やかしでも、慰めでもない。
ただ、リオンという存在が発する、絶妙な温度の保証のような言葉だった。
ノアの目がぱちぱちと瞬き、口元がふにゃりとほころぶ。
「……ん、よかったぁ……えへへ」
胸の奥からふっと力が抜ける。
心配でぎゅうぎゅうになっていた胸の中が、少しだけ、ほぐれていく。
「じゃあ……ね、今日…隣で寝ていい?」
「……ノアが静かにするなら。」
「うんっ、がんばるぅ〜!」
ノアは嬉しそうに尻尾を揺らしながら、毛布を引っ張ってベッドの端に潜り込む。
リオンはため息を一つついたあと、ノアの頭をぽすりと軽く叩いて、灯りを消した。
部屋の中が静寂に包まれる。
「……リオくん。」
闇の中から、ノアの小さな声。
「ずっと一緒にいられるように……おれ、強くなるから。」
リオンは答えず、ただ気だるげに目を閉じた。
だがその唇の端が、わずかに上がっていたのは──闇の中、ノアには見えなかった。
【小説4話:不自然なお屋敷】
ヒナが目を覚ますと、窓から朝の柔らかな日差しが差し込んでいた。遠くで鳥の声が聞こえ、静かな屋敷の朝がゆっくりと始まっている。
「…朝…」
ヒナは静かに呟きながら身支度を整え、扉をそっと開けた。
廊下を歩くと、キッチンからかすかに漂う香ばしい匂いが鼻をくすぐる。
気配を感じてそちらを覗くと、主人が軽やかに手を動かしながら朝食を準備しているのが見えた。
「おはよう、ヒナ。」
主人が振り返り、柔らかな笑顔を向けてくれる。
その声と表情に少し緊張しながらも、
ヒナは控えめに「おはようございます」と返した。
キッチンに入ると、主人はテーブルにパンや果物を並べているところだった。
ヒナはその光景を少しの間ぼんやりと眺めていたが、ふと我に返り、「手伝います!」と慌てて申し出た。
「ありがとう。でも大丈夫だよ、もうほとんど終わってるから。
だけど、せっかくだから明日は手伝ってもらおうかな。
一人で朝食を取るのも、なんとなく寂しいからね」
主人の優しい声に、ヒナは小さく頷く。
それでも少しでも役に立ちたいと、ぎこちなくテーブルの準備を手伝い始めた。
パンとスープが並べられたテーブルにつき、2人は朝食を取った。
主人が「いただきます」と軽く手を合わせるのを見て、ヒナも慌てて真似をする。
「これ、美味しいですね…!」
ヒナがスープを一口飲んで言うと、主人は嬉しそうに笑った。
「ありがとう。簡単なものだけど、そう言ってもらえると嬉しいよ。」
──
朝食を終えた後、主人はキッチンを片付けながらヒナに声をかけた。
「今日は少し家の中を案内しようか。ヒナも少しずつこの家に慣れないとね。」
ヒナは素直に頷き、主人の後をついて屋敷の中を歩く。
広々とした廊下や、趣のある家具が置かれたリビング、
そして大きな窓から見える庭の風景──
広い廊下を進むたびに、いくつもの扉が視界に入る。
そのどれもが閉ざされていて、ただ沈黙が漂うばかりだった。
気づけば、歩いても歩いても続く長い回廊。
視線を向けるたび、重厚な木の扉が並んでいる。
(ご主人様が1人で住んでいるにしては、広すぎる……。)
そんな考えがふと頭をよぎった。
「基本的には自由にしてて構わないよ。
ヒナには今日は仕事をしてもらうつもりはないけど、
生活に慣れて落ち着いたら少しずつ任せていくね。」
主人の優しい声が違和感を掻き消すように響く。
「自分の部屋…と、個別の部屋は僕が掃除するから、
ヒナには それ以外の場所を任せていいかな?」
「……あの…良ければ…個室の清掃もボクがします…。」
ヒナは少し迷いながらも申し出る。
「仕える立場ですし、お世話になるだけじゃなくて役に立ちたいんです。」
すると、主人は少しだけ微笑んだ。
「大丈夫だよ。掃除は結構好きなんだ。
それに……ここは、そのままにしておきたい物がたくさんあって……。」
主人の言葉が、ふっと途中で止まる。一瞬、言葉を探しているような間が生まれた。
(……“そのままにしておきたい”?)
ヒナの胸に、言葉にならない小さな疑問が生まれる。
主人の微笑みは変わらないままだったが、どこか寂しさの滲んだような表情にも見えた。
「ごめんね、せっかくの好意だけれど、代わりに他のことを頼んでもいいかな?」
「……はい。」
ヒナはそれ以上何も聞かず、小さく頷いた。
「…。庭に花壇があるんだ。見る?」
唐突に話題を変えるようなその言葉に、ヒナは少し驚いたが、すぐに気持ちを切り替えた。
「見ます!」
主人の微笑みが、いつもの優しいものに戻る。
外へ出ると、静かな庭が広がっていた。
広い空間に どこか手入れの行き届いていない花壇がぽつんとある。
ここにいると不思議と落ち着く。
ヒナはそっと目を閉じ、
風にそよぐ花々の気配を感じながら、思った。
──この家の中の「そのままにしておきたい」場所とは、一体なんだろう?
──ご主人様は、どうして1人でこの広い屋敷に住んでいるのだろう?
小さな違和感が、胸の中で静かに芽生え始めていた。
外に出ると、柔らかな風が2人を迎えた。
庭には広々とした空間が広がり、中央には雑草がところどころ生えた花壇が見える。
形だけは残っているが手入れがされていないのが
一目でわかる状態だった。
「ここを少し手入れして欲しいんだ。ヒナに任せてもいいかな?」
主人の声は優しく、どこか信頼を込めた響きがあった。
ヒナはその言葉に少し驚きつつも、頷いた。
「…はい、頑張ります。」
広い庭は日当たりも良く、風が心地よい場所だった。
ヒナはふと目を閉じて、風の中に漂う穏やかな気配を感じ取った。
この場所は、きっと自分のお気に入りになる──
そんな予感がした。
⸻
昼下がりの市街地。
石畳に反射した陽光が柔らかく街路を照らし、人々の足取りもどこかのんびりしていた。
引っ越しの買い出しを終えた蒼真は、最後に寄り道した花屋の前で足を止めた。
「……やっぱこれかなぁ。ノアちゃん、こういうの好きそうだし」
ブツブツと呟きながら、ショーケースに並ぶ花々を真剣な表情で見つめる。
やや照れくさそうに目を逸らしながらも、選んだ花をレジへ持っていこうとしたその時──
ポケットを探る手が、ぴたりと止まった。
「……ない」
瞬時に焦りが走る。
他のポケット、小袋、腰の袋まで確認するが──見つからない。
「……うっそだろ、財布……忘れた……!?」
顔を青ざめさせながらアタフタと全身をまさぐる蒼真。
その背後から、冷えた声が静かに降ってきた。
「……遅い。何やってんの」
「っ……あ!」
振り向いた先、銀白の髪がさらりと揺れる。
リオンが、腕を組んでじっとこちらを見ていた。
「……いや!その……財布が見つからねぇんだよ!」
両手を広げて言い訳を飛ばす蒼真に、リオンは片眉を上げる。
「じゃあ花買うのやめれば?」
一蹴された言葉に、蒼真はむっと眉を寄せる。
「ノアちゃんに誕生日プレゼント渡したいんだよ!
感謝の気持ちを込めて…!
これからは隣で暮らすんだしな」
少し照れくさそうに言った蒼真は耳まで赤くなっていた。
すると──店の奥から、若いエルフの花屋の娘がおずおずと現れた。
リオンの姿を認めた瞬間、頬をほんのりと赤らめて、
もじもじと視線をさ迷わせながら声を発する。
「……ぉ、お代は、大丈夫です……。
今度来た時に……持ってきていただければ……」
蒼真ではなく、何度もちらちらとリオンを見ている。
その意図に気づいた蒼真は、気まずそうに唇を結び、隣のリオンをちらりと一瞥。
しばらく沈黙した後、彼は小さくため息を吐いた。
「…………はぁ……」
リオンはその空気を一蹴するように花屋の娘に淡々と告げる。
「大丈夫。オレは隣の貧乏と違ってちゃんと払うから」
「…お前は!一言多いんだよっ……!…〜っ…!
でも…っ、……ありがとな!!」
不器用に礼を言いながら、蒼真は小さな声でぼやきつつ店を出た。
その手には、鮮やかな花束が大事そうに握られていた。
──
狐兄弟の新しい家へ戻ると、リビングではノアがモップを手に床を拭いていた。
ぱたぱたと尻尾が揺れ、耳もぴょこぴょこと忙しない。
「ノアちゃん!」
蒼真が声をかけると、ノアはくるっと振り返って顔を輝かせた。
「リオくん、蒼真くん!おかえり〜!」
「これ!俺からの気持ちだ!出会う前に誕生日 過ぎちゃってたから、なんかプレゼントしたくってさ!」
少し照れくさそうに笑いながら、蒼真は花束を差し出す。
その手の中には、色とりどりの花がふわりと広がっていた。
ノアの目が、ぱぁっと輝く。
「わ〜〜♡お花だ!蒼真くん、ありがと〜〜〜♡
リビングに飾っておくね〜♡」
尻尾がぶんぶんと大きく揺れ、ノアは小躍りするように花を受け取った。
その光景を見ていたリオンが、肩をすくめながらぼそりと呟く。
「……人の金で買った花を堂々と渡すの、面白いね。
恥知らずって感じで」
「家着いたらちゃんと返すって言っただろ!!」
むくれ顔で蒼真はテーブルに出しっぱなしになっていた財布を取ると、無言で硬貨をリオンの前に差し出す。
「いらない。貧乏人から金巻き上げる趣味ないんで」
リオンが受け取ろうともせず、ノアの方に目を向ける。
「…ノア、嬉しい? オレからのプレゼント♡」
わざとらしく微笑むリオンの その言葉に、
ノアは嬉しそうに目をキラキラさせながら答えた。
「リオくんがおれのために買ってくれたの?!
うれしい〜〜〜♡♡一生大事にする〜!」
ノアの尻尾が千切れそうなほど元気に揺れ、
蒼真は呆れたようにリオンを軽く睨んだ。
「……こいつ……!」
その時、奥の部屋から夜白がひょこっと顔を出した。
「…おかえり…」
今にも眠りそうな小さい声だった。
続いて白夜も腕に箱を抱えて現れた。
「ノアさん、このアクセサリーの山、どこにしまいますか?」
「それね〜リオくんが貰ったやつだから〜、
…ノアの家に持ち帰ろうかな!
リオくん用のお部屋に飾っておく♡」
ノアは箱を抱えてテーブルの上で整理を始めた。
楽しげに鼻歌を歌いながら、丁寧にひとつひとつのアクセサリーを並べていく。
リオンは、無邪気に笑うノアを少しの間だけ黙って見つめていた。
口元がほんのわずかに緩み、けれどすぐに元の無表情に戻る。
そして、淡々とした声で話題を切り替えた。
「…煉は?話があるんだけど」
「えっ?あれ?さっきまでいたんだけどな〜」
ノアが探すようにキョロキョロと辺りを見渡すと
その時、花瓶を抱えた白夜が再び現れる。
「煉さん『夜には帰るから』って言って出かけましたよ」
白夜が手早く花を花瓶に移しながら、花束を整える。
「え〜!またすれ違い!?
煉くん、また危ないことしてないといいけど〜心配〜」
リオンは背中を向け、静かにひとことだけ呟く。
「帰ってきたら呼んで」
「わかった!おやすみ、リオくん♡」
ノアが手を振りながら送り出すと、リビングの扉が静かに閉まる。
静寂が戻った部屋で、白夜がぽつりと呟く。
「……今から寝るんですか……?」
ノアが首をかしげながら、きょとんとした目を向けた。
「え?白夜ちゃん達も悪魔の血入ってるよね? 夜型じゃないの?」
「私は朝は寝てますけど、午後には起きてますよ。
夜白は隙があれば寝てますけど…」
と、白夜が言いかけたところでハッとしたように目を見開く。
「……!ちょっと、部屋を見てきます」
そのまま慌ただしくリビングを飛び出していった。
しばらくして、遠くの部屋から「夜白、起きてください!」という白夜の声が聞こえる。
ノアは花瓶の水を入れながら、尾をゆるゆると揺らした。
にこにこと笑顔を浮かべ、今日という穏やかな一日をふわりと思い返しながら、
小さな鼻歌を口ずさんだ。
「わわわわ〜ん♪」
花瓶の中で揺れる花々が、嬉しそうに陽を浴びていた。
【小説5話:庭とピアノの音色】
庭に出たヒナは、日課の花壇の手入れを始めていた。
その時ふと屋敷からピアノの音色が聞こえてきた。
「…ノクターン。」
主人が奏でる旋律に、ヒナは思わず作業の手を止める。
風に溶けるような優雅な音色が、どこか心を落ち着かせてくれる気がした。
──
庭仕事を終えると、テラスに座って紅茶を楽しんでいた主人がヒナも休憩しよう、と優しい声で誘ってくれた。
「お疲れさま。ありがとう、こんなに綺麗にしてくれて。」
「いえ、これくらいなら…」
少しの間、風の音と静かな空気が2人の間を満たした。
ヒナは迷いながらも思い切って口を開く。
「あの…ご主人様は、ピアノの演奏をされるんですね。」
主人は少し驚いたように目を見開き、それから微笑みを浮かべた。
「ああ、少しだけね。聴こえていたの?」
ヒナは恥ずかしそうに頷く。
「すごく…綺麗な音でした。ボク、外で作業していても聞き惚れてしまいました…。」
主人は照れたように笑い「そう言ってくれると嬉しいよ。」と控えめに返す。
ヒナが手元のカップを持ち上げ、紅茶を一口飲み干したその時、主人がふと口を開いた。
「ヒナはピアノを弾くの?」
不意に投げかけられた質問に、ヒナは一瞬動きを止めた。
そして、主人の優しい眼差しを受け止めると、小さく頷きながら「はい…」と小さく答えた。
主人がその答えに目を細める。
「そうなんだ。
それなら、この家にピアノがあって良かった。」
ヒナは一瞬迷うように視線を落とし、少し控えめに続けた。
「…でも、ご主人様みたいに上手には弾けません。1人で弾いていただけなので…。」
主人の口元に優しい微笑みが浮かんだ。
「謙遜しなくてもいいのに。ピアノ、好きなんだね」
その声に促されるように、ヒナはもう一度小さく頷いた。
「はい…この家に来る前の家では時間があるときには いつも…。」
言いながら少し表情が曇ったヒナを見て、
主人ができる限り優しい声で言った
「いつでも好きな時に弾いていいからね。
家のピアノが、ヒナの手で音を奏でるなら嬉しいよ。」
主人の穏やかで優しい言葉に、ヒナの胸の奥が静かにトクンと高鳴る。
それは、あたたかい感覚だった。
今まで家族にこんなに優しくされたことがなかった…
以前の家では いつも1人で、義母が使わなくなった古いピアノをコッソリと弾いていただけだった
楽しみと言えば、読書とピアノくらいだった
しかし屋敷に来てからの主人の言葉ひとつひとつが、
ヒナの冷たくなっていた心に静かに染み込んでいくのを感じた。
この屋敷に来る前は、ただの「仕える関係」だと思っていた。
けれど、その枠を超えた主人の優しさに触れた瞬間
ヒナは自分の中に湧き上がる感情が少しずつ形を持ち始めていく
その日は何事もなく過ぎていったが、
その穏やかな日常の中で、ヒナの心は少しずつ、そして確実に主人に対して開いていくようになっていった。
【小説6話:だれもいない家】
朝、主人はヒナに短く留守番を頼んで家を出た。
「行ってきます」と柔らかく笑う主人を、ヒナは「いってらっしゃい」と小さな声で見送った。
玄関の扉が閉まり、鍵が回る音が響くと、広い家の中に静寂が訪れた。
一人になったヒナは、ふと、義理の両親と過ごした家の孤独を思い出す。
薄暗い家で一人、義理の母のピアノに触れることだけが心の支えだった日々…。
その記憶が一瞬、胸をかすめる。
「違う…ここはあの家じゃない。」
ヒナは首を振り、無理やりその記憶を追い払った。
確かに、今の静けさは似ているけれど、
この家には主人と過ごした温かな空気が流れている。あの家とは全然違う。
そう心で言い聞かせると、ヒナは気持ちを切り替えるように立ち上がった。
けれど、家の中がいつもより広く、少し寂しく感じられることに気づいて落ち着かなかった。
自室に戻ると、自分のものがほとんどない部屋は整然として綺麗だが、どこか物足りない。
ふと目に留まった本棚には、自分のものではない本が並んでいる。
ヒナは無意識にその中の一冊に手を伸ばしかけ、ふいに孤児院での記憶がよみがえった。
今よりもっと幼い頃、施設で掃除を手伝っていた時のこと。
机に置き忘れられた『愛着障害について』という本を見つけ、ヒナは数ページだけめくってしまった。
『不安型愛着障害』──
「幼少期に十分な愛情を得られなかった子どもは、成長してからも強い不安や依存傾向を持つことがあり…」
難しくてよく分からないと思った瞬間だった。
「ヒナくん、何してるの!」
血相を変えた大人が駆け寄ってきて、普段とは違う、大きな声を出した。
ヒナはびくりと肩を震わせ、慌ててしまい本を落としてしまった。
「ご、ごめんなさい…!」
何がいけなかったのか、あの時のヒナには分からなかった。
けれど、自分が何か悪いことをしたんだ、という強い印象だけが胸に残った。
本棚の前で一瞬立ち尽くしたヒナは、自分の震える指先に気づき、手をそっと引っ込める。
しかし、すぐに主人の柔らかな笑顔が頭に浮かび、胸の奥がじんわりと温かくなった。
──『ヒナは本が好きなんだね。今度一緒に買いに行こう。』──
昨日、テラスで交わした優しい主人の声が、耳の奥に鮮明に蘇る。
主人の言葉を思い出すと、ヒナは気持ちが落ち着いてきて、小さく息を吐いた。
それでも今この瞬間、いつも優しく話しかけてくれた主人がそばにいないことが、
ヒナの心に小さな空洞を作っていることにも気づいてしまった。
その時だった。玄関の扉が開く音がした。
「ただいま。」
主人の柔らかな声に、ヒナの胸が高鳴る。
「お、お帰りなさい…!」
リビングに顔を出した主人に駆け寄ると、
主人は少し疲れた表情で、それでも優しく微笑んでいた。
「ごめんね、遅くなって。一人で大丈夫だった?」
「…大丈夫です。」
気遣うように主人を見上げるヒナに、彼は何かを思い出したように小さな箱を取り出した。
「そうだ、ヒナ。これを君に。」
手渡された紙袋の中には星について書かれた本が数冊と、花の種が入っていた。
「お土産だよ。気に入ってもらえるか分からないけど、ヒナの癒しになればいいなと思ってね。」
主人の穏やかな声は、少し照れくさそうだった。
ヒナの胸がきゅっと締めつけられる。
「…ありがとうございます…!大切にします…!」
ヒナは主人からのプレゼントを強く、大事そうに抱きしめた。
「喜んでもらえたのなら、良かった。」主人は安心したように微笑む。
「じゃあ、僕は先にお風呂に入ってくるね。」
主人が立ち上がると、ヒナはまだ高揚した気持ちを抑えられないまま、
「はい…!」と嬉しそうな調子で返事をした。
主人がリビングを出ていく背中を、ヒナは温かな気持ちで見送った。
【小説7話: 星の本と胸の高鳴り】
ヒナはリビングのソファに座り、主人からもらったばかりの星の本を開いていた。
ページをめくるたびに、美しい夜空の写真や星座の物語に引き込まれ、夢中になっていく。
「……すごい……綺麗……」
思わず小さく呟いたその瞬間——
リビングの扉が静かに開いた。
「気に入った?」
主人の優しい声に、ヒナは驚いて肩を震わせた。
「……っ!」
思わず本を持つ手が揺れる。
「ごめん、驚かせちゃったね。」
主人はくすっと微笑みながら、
濡れた髪をタオルで拭きつつ リビングへ入ってきた。
タオル越しでもまだ少し湿った髪。
ふと、ほのかに香るシャンプーの香りが鼻をくすぐる。
(……いい匂い……)
ヒナは無意識にそう思い、すぐにその考えを振り払うように小さく首を振った。
しかし、隣に腰を下ろした主人とふと目が合ってしまう。
「……っ……」
心臓が一気に跳ね上がる。
慌てて視線を逸らそうとするが、体が一瞬固まってしまう。
そんなヒナをよそに、主人は穏やかに微笑み、本の表紙をなぞりながらページをめくり始めた。
「この本の写真、とても綺麗だね。」
自然な動作。
柔らかな声。
それだけで、また胸がざわつく。
(なんで……こんなに……)
ヒナは自分の動揺を悟られまいと、小さく息を吐き、手をぎゅっと握りしめた。
隣で静かに本を読む主人の横顔。
それはどこまでも穏やかで、凛としていて——
目を奪われそうになる。
(気づかれてない……よかった……)
自分に言い聞かせるように、ヒナはそっと視線を下げた。
しかし、ふとした拍子にまた主人の濡れた髪が目に入る。
心臓の高鳴りに耐えられず、
「ご主人様……そのままでは風邪を引きますよ。」
ヒナは平静を装い、そう告げた。
主人は一瞬驚いたように顔を上げたが、すぐに優しく微笑んだ。
「そうだね。髪を乾かしてくるよ。」
椅子から立ち上がり、扉の前でふと振り返る。
「僕は髪を乾かしたら自室に戻るから、ヒナはゆっくり湯船に浸かっておいで。
今日はハーブの入浴剤を入れたから、きっとリラックスできると思うよ。」
その優しい気遣いに、また胸がトクンと跳ねる。
「……はい。ありがとう、ございます。」
主人が去り、リビングには静寂が戻った。
目の前の本に視線を落とすが、先ほどの出来事が頭から離れない。
頬がじんわりと熱くなり、ヒナは小さく息を吐く。
(どうして……こんなにも胸がざわつくんだろう……)
自分の気持ちに答えを出せないまま、本を閉じた。
⸻
【小説8話: 揺れる鏡の中の自分】
浴室には、ほのかに香るハーブの湯気が漂っていた。
ヒナは静かに湯船に浸かり、目を閉じる。
(……久しぶりに、こんなにゆっくりお風呂に入るな……)
施設では、他の子供たちに体を見られないよう、
一人で浴室を使い、シャワーで済ませるのが常だった。
だから、こうして湯船に浸かること自体が新鮮だった。
そっと、鏡を見る。
——そこには、
どこか曖昧な性別に見える自分が映っていた。
華奢な身体。
細くて小さい指先。
そして…どちらの性別の特徴もある下半身…。
(…ボクは…男性でもあるけど女性でもある…。)
曖昧な自分…人と違うことは恥ずべき事ではないけれど、
なぜ自分だけがこの特徴なのか…落ち着かない気持ちになる。
(ご主人様に打ち明けたら…どう受け取られるんだろう…)
湯気に霞む鏡の中の自分を見つめながら、
ヒナはそっと腕を抱きしめる。
(ご主人様は……エルフの中でも特に優しい。
穏やかで、包み込むような温かさがある。)
ボクは孤児で、どこの国の出身かもわからない。
種族的な特徴もなく魔法の力も弱い「ノーマル」
と呼ばれる存在なんだろう。
エルフには「親愛」、
悪魔には「自己愛」という種族の本質がある。
けれど、ボクには——何もない。
(……ボクは、何者なんだろう……)
小さくため息をつき、湯船に身を沈める。
湯の温かさが、心のざわつきを少しだけ和らげてくれた。
エルフも、悪魔も、
この世界には様々な種族がいて互いの国があり、
エルフの国では獣人や他の種族とも共存している地域もある。
そんな中で——
一人でひっそりとこの大きな屋敷に住み、
孤児の自分を引き取ってくれたエルフのご主人様の優しさに触れた
(ボクは、ご主人様のことをもっと知りたい。このお屋敷の事も。
……そして、ボク自身のことも……)
そう思いながら、ヒナは静かに目を閉じた。
浴室の静寂の中、
ヒナの心はゆっくりと揺れていた。
【小説9話:希望の種】
ヒナは朝の柔らかな日差しの中、庭で花壇の手入れをしていた。
先日まで荒れていた庭も、ヒナの手によって少しずつ整えられ、
小さな新芽がいくつか顔を出し始めていた。
「…新芽だ…」
ヒナは嬉しそうに小さく呟くと、そっと手で土を整える。
その時、屋敷の扉が静かに開き、主人が庭に現れた。
「おはよう、ヒナ。
花壇、どんどん綺麗になってるね。君のおかげだよ。」
主人の柔らかな声に、ヒナは顔を上げ、少し照れくさそうに微笑んだ。
主人は庭のテラスに置かれた椅子を指さし「少し休憩しよう」とヒナを誘った。
用意されていた紅茶を手に取り、2人で並んで腰掛ける。
庭を眺めながら、
主人は小さな新芽に目を向けると微笑んで言った。
「ヒナの好きな花も植えてみたらどうかな?」
ヒナは少し考え込むようにしてから答えた。
「好きな花…ですか?
考えたことがなかったかもしれません…」
その言葉に主人はくすりと笑い、
「じゃあ一緒に考えよう」と優しく言った。
テーブルの上に置いてあったのは、先日主人からプレゼントされた花の種だった。
ヒナはその中から1つを選び、主人に見せる。
主人はその種を手に取りながら、
「これはガーベラの種だね。花言葉は『希望』だよ」と教えてくれた。
「希望…素敵な花言葉ですね。」
ヒナはその言葉に小さく微笑む。
主人も頷き、
「ヒナにぴったりだと思うよ」と優しく返した。
そよ風が吹き、ヒナの白い髪を軽く揺らす。
ヒナは主人の目線の先にある花壇を見て、
「ありがとうございます…。
せっかく頂いたので…大事に育てます。」
恥ずかしそうに控えめな声でたどたどしく返事をした
その言葉に、主人は満足そうに笑顔を浮かべた。
「きっと綺麗な花が咲くよ。
ヒナがお世話をしてくれるなら間違いないから。」
その言葉にヒナは嬉しそうに、そして少し恥ずかしそうに微笑んだ。
────────
その夜、
ヒナは、静かな屋敷の廊下を歩きながら、胸の高鳴りを抑えられずにいた。
主人の部屋を訪ねるのは初めてのことで、
そのプライベートな空間に足を踏み入れること自体が緊張の源だった。
控えめに「コンコン」とノックをすると、中から主人の穏やかな声が返ってきた。
「どうぞ。」
「失礼します…」と小さな声で言いながら、ヒナはドアを開けた。
部屋の中は、シンプルで落ち着いた空間だった。
長い木製のデスクと椅子、部屋の隅に置かれた本棚、暖かな色合いのラグ。
ヒナはその整然とした部屋を一瞬眺め、心の中で(ここがご主人の部屋なんだ…)と呟いた。
デスクに向かって座っていた主人が、椅子をくるりと回転させてこちらを向いた。
「どうしたの?」と柔らかい声で用件を尋ねる
「実は…ご主人にお願いがあって…」
主人が短く「ん?」と聞き返すと、ヒナは決心した様子で
「星を見に行きたいんです。近くに湖があって…そこで…」とヒナが言い終わらないうちに、
「じゃあ今から行こっか」と主人が椅子から立ち上がって言った
「えっ…?」と小さく声を上げたヒナに、主人がにっこり笑いながら言う。
「ヒナが忙しくなければ、だけど。どう?」
突然の展開に心の準備が追いつかないヒナの胸が、騒がしく高鳴る。
一瞬かたまったヒナだったが、「はい…ぜひ」と短く返事をする。
【小説10話: 星の湖】
湖に着いた二人。夜の静寂の中、湖面はまるで星を映した鏡のように穏やかに光を湛えていた。
エリンは軽く伸びをしながら、夜空を仰ぎ見る。
「ん〜…やっぱり、ここは気持ちがいいね。少し寒いかもだけど、大丈夫?」
ヒナはかすかに肌寒さを感じながらも、「大丈夫です」と小さく答えた。
するとエリンがそっと近寄り、「本当に? ちょっと寒そうだけど」と微笑みながら、自然な仕草でヒナの肩を引き寄せた。
突然の距離の近さに、ヒナの心は大きく跳ねる。
すぐそばに感じる体温と、ふわりと香るエリンの優しい匂い。
落ち着かないヒナとは対照的に、エリンは無邪気な笑顔を浮かべたまま、湖面に映る星空を眺めていた。
「綺麗だね、ヒナ。来てよかった。」
月光と星明かりに照らされたエリンの横顔は、どこか神聖なほど美しく見えた。
ヒナは胸に手を当てる。
騒ぐ鼓動がいつもの緊張や尊敬とは違うものだと、なんとなく感じた。
(この気持ち……なんだろう……?)
そっと目を伏せ、頬を染めるヒナ。
その時——。
「ヒナ、見えた?さっきの流れ星!」
エリンが少し興奮気味に指を差す。
ヒナは反射的に「はい……!」と返事をしたが、内心は静かに揺れ続けていた。
【小説11話: 星に願いを】
湖畔に静寂が戻る。
エリンはふと夜空を見上げ、柔らかな声で問いかけた。
「さっきの流れ星……何か願い事、言えた?」
ヒナは夜空を眺め、小さく首を傾げる。
「願い事……考えたことがないです。」
その言葉に、エリンは少し驚いたような顔をしたが、すぐに微笑む。
「じゃあ、今度流れ星を見つけたら、願い事してみようか。」
そう言って、ヒナの頭をぽんと優しく撫でた。
ヒナは俯きながら、小さく頷く。
エリンはゆっくりと地面に腰を下ろし、夜空を見上げる。
(願い事…ボクの願い事ってなんだろう…)
けれど、心の中ではいくつもの考えが渦巻いていた。
(ご主人と……もっと——)
ヒナはその考えに動揺し、慌てて首を横に振った。
(ご主人と……? もっと……? ボクは……何を求めているんだろう……)
頬が熱を帯びる。
夜の闇がその赤みを隠してくれているのが、今は少しだけありがたかった。
エリンはそんなヒナの様子を見つめながら、ふっと微笑む。
「決まった?」
「えっ……と! あの……」
ヒナは慌てて言葉を探すが、何も出てこない。
その時——。
エリンがそっとヒナの手を取り、優しく包み込んだ。
ヒナの指を重ね、祈るようなポーズに導く。
「こうやって、お祈りするんだよ。」
優しく包み込まれた手。
突然の触れ合いに、ヒナの心臓がまた跳ね上がる。
エリンはくすっと笑って
「また流れ星が見えるかもしれないからね。
願えば叶うと思うから…。
とりあえず小さなことでも いいから、僕と一緒にお祈りしてみようか」
ヒナは胸の高まりを抑えきれずに俯きながら、小さく頷いた。
その時——エリンが夜空を指差した。
「ヒナ、見て……!」
ヒナの視界に、大きく輝きながらゆっくりと滑っていく流れ星のような光が映った。
その美しい光景に、ヒナは思わず心の中で願っていた。
(ご主人ともっと……! もっと近づきたい……!
ご主人の恋人になれますように!)
咄嗟に出た願い。
自分の立場も、性別も、あらゆる障害を忘れてしまうほどの——本心。
それに気づいた瞬間、ヒナの全身に熱が広がる。
しかしエリンはそんなヒナの願いなど知る由もなく、にっこりと微笑んだ。
「叶うといいね。」
その笑顔に、ヒナの胸はさらに騒がしくなる。
けれど——。
その「流れ星」は、エリンが光の魔法を使って見せたものだった。
ただ、自分を慕ってくれるヒナを喜ばせるつもりで見せた小さな魔法。
それがヒナにとって、どれほど大きな意味を持つのか——エリンはまだ、知らなかった。
エリンはふと空を見上げ、少し照れて、
それから穏やかな夜を過ごせたことを満足そうに笑った。
無邪気な笑顔を浮かべるエリンに対し、ヒナの心は静かに、けれど確かに恋を自覚していく。
夜空の下、無意識のうちに対等な関係へと少しずつ近づいていることに、二人はまだ気づいていなかった。
【小説12話:彩られた家】
屋敷の中は今日も穏やかで、柔らかな日差しが窓から差し込んでいた。
エリンはゆっくりと廊下を歩きながら、ふと気づいた。
(随分と家の中が賑やかになったな…。)
ヒナがこの屋敷に来る前は、静けさが当たり前だった。しかし今は、どこか暖かみを感じる。
部屋の角にさりげなく飾られた小さな花、
すっかり整備された庭の風景。
そして、何より、毎日のようにヒナと一緒に紅茶を飲む習慣が自然とできていることに、エリンは内心驚いていた。
(ヒナが来てから、この家の空気が変わったな…。)
エリンは心の中で感心しつつ、ヒナの健気で努力家な姿を思い浮かべた。
彼はこれまで、ヒナにきちんと感謝の気持ちを伝えたことがあっただろうか、と考える。
少し歩みを止め、エリンはヒナの部屋の扉の前で立ち止まった。
(何か声をかけようか…。)
エリンが少し迷っていると、不意に扉が内側から開いた。
「…あっ!」
ヒナが部屋から出ようとした瞬間、目の前にエリンが立っていることに気づき、驚きの声を上げた。
驚いた表情のまま、ヒナは一瞬 硬直する。
「ごめん、驚かせたね。」
エリンが少し申し訳なさそうに微笑む。
「い、いえ…っ!」ヒナは慌てて頭を下げた。
そして顔を上げた瞬間、エリンと目が合う。
ヒナの胸が強く高鳴る。
(まただ…。どうしてこんなに…。)
ヒナの視線が泳ぎ、頬が少し赤く染まる。
エリンはその様子に気づいたのか、首を傾げながら穏やかに尋ねた。
「何か用事があったのかな?」
「あ…その…」
ヒナは答えようとしたが、恋心を自覚したばかりの自分がエリンに対してぎこちなくなっていることに気づき、言葉が詰まる。
「…そうだ、ちょうど紅茶を飲もうと思ってたんだけど
ヒナも一緒にどうかな?」
エリンが柔らかい声で提案した。
「…はい!ぜひ…!」
ヒナは勢いよく返事をしたものの、次の瞬間、自分の声が思いのほか大きかったことに気づき、再び顔を赤らめた。
エリンはそんなヒナの様子を微笑ましく感じながら、優しく彼の肩に手を置いた。
「じゃあ、一緒に行こう。」
二人で並んで歩き出す。
────
紅茶の香りがほんのりと漂うリビングで、
エリンはカップにお湯を注ぎながら問いかけた。
「ヒナ、砂糖はいる?」
「いえ、そのままで大丈夫です。」
エリンはカップを手渡し、ヒナはそっと受け取る。
「こうしてヒナと紅茶を飲むのも、もう当たり前みたいになってきたね。」
エリンがふと呟く。
「ヒナが来てくれて、本当に助かってるんだよ。」
その言葉に、ヒナの胸がまたトクンと高鳴る。
「え…そんな、ボクなんかが…。」
ヒナはカップを握る手に少し力を込め、
静かに口を開いた。
「ボク…ご主人の役に立ててるなら それが一番嬉しいです。」
エリンはその言葉に柔らかな微笑みを浮かべる。
「ありがとう、ヒナ。そう言ってくれると僕も嬉しいよ。」
紅茶を静かに楽しみ、カップを置く音が
部屋の静寂に響くように鳴る。
ヒナはふと窓の外を見ると、庭の新芽が日に照らされて輝いていた。
「…あの庭も、ヒナが綺麗にしてくれたおかげだね。」
エリンがヒナの視線を追いながら言った。
「最初に見た時は、ただの荒れ地だったのに。」
「そんなことは…。でも、嬉しいです。」
ヒナは控えめに微笑んだ。
エリンが立ち上がる。
「今日はいい天気だし、庭で少し休むのもいいかもしれないね。」
ヒナも立ち上がり、「はい」と短く答えたが、その胸はまだ静かに高鳴り続けていた。
──────
その日の夜。
ヒナは湯船に浸かりながら考え事をしていた。
(好きな人と同じ家で過ごす…いつでもそばにいて優しく笑いかけてくれる…なんて贅沢な毎日なんだろう…)
嬉しい気持ちと、主人と結ばれることの難しさが胸を締め付ける。
(…やっぱり無理だよ…。
ご主人様がボクにそんな気持ちを持つはずない…。)
そう思いながらも、主人の姿を思い浮かべるだけで笑顔になる自分がいた
──────
次の日。その日は しとしとと静かな雨が降っていた。
ヒナはリビングの窓辺に立ち、雨粒が描く無数の模様をぼんやりと見つめていた。
「雨の音はなんだか落ち着きますね…」
そんなヒナを見つけたエリンが、静かに紅茶を準備し始めた。
「ヒナ、お茶にしようか。」
エリンがやわらかく微笑みながら声をかけ、トレーに載せた紅茶とクッキーを持ってきた。
「ありがとうございます。」
主人がヒナの隣に座り、湯気の立つ紅茶を手に取りながら、ふとつぶやく。
「ヒナの好きなものを見つけるのって楽しいね。」
その言葉にヒナは一瞬驚き、主人の顔を見上げた。
「え…?」
主人の言葉が予想外だったのか、目を見開いて固まってしまう。
「ヒナって素直だからね。
好きなものが見つかったとき、すぐに顔に出るんだ。
そんな反応を見てると、こっちも嬉しくなるよ。」
主人はどこか照れくさそうに笑いながら、
ヒナにクッキーを手渡し、紅茶に口をつけた。
その何気ない言葉に、ヒナの心が大きく揺れる。
胸がキュッと締め付けられるようで、
じんわりと温かくなる感覚。
(ご主人は…こんなふうに いつもボクを見ていてくれるんだ…)
紅茶の温かさが手のひらに染み込み、心の中で芽生えた感情がじわりと広がる。
(やっぱり、ボクは…ご主人様が好きだ…)
雨の音の中、ヒナは静かにそう確信していた。
【小説13話:恋人】
屋敷の中を歩きながら、ヒナはふと立ち止まり、長い廊下の先を見つめた。
この屋敷は広い。とても広い。
自分が使う部屋以外にも、まだ一度も足を踏み入れたことのない部屋がいくつもある。
書斎や客間…そして使われていない、事実上 立ち入り禁止になっている部屋…。
(この屋敷に、前に誰か住んでいたのかな…?)
そんな考えがふと浮かんだ。屋敷の雰囲気は静かで落ち着いているけれど、どこか少し寂しさを感じさせることがある。
(もしかして、ご主人様には…前に誰か大切な人がいたとか…?恋人…とか…)
一度浮かんだ疑問はヒナの心を激しく揺らした
どこか落ち着かない様子でヒナはリビングへ向かった
雨音が窓ガラスを叩く音がリビングに穏やかに響いていた。
主人が紅茶を飲みながら静かな時間を楽しんでいたその時、リビングに戻ってきたヒナが急に顔を伏せたまま、
少し強めの声で話し始めた。
「…ご主人って…」
その声は小さかったが、どこか緊張した響きがあった。
主人は紅茶を一口飲み、ヒナの言葉を待った。
しかし、ヒナは言葉に詰まったまま、何かを考えている様子で、主人と目を合わせようとしなかった。
「恋人とか…いるんですか。」
唐突なその質問に、主人は思わず驚きの声を漏らした。
「えっ…?」
その可能性を考えた瞬間、ヒナの胸がぎゅっと締め付けられるような感覚に襲われた。
ヒナは慌てて顔を赤らめ、言い訳のように続けた。
「…あのっ…! ボクはっ…その…。 …ご主人の恋人をお見かけしたことがないので…気になって…」
しどろもどろになりながら、ヒナは俯いた。「すみません…」と小さく呟く。
主人はそんなヒナの様子を見て、落ち着いた口調で問いかけた。
「どうしたの?急に。何に興味があるのかな?」
ヒナは唇を噛み、しばらく黙り込んだ。
やがて、主人はヒナが目を潤ませていることに気づき、そっと手を伸ばして背中を撫でた。
「ごめん、責めたわけじゃなくて。突然だったから、どうしたのかなって思っただけ。」
主人の優しい声が、ヒナの心に染み込んでいく。
そして、ふっと微笑みながら続けた。
「恋人はいないよ。」
その言葉を聞いた瞬間、ヒナは驚いたように勢いよく顔を上げる。
「ほ、ほんとですか…?」
主人は微笑みながら「本当だよ」と答えた。
ヒナの顔が、どこか喜びでほころびそうになる。
主人はそんなヒナの表情を見つめながら、ふと考えた。
(ヒナは…僕が誰かと深い付き合いをしたとしたら、家に一人残されるのが不安なのかな…)
ヒナの孤児としての経験を思い出しながら、そんな仮説に辿り着く。
しかし、それ以上問い詰めることはせず、主人はただヒナを見守ることにした。
一方で、ヒナの心の中では静かに嬉しさが広がっていた。
(ご主人に恋人はいない…。それだけでこんなに嬉しいなんて…やっぱり、ボクは…)
雨音がますます静寂を引き立てる中で、二人の間には不思議な温かさが漂っていた。
【小説14話:感情に振り回されるヒナ】
雨音が静かに続く中、ヒナは主人の言葉に安堵しながらも、胸の奥に渦巻く感情を持て余していた。
手にした紅茶カップを持つ手がわずかに震え、主人に気づかれないようにそっと目を伏せる。
対照的に主人はリラックスした様子で紅茶を飲んでいる。その落ち着いた姿を見て、ヒナは自分の動揺がなんだか恥ずかしくなり、さらに心がざわついた。
ふと気まずさを紛らわすように、ヒナが口を開いた。
「…そういえば…」
「一緒に星を見に行った時のことなんですけど、ご主人は流れ星に何かお願いしたんですか?」
少し気まずさから出た話題だったがヒナはその日、
自分がこっそり心から願ったことを思い出して、主人に聞いた。
ヒナはその日、自分がこっそり心から願ったことを思い出して顔を赤らめた。
主人はカップを見つめたまま、少し考えるように「うーん…」と短く唸る。
そして静かに言った。
「願い事というか…ヒナの願いが叶うといいな、とは思ったけどね。」
その言葉に、ヒナの心臓が一気に高鳴る。
まるで体中が熱を帯びたような感覚に包まれ、ドキドキとして言葉が出ない。
主人はヒナの反応に気づかないまま、続けて穏やかな声で言った。
「また見に行こうね。」
その言葉が胸の奥に深く染み込んでいく。
ヒナは嬉しさと戸惑いの狭間で、
自分がまるで主人に"特別に"大切に想われているかのような錯覚を覚えた。
(こんなに優しくされて…ボク…変な勘違いをしてしまいそう…)
熱くなる頬を手で覆い、浮かれる気持ちをどうにか抑えようとするが、高鳴る鼓動は簡単には収まらなかった。
主人は紅茶を一口飲むと、ふとヒナを見て言った。
「ヒナは他に行きたいところとかある?」
「えっ…と…」
ハッと我に返ったヒナは、すぐには言葉を返せず、口ごもる。
そんな様子を見て、主人が少し笑いながら言った。
「じゃあ、あとで町に本を買いに行きたいから、付き合ってくれない?」
主人からの誘いに、ヒナの心は再び弾む。
「…はい!」
元気よく答えたものの、
(付き合って…って…)
その甘い響きだけを切り抜き、
まるで交際を申し込まれたかのように都合よく妄想を膨らませそうになり、
顔がみるみる赤く染まる。
(…ボク、どうしちゃったんだろう…!ご主人の側にいると幸せで…でも恥ずかしくて…)
主人はそんなヒナの悶々とした様子に気づくことなく、再び紅茶を飲みながら
「雨が止んだら出発しよう」と穏やかに言い、カップを静かにテーブルに置いた。
【小説15話:種族の本】
雨が上がり、晴れ間が見え始めた空の下、
二人は以前とは違う大きな街の本屋へと足を運んだ。
「ヒナも、なにか好きな本を探しておいで。」
主人の優しい声に、ヒナは静かに「はい」と返事をし、本棚の間を歩き始めた。
あてもなく本を見て回る中、
ふと目に留まったのは、表紙に華やかなケーキの写真が載った製菓の本だった。
(ご主人に何かお礼をしたいな…。それに、ボクにも役に立てることがあったら…)
そんなことを考えながらページをめくる。
すると突然、肩にぽんと手を置かれ「ヒナ」と主人に名前を呼ばれる。
驚いて振り返ると、既に目当ての本を探し終えた主人が片手に本を持って立っていた。
主人はヒナが持っている本をちらりと見て言った。
「お菓子?美味しそうだね。」
「ぁ、えっ…と…!ご主人は甘いものとか好きですか?」
慌てて問い返すヒナ。
主人は静かに「好きだよ」と答え、
「作ってくれるの?」と微笑む。
ヒナは静かに首を縦に振る。
「じゃあこの本は必要だね。他に気になるものがあれば持ってきていいよ。」
主人はそう言うと、ヒナの持っていた本を預かり、柔らかく笑った。
「ありがとうございます」と小さな声でお礼を言い、ヒナはまた本を探しに歩き出した。
⸻
店を出た後、夕暮れの柔らかな陽が街を染め、
少し冷たい風が心地よく吹いていた。
ヒナは主人の手に持っていた本をふと思い出す。
重厚感のあるシンプルで暗めの表紙。
そのタイトルには「種族」という単語が含まれていた気がする。
(種族の本…?)
この世界には自由に魔法を操れる様々な種族が存在している。
何の特徴もない「ノーマル」と呼ばれる種族もいれば、外見や能力が大きく異なる種族もいる。
エルフは心が優しく真面目な者が多く、
他者に寄り添う性質があり
協力して支え合いながら生活をしている。
結界などの守備魔法や治癒魔法が得意で、
『結界』…それは守護対象をイメージして
その範囲にいる対象者以外の者の魔力をじわじわと消耗させ、
強い魔法を使わせないようにする守備魔法…
その上位互換に『聖域』と呼ばれる魔法があって、
聖域は魔力消耗が大きく複数人のエルフで協力して展開する魔法で
こちらは範囲にいる守護対象以外は範囲外にはじき返され、聖域に近づくだけで
魔力消耗スピードが急速に早まる強力で高難度の守備魔法だ
パートナーを持つと長く大切にする、と聞いた…
ご主人様もきっと…そうなんだろう…。
悪魔は…現代では大人しくなったと言われているけれど、
その本質は「自己愛」
本能に忠実で力も魔力も強く、
他者を支配することや嗜虐心を満たす事を好んだという…。
攻撃魔法や拘束、マインドコントロール系の魔法が得意で、自己暗示も出来るらしい。
パートナーは複数で、その従える数が多ければ多いほど魔力と魅力が誇示できるとされている。
ヒナ自身も魔力を持っているが、
それが特別なのかどうかは これまで深く考えたことがなかった。
主人が手に持つ本のタイトルをもう一度思い出しながら、ヒナの中で何かが静かに動き始めていた。
考え込むヒナに、主人がふと声をかけた。
「ヒナ、疲れてない?」
「……いえ、大丈夫です!」
慌てて答えるヒナに、主人が優しく微笑みながら「よかった」と言い、
そのままヒナに合わせてゆっくり歩みを進める。
ヒナの胸の中には、
言葉にできない想いが渦巻いていたが、
それを主人に悟られないようにと必死だった。
雨が止み、窓の外には静かな月明かりが広がっていた。
【小説16話: はじめての成果】
ヒナは自室のベッドに横になり、今日の出来事を思い返していた。
主人との外出は、とても楽しかった。
目を閉じると、その余韻が静かに胸の中に広がっていく。
ふと、主人が本屋で手にしていた本を思い出す。
あのシンプルで重厚な表紙の本のタイトルは――「種族間の魔力特性」。
「ご主人様は、一体どんなことを考えているんだろう……」
自分よりもはるかに賢く、深く物事を考える主人のことを思うと、どこか遠い存在のように感じられる。
けれど、一緒にいる時間は心地よく、その穏やかな優しさに触れるたびに、もっと知りたいと願ってしまう。
(もっと……ご主人様に近づきたい)
ヒナの胸に、静かに熱が灯る。
主人に恥ずかしくない自分になりたい――
そう決意し、彼はゆっくりと深く息を吐いた。
夜が更けても眠れなかったヒナは、ベッドを抜け出し、机の上に置かれていた製菓の本を手に取った。
普段お世話になっている、大好きなご主人様のために、気持ちだけでも感謝を形にしたい、そう思いながら、そっとひとりキッチンへと向かう。
夜のキッチンは静寂に包まれ、窓の外からは冷たい月明かりが差し込んでいる。
ヒナは製菓の本を開き、ページをめくりながら、初心者でも作れそうなレシピを探した。
目に止まったのは、シンプルなクッキーのレシピ。
不慣れな手つきで生地をこね、型で抜き、オーブンに入れる。
待つ間も、本を見直しながら、仕上がりを想像して胸を高鳴らせた。
焼き上がったクッキーは、見た目も香りも初めてにしては上出来だった。
「これなら……ご主人様にも食べてもらえるかも……」
小さく呟きながら、一つ摘んで恐る恐る口に運んだ。
その時、不意に背後から声がした。
「甘い香りがすると思ったら……何か作っているの?」
驚いて振り返ると、そこには主人が立っていた。
ヒナは思わず「あっ……!」と声を上げる。
主人はゆっくりと近寄り、クッキーが並ぶ皿を見て、微笑みながら尋ねた。
「いい香りだね。ひとつ、もらってもいい?」
ヒナは一瞬戸惑ったが、小さく頷く。
「……初めて作ったので、ご主人様のお口に合うかどうか、わかりませんが……。」
そう言いながら、少し不安げに視線を落とした。
主人は微笑を浮かべたまま、ひとつ摘んで口に運ぶ。
一口食べた瞬間、主人の目がわずかに見開かれる。
「美味しいよ、ヒナ。初めてとは思えないくらいだ。」
その言葉と同時に、主人の手がそっとヒナの頭に置かれる。
優しく撫でる手の温もりに、ヒナの胸がじんわりと満たされていく。
「甘いものが好きなんですか…?」
ヒナが尋ねると、
主人は少し照れくさそうに「そうかもしれない」と返した。
「幼い頃はこういうものを口にしたことがなかったから……。」
言葉を濁す主人。
ヒナはそっとエリンの分の紅茶を注いで手渡すと、受け取った主人がありがとうと微笑んでくれた。
「焼き菓子って紅茶にすごく合うよね。紅茶の香りも好きなんだ。……少しだけリラックスできるから」
カップの湯気を見つめながら、エリンはふと笑みを浮かべた。
「昔、紅茶を飲み始めた頃、友人に『優雅な王子様みたいだね』って、からかわれたことがあるんだ」
ヒナが小さく首をかしげると、エリンはやや照れくさそうに肩をすくめた。
「その頃の僕は、その人の振る舞いがとても綺麗に見えてね。静かで落ち着いていて……つい真似してみたくなったんだ。
紅茶の香りも、その人の部屋で初めて知った。
今でもこうして淹れると、あのときの空気を思い出すよ」
一度、目を伏せて小さく息を吐いた。
「その人はね、実力主義の悪魔社会の、魔王の血を引いていたから……周囲からは一目置かれていた。
というより、恐れられていた、という方が正しいかもしれない。
どこか、ひとりでいることが多くて、当時の僕には少し寂しそうに見えたんだ」
エリンは一拍置いて、そっと首を振る。
「……でも、きっと本人はそんなふうに思っていなかったんだと思う。
誰かと距離を縮めたいとか、誰かに頼りたいとか、そんな気持ちはなかったんじゃないかな。
彼が見ていたのは、もっと別のこと……たとえば、“父にどう抗うか”とか、“どうやって、この世界を変えていくか”とか」
カップの湯気がまた、ため息のように揺れた。
「……僕には、そのときはわからなかった。
ただ、彼のそばは不思議と落ち着いた。あの静かな部屋と、紅茶の香りと……その人の存在が、僕の原点になっている」
エリンの声は終始穏やかで、どこか祈るような優しさを帯びていた。
「それからだよ。僕も、その人なように誰かを守りたい、誰かの力になれたらって……そう思うようになったのは」
主人は懐かしげに微笑んだ。
しかし、その表情の奥に、わずかに過去を振り返る苦しげな影が差した。
ほんの一瞬だけ眉を寄せたが、それに気づかれまいと、すぐにいつもの穏やかな顔に戻る。
「せっかくだから、リビングで少し休憩しようか」
主人の提案に、ヒナは静かに頷いた。
二人は並んでキッチンを後にする。
⸻
「ご主人様は お部屋で何をしていたんですか?」
深く考えずに尋ねたヒナの言葉に、主人は一瞬考え、微笑んだ。
「実は…その友人に手紙を書いていたんだ。」
「手紙……ですか?」
「うん。昔からたまに書いてはいたんだけど、最近は少し忙しくて疎遠になっていてね。
久しぶりに、また会えたらいいなと思って」
ヒナは少し驚きながらも、興味深そうに身を乗り出す。
「どんな方なんですか?」
「うーん……」
エリンは少し視線を宙に泳がせて、穏やかに微笑んだ。
「出会った頃は、無表情で冷たい人だと思ってた。何を考えているのかも、近づいていいのかも、よくわからなくて」
一拍おいて、言葉を選ぶように続ける。
「でも…実際には、信念のある人だったよ。強くなろうとする意志を、誰よりも静かに燃やしていた。
人の本質を見抜くのが早くてね……黙って見てるだけなのに、気づいたらいつのまにか導かれている。
まるで試されてるみたいだった。優しさなんて言葉では片づけられない、不思議な安心感があって……」
エリンは懐かしそうに少しだけ目を細める。
大切な記憶を丁寧に思い返して、少し寂しそうに、
しかしそれを隠すように、優しく微笑む。
「大胆で、好奇心旺盛で、僕が思いつかないようなことを平気でやってのける。
こちらの予想を裏切るのが、彼にとっては当たり前なんだろうね。
知識も豊富で、皮肉屋だけど、なんだかんだで……振り回される時間は嫌いじゃなかった。」
「……なんだか、素敵な方ですね」
ヒナが小さく呟くと、主人はうん、と頷いた。
「彼はエルフの血と悪魔の血を引く、混血種なんだ。
相反する性質を併せ持ちながら、本能を自分の意志で受け入れ、同時に抑え込んでもいた。
生まれつき魔力の質も高くて……だからこそ、神聖視されることもあったけど、本人はそんなものに興味はなかったと思う」
「混血種……」
ヒナは目を丸くしながら、その言葉を繰り返した。
どこか遠くの存在のような、その友人に、主人がどんな想いを抱いているのか――ヒナにはまだ、うまくつかめなかった。
「…どんな方なんですか?…写真とか、見せてもらえたりしますか?」
「写真か…確かどこかにあったと思うけど、そんなに気になる?」
主人が笑いながら聞き返す。
ヒナは一瞬、言葉に詰まりながらも頷いた。
「ご主人の大切な方なら……ちょっとだけ、気になってしまって……」
その控えめな言葉に、主人は柔らかく微笑んだ。
「わかった。今度探しておくよ。」
なんだか今日は、主人の意外な一面を見た気がした。
ヒナはその姿を見つめながら、少し胸がきゅっとなるのを感じていた。
窓の外では、雨が止み、澄んだ月明かりが静かに二人を照らしていた。
【小説17話:神秘】
翌朝。
昨日の疲れが残っていたのか、ヒナはいつもより少し長く眠っていた。
カーテン越しの朝の光が、部屋に柔らかな影を落としている。
ヒナはゆっくりと体を起こし、寝ぼけ眼のまま寝間着を脱ごうとシャツに手をかけた、そのとき。
ノックの音が控えめに響いた。
「はいっ」
思わず返事をしてしまい─
「開けるよ?」
主人の声と同時に、扉が静かに開かれた。
「あ、ま、待って──!」
ヒナが慌てて声を上げたが、すでに遅かった。
そして、エリンは目を見開く。
朝の光に照らされたヒナの背中──
肩甲骨のあたり、柔らかな肌に沿って、まるで羽根の根元をなぞるように淡く光る筋が浮かんでいた。
肌の上に揺らぐような“気配”がある。
見間違いではない。魔素が、そこに集まっている─いや、“生まれよう”としている。
(……これは)
一瞬のうちに、エリンの胸に微かな引っかかりが走った。
翼も神聖印もない。ただの少年に見える。
けれど、確かに“そこ”に、何かが在る気がした。
「……ごめん。タイミングが悪かったみたいだね」
すぐに視線を逸らし、エリンはいつもの穏やかな声でそう告げた。
「あっ、えっと…その…。着替えが終わったらすぐに行きます……」
ヒナは真っ赤な顔で、あわてて布を胸元にかき寄せた。
エリンは扉を静かに閉めた。
けれど、視界の奥に残る“その光”の記憶だけは、しばらく消えなかった。
(まるで……羽根が、そこから生えるような……)
声には出さず、そっと胸にしまい込む──。
けれど、胸の奥では既に、言葉にできない動揺が静かに波紋を広げていた。
──祝印。
幻の存在。もう二度とこの世には現れないと信じられていた、“天使”の証。
自分の目が見間違いでないなら、あの背中に浮かんだ光は、確かにそれだった。
肩甲骨の奥に微かに集う魔素の気配。
羽根の“根”となる場所にだけ現れる、祝福の兆し。
(ヒナが……天使だとしたら……)
かつて悪魔の城で、数多の天使が「使い捨ての魔力源」として酷使されていた。
純粋で、清らかで、傷つきやすく、だが─魔力の質は極めて高い。
その特異性ゆえに、最も早く絶滅したとされていた種族。
……なのに。
(どうして、君がここに……)
ヒナにはその自覚がない。
それは、言動や反応から見て明らかだった。
本人が知らないなら、なおさら、この事実を誰にも知られてはならない。
「……守らなきゃ」
エリンは誰に言うでもなく、微かに唇を動かした。
もう、二度と。
大切な存在が、奪われることのないように。
──彼は、心の奥で静かに誓った。
着替えを終えたヒナは主人の部屋を訪ねた。
コンコンとノックをすると、中から主人の穏やかな声が返ってきた。
「どうぞ。」
ドアを開けると、主人は机に向かっていた手を止めて振り返り、穏やかに笑った。
「さっきはごめんね。」
「いえ…ボクは全然、大丈夫です…」
ヒナは少し恥ずかしそうに言い、つられるように小さな声で「すみません…」と続けた。
その言葉に、主人はやや照れたように微笑む。
「お互い謝りっぱなしだね。」
ヒナと主人は目が合い、気恥ずかしそうに笑い合った。
「…そうだ。昨夜の話だけど、友人の写真を見つけたんだ」
主人が思い出したように言うと、机の上から写真を手に取り、ヒナに差し出す。
ヒナはそっとそれを受け取り、写真に目を落とした。
そこには、美しい銀髪を持つ、やや幼い見た目のエルフの青年が写っていた。
透明感のあるその容姿はどこか儚げでありながら、高貴さも感じさせる。
しかし、その顔にはムスッとしたような表情が浮かび、少しだけ硬い人物の印象を与える。
「…この方が…ご主人のご友人なんですね。」
ヒナが写真をじっと見つめながら呟いた。
主人は微笑み、頷いた。
「すごく綺麗な方ですね…。でも、どこか気難しそうな…?」
ヒナが控えめに言うと、主人はくすっと笑った。
「確かに、これは そう見えるかもしれないね。」
でも─…と言葉を続ける。
「彼は見た目で誤解されやすいような気はするけど、話しやすいというか…。彼につられて僕も自分でも気づかなかった感情に気がつくことがあって。
からかって人の本音を引き出すのが上手いんだ、彼は。」
そう言ってエリンは苦笑いをしたが、どこか楽しそうな懐かしむ笑顔だった。
写真をもう一度じっと見つめたヒナは、小さく呟いた。
「…なんだか、すごく特別な方なんですね。」
主人はその言葉に頷きながらも、ヒナをじっと見つめて柔らかく微笑んだ。
「特別、か…。うん、確かにそうかもしれないね。」
主人の言葉にヒナの胸がチクリと小さく痛むような感覚がした。
「手紙にヒナのことを書いたんだ。いつか紹介したいってね」
主人の言葉を聞いて、ヒナは内心、複雑な気持ちだった。
特別だと言われるその友人。
自分が知らない世界の中で、主人とどれだけ深い絆を築いてきたのだろう──
そんなことを考えながらも、主人の柔らかな笑みを見つめると、ヒナは何も言えなくなってしまった。
【小説18話:訪問】
写真の話が終わった翌日、ヒナは朝の庭の手入れをしていた。
昨夜の主人の言葉や写真に写っていた美しいエルフの青年のことを考えながら、少しぼんやりとした気分で草花に水をやる。
「ヒナ、お疲れ様」と主人の声が背後から聞こえ、驚いて振り返る。
主人はいつもの優しい笑顔で近づいてきた。
「今夜、友人が訪ねてくるんだ」と主人が言う。
「昨日 写真を見せた友人だよ。久しぶりに会うから楽しみだな。」
その言葉にヒナは少し驚き、同時に胸がざわつくのを感じた。
「…その、何か準備が必要ですか?」とヒナが尋ねると、主人は軽く首を振った。
「いや、大丈夫だよ。特に気を遣わなくていいし、ヒナが気楽にしてくれたら嬉しい。」
主人の言葉に頷きつつも、ヒナの中ではどこか緊張が高まっていた。
【小説19話:リオン】
その日の夜、ヒナは来客に備えてティーカップとソーサーをどれにしようか選び、リビングのテーブルに並べていた。
訪問者を迎える準備を進めながらも、どこか落ち着かない様子でそわそわしている。
玄関の方でノックの音が響いた瞬間、ヒナの胸が一気に高鳴った。
主人が立ち上がり、「行ってくるね」と優しい笑みを見せて玄関へ向かった。
扉を開けた主人の前には、銀髪に透明感のある美しい青年が立っていた。
──肩にかかるほどの長さの銀白の髪は、風に触れるたびに柔らかく揺れ、
毛先にほんのりと紫の光を帯びている。
白磁のような肌に、燃えるような赤い瞳。
美しさと危うさが同居するその姿は、息を飲むほどに幻想的だった。
久しぶりに再会したリオンを前に、エリンは一瞬、息を呑んだように立ち尽くした。
過去の面影と変わらない赤い瞳──
自分を救った存在。ずっと近いようで遠いような、手の届かない場所にいた人。
「……久しぶりだね、リオン」
声は静かだったが、その笑みには懐かしさと安堵、
そして……ほんの一瞬、言葉にならない感情の影が滲んでいた。
リオンも柔らかく微笑みながら、「元気だった?」と返す。
リオンが変わらぬ笑みを浮かべた瞬間、
エリンは一瞬、目を逸らした。
まるで、昔抱いた執着を見透かされるのを避けるかのように。
「…しばらく見ないうちに、大人びたね。」
エリンが柔らかく言うと、リオンは肩をすくめた。
「そう?……エリンは、あんまり変わらないね」
皮肉混じりの声音。
けれどその奥に、何かを察しているような静けさがあった。
くすくすと笑うリオンに、エリンは苦笑した。
だが、その笑みもすぐに翳る。
リオンはじっとエリンを見て、目を細めた。
「……中身もあんまり変わってなさそうだね。
魔力 使い過ぎてるんじゃないの?顔、赤いよ。
体調に出るまで『結界』張って、それで守ってるつもり?」
その指摘に、エリンはわずかに黙り込んだ。
そして、小さな声で絞り出すように言った。
「……自分で何とか……するから。
僕一人で守れるって、今度こそ…、証明してみせる……。」
過去を思い出すように、悔しそうな、思い詰めた表情。
リオンはそんなエリンを見つめながら、ふっと鼻で笑った。
かつて、子供のように泣き縋ったその姿を、リオンは忘れていなかった。
今もなお、ひとりで傷を抱えたまま進もうとして立ち止まったまま…
他者を守りたいと、家族のように大切だと執着し、
自分の弱さを隠し自己犠牲に生きる─
脆くて、変わらない、愚かな優しさ。
「……変わらないね。
もう少し成長してくれると思ってたのに。」
赤い瞳に揶揄うような色が宿る。
「──あぁ、でも。
泣かなくなった?
隠すのが少し上手くなったつもり?
……一人で眠れるようになったのなら、成長してるのかもね。」
リオンの言葉には、嘲るような響きと、どこか本気で心配しているような裏の色があった。
エリンは何も言い返さなかった。
「──まぁ、お前は後でね。」
リオンは軽く手を振って言った。
「手紙に書いてた『新しい家族』のヒナって奴、見せてよ。
それが今日の目的だったんだからさ。」
そう言ったリオンの瞳には、どこか探るような好奇心が滲んでいた。
⸻
リビングで待つヒナは、遠くから聞こえる2人の親しげな声を耳にしながら、自然と胸がざわついていた。
(…ご主人の大切な友人…。どんな人なんだろう…。)
そんな考えが頭を巡らせる中、足音が近づいてきた。
主人がリオンを連れてリビングに入ってきた。
「ヒナ、彼が昨日話した友人のリオンだよ。」
主人の声にヒナは少し緊張しながらも立ち上がり、目の前のリオンに視線を向けた。
そこには、写真で見た通りの美しい銀髪と儚げな雰囲気を纏った青年が立っていた。
しかし、写真とは異なり、リオンは楽しそうな笑みを浮かべていた。
その口元には、大きな牙がちらりと覗き、赤い瞳が怖いほど印象的だった。
「こんばんは、初めまして。」
リオンが静かに少し首を傾げるように、にっこりと話しかける。
──その声は、まるで耳元で秘密を打ち明けられるような、甘く柔らかな囁きだった。
一瞬、背筋を撫でるような悪戯めいた気配が通り抜ける。
気づけばヒナは、その響きに胸の奥をくすぐられるような感覚を覚え、知らず知らずのうちに息を呑んでいた。
ヒナは緊張しつつも、「初めまして…ヒナです」と小さく声を出した。
その控えめな様子を見て、リオンはジロジロとヒナを見つめながら楽しそうに笑った。
「エリンの新しい家族のヒナくん、ね。
想像してたよりずっと幼いね。」
遠慮のないリオンの言葉に、ヒナは驚き、言葉を失ってしまう。
主人がその様子を見てリオンに軽く注意する。
「リオン、彼を困らせないで。」
「素直な感想を言っただけなんだけど」とリオンがいたずらっぽく笑いながら返す。
写真の外見や主人の話しから色々と想像していたリオンが、自分の想像とは全然違うことにヒナは驚きながらも、リオンに対する興味が湧いていた。
主人が「リオン、座って。紅茶でも飲みながら話そう。」と勧め、3人はリビングでテーブルを囲むことになった。
【小説20話:不穏】
リオンはリビングのソファにドカッと腰を下ろした。
その仕草に、ヒナは一瞬驚きながらも、運んできた紅茶をそっとテーブルに置いた。
しかし、リオンは紅茶には目もくれず、じっとヒナを観察している。
その視線に、ヒナは縮こまるような姿勢になり、緊張した面持ちで席についた。
ふと、リオンが口を開く。
「で? どんな関係なの?」
そう尋ねる声は、柔らかく甘い響きを帯びていた。
だがその奥には、ぞくりと背筋を撫でるような悪戯めいた冷たさが潜んでいる。
その一声だけで、ヒナの心臓は跳ね上がった。
唐突な問いかけに、ヒナは言葉を失った。
何をどう答えればいいのかもわからず、喉がカラカラに乾く。
そんな様子を見かねて、主人──エリンが落ち着いた声で答えた。
「手紙に書いたと思うけど、ヒナには家のことを手伝ってもらってるんだ。今、一緒に住んでる。」
主人の説明に、リオンはふうん、と興味なさげに相槌を打ち、赤い瞳を細めた。
そして、次の瞬間、にやりと唇の端を吊り上げる。
「そういうことじゃない。あんた──魔力、もらってんの?」
その言葉に、主人の表情が一変した。
「リオン! ヒナはまだ子供なんだから、そういう話は……!」
主人が少し慌てたように声を上げると、リオンはふっと笑った。
最初から、その反応を引き出すつもりだったかのように。
「……あはは。やっぱり慌てるんだ?
そんなわけないって、余裕で流せばよかったのに。」
からかうように言いながら、リオンはひょいとテーブルに手を伸ばし、ヒナが用意した紅茶を軽やかに取った。
無頓着な仕草の中にも、どこか洗練された動きが滲んでいる。
そのやり取りを見ていたヒナは、話の内容が全く理解できず、ただただ呆然と2人を見つめていた。
(……魔力? もらう? 一体、何の話……?)
混乱と緊張で、ヒナは声を出すこともできなかった。
リオンはそんなヒナをちらりと見やり、楽しげに肩をすくめた。
「ま、いいけどさ。」
にやりと笑うと、紅茶に口をつける。
主人は小さく息を吐き、リオンを睨みながらもそれ以上は何も言わなかった。
リビングには、微かに張り詰めた空気が漂い始めていた。
ヒナの胸は、早鐘のように鳴り続けている。
【小説21話:魔力】
紅茶を飲み干したリオンが、じっとヒナを見つめた。
その視線に気づいたヒナは、少し緊張した様子で目を逸らす。
リオンは空になったカップをテーブルに置き、面白そうに口を開いた。
「ヒナくん、君は自分の魔力がどれくらい強いか知ってるの?」
突然の質問に、ヒナは目を丸くして、戸惑った表情を見せた。
「えっ……魔力……ですか?あまり考えたことはないです……」
そう答えるヒナの声はどこか弱々しく、不安げだった。
リオンはその答えに満足するように小さく頷きながら、真剣な表情に変わる。
「君、ただの子供じゃないよね。」
その言葉にヒナはさらに困惑し、きょとんとした顔でリオンを見つめ返す。
「え……どういう意味ですか……?」
そのやり取りを見ていた主人──エリンが、小さくため息をついた。
「リオン…ヒナが怯えてる。
怖がらせるつもりはないんだよね?」
エリンの声は穏やかだったが、その中にははっきりとした注意の色がにじんでいた。
リオンは軽く片眉を上げ、からかうような笑みを浮かべて答えた。
「怖がらせる気なんてないよ。ただ、エリンの反応が面白かっただけ。」
エリンはリオンに一瞥を送り、静かに息を吐くと、ヒナに向き直る。
「ヒナ、大丈夫だよ。リオンが少し乱暴なだけだから。気にしないで。」
主人の優しい声に、ヒナは少しだけホッとした様子を見せた。
エリンはそっと手を動かし、心を落ち着かせる小さな魔法をかける。
不安で早まっていたヒナの呼吸が、徐々に落ち着いていくのを感じた。
「ヒナ…無理しないで。
今日はもう部屋でゆっくり休んでいて。
紅茶、ありがとう。ご馳走様。」
エリンの柔らかな声に、ヒナは小さく頷いた。
「……はい。では、ごゆっくり。」
そう言ってヒナは椅子から立ち上がり、リオンに向かって軽く頭を下げた。
リオンはにやりと悪戯っぽく笑いながら、軽く手を振った。
「またね。」
その言葉に、ヒナは小さく会釈して部屋を後にした。
自室に戻ったヒナは、ドアを閉めた瞬間、緊張がほぐれたように深く息を吐き出した。
「……なんだったんだろう、あの人……」
そんな独り言を呟きながら、少しほっとした表情でベッドに腰を下ろす。
しかし、リビングでの2人の会話やリオンが放った言葉が気になり、ヒナの胸にはモヤモヤとした感情が残っていた。
(ご主人とあの方って、どういう関係なんだろう……それに、あの魔力の話……)
考えれば考えるほど気になり、ふと部屋の扉に目を向ける。
そっと扉を少しだけ開けると、リビングから小さな声で話す主人とリオンの声が聞こえてきた。
(……もう少しだけ……聞いてもいいよね……?)
自分にそう言い訳をしながら、ヒナはこっそりと聞き耳を立てるのだった。
【小説22話:純白の羽根】
リビングから、主人とリオンの声が微かに聞こえてきた。
ヒナは息を潜め、そっと耳を傾ける。
リオンの声が軽く響いた。
「大事にしてるんだねぇ?」
その調子に続けて、主人──エリンの、いつもより少し鋭い声が返る。
「……随分ヒナに意地悪するんだね。どういうつもり?」
リオンはくすっと笑った。
「だって、“何も知らない”まま抱えてるだけじゃ、どのみち苦労するでしょ?」
淡々と、どこか冷めた響きが混じった声だった。
「何も知らずにただの子供、飼ってるつもり? ──エリンが魔力を注げば、いずれ成長するのにさ」
その言葉に、ヒナは思わず小さく眉をひそめた。
(……魔力? 成長?)
戸惑うヒナの耳に、リオンの声がさらに続く。
「希少種──いや、今じゃ絶滅したって言われてる種族だよ、天使って。」
軽い口調なのに、告げられた言葉の意味は重かった。
ヒナの胸にざわりとした違和感が広がる。
絶滅──天使──。
確か、幼い頃にどこかで聞いたことがある。
「背に純白の羽根を持ち、癒しの力で人々を救った種族」
──そんな伝説めいた話を。
(……そんな……ボクが……?)
ヒナは混乱のあまり、思わずドアに寄りかかりそうになるのを必死でこらえた。
リオンは、そんなヒナの存在に気づいているかのように、悪戯めいた声色で続ける。
「奇跡的に生き残ってたわけだ。……無知なまま、誰にも教えられず。」
そしてわざと間を置いて、からかうように付け加える。
「何も知らない無知な天使…面白いけど、このまま何も知らせずに飼い殺すつもりなの?
オレなら放っておかないけどねぇ…。」
その言葉に続いて、エリンの声が、かすかに震えるようにして漏れた。
「……やめて。」
静かで、必死な声だった。
怒鳴りつけるわけでもない。
エリンのその絞り出すような声は
ただ、ヒナをこれ以上 傷つけたくないという、抑えた叫びのように聞こえた。
「……本気で守るつもりなんだ?」
「当たり前だよ。」
エリンは、短く、けれどはっきりと即答した。
──その一言だけで、ヒナの胸に何か熱いものが込み上げた。
リオンの赤い瞳が、皮肉と興味をないまぜにして細められる。
「……ふぅん…。」
それきり、リオンはそれ以上 言葉を重ねなかった。
ヒナは扉の向こうでじっと息を潜めながら、
(ご主人は……ボクのこと……守ってくれようとしてくれてる…)
胸の中でそっと呟く。
だけど、まだ理解できないことが山ほどあった。
天使。魔力。成長。
知らなかった世界の話が、静かにヒナを飲み込もうとしていた。
【小説23話:聞き耳】
リビングの静寂を破るように、リオンが軽い調子で言葉を投げた。
「ま、本人にはちゃんと説明しといた方がいいと思うけどね。」
その声には、どこか棘を含んだ軽やかさがあった。
リオンはニヤリと唇を吊り上げながら、わざとらしく続ける。
「バレれば奴隷にされてもおかしくないんだし。
さっさと成長させて天使の恩恵、受けたらいいと思うけどね。」
その軽々しい響きに、ヒナの心臓は大きく跳ねた。
(奴隷…? 羽根…? 天使の恩恵…?
一体、何の話をしているの……?)
リオンはさらに続けた。
「天使が得意な癒しの魔法は、特別強い力を発揮する。
オレらエルフにだってできない治癒や延命、それに──蘇生だってね。」
さらりと告げられた言葉に、ヒナは強い混乱を覚えた。
そして、リオンはわざと声を少し潜め、悪戯っぽく囁くように言った。
「──何より、天使の体液は“格別な味”らしいよ?」
挑発するような声音だった。
その瞬間、リビングに主人の声が静かに響いた。
「……そんなこと、しない。」
怒りとは違う。
どこか、怯えるような、掠れた声だった。
ヒナが息を呑む。
続けて、主人の声が低く、静かに重なる。
「僕は……ヒナを……そんなふうに扱うつもりはない。」
──その声音には、必死な祈りにも似た拒絶の色が滲んでいた。
リオンはくっくっと喉を鳴らし、軽く肩を揺らして笑いを堪える。
「──だってさ。よかったね、ヒナくん?」
皮肉めいた、けれどどこか優しくも聞こえる調子で、リオンはわざと扉越しのヒナに届くように言った。
ヒナは驚きと混乱で胸がいっぱいになり、そっと聞き耳を立てていた自室の扉から体を離した。
(……何のことか全然わからない。
でも、ご主人は……ボクのことを守ろうとしてくれている……?)
心の中で渦巻く疑問や不安を抱えながら、ヒナはそっと胸に手を当て、
そして、再びリビングへと向かっていった。
【小説24話:罠】
リビングの扉の前で、ヒナは深く息を吸い込んだ。心の中は不安と混乱でいっぱいだった。それでも、黙っているわけにはいかないと思い、意を決しておずおずと扉を押し開けた。
「…失礼します。」
ヒナのか細い声とともに扉が静かに開かれる。
リビングにいた主人とリオンが同時に視線を向けた。
主人は一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに表情を曇らせると、軽くため息をついて髪をくしゃっと掻いた。
一方で、ソファに深く腰掛けていたリオンは、にやりと意地悪そうな笑みを浮かべながらヒナに声をかけた。
「ヒナくん、おかえり。いつ戻ってくるのかと思ってたよ」
楽しそうに揺れるリオンの声には、からかいがたっぷりと含まれていた。その態度に、ヒナは肩をびくりと震わせ、さらに俯き加減になった。
「ごめんなさい…話し…聞いちゃって…。でも、突然過ぎて何が何だかわからなくて…」
ヒナの言葉はどこか震えていて、申し訳なさと混乱が入り混じっている。
リオンはその様子をじっと見つめると、意地悪な笑みをさらに深くして肩をすくめた。
「ふ〜ん、そうなんだ。まあ、驚くよね。
知らないことばっかりだもんね、君は。」
その言葉に、ヒナの表情がさらに不安げに曇る。
「リオン、もうやめて。ヒナが怖がってる。」
主人が静かながらも鋭い口調でリオンを制した。その声には、いつもの柔らかな雰囲気とは違う、毅然とした力強さがあった。
リオンは少し驚いたように目を丸くしたが、すぐにおどけた様子で手を挙げた。
「はいはい、悪かったよ。でもエリンも保護者のつもりなら、きちんとヒナくんに教えた方がいいと思うけどね」
主人は小さく息を吐きながら、リオンを軽く睨むように見たが、それ以上は何も言わなかった。
「ヒナ、大丈夫だよ。気にしないで。
その話は僕が後できちんと説明するから。」
主人が優しい目でヒナに話しかける。その言葉に、ヒナは少しだけ安心し、小さく頷いた。
リオンが2人のやり取りを楽しそうに聞きながら、茶化すように言った。
「ま、素直なヒナくんはすぐ丸め込まれそうだけど」
エリンはリオンの言葉に短くため息をつき何も言わず、ヒナの様子を見守るように再び目を向けた。
すると、リオンがふっと思い出したように、からかい混じりの声で問いかける。
「そういえばエリン、昔の話、ヒナくんにはもうした?」
その言葉に、主人の表情が一瞬強張った。
【小説25話:暴かれた真実】
リオンは背もたれに体を預けながら、ハァ…とわざとらしいため息をついた。
「本当に何も話してないの?過保護だねぇ…」
そう言うとウンザリしたように肩をすくめる。
その仕草に、ヒナは困惑しながらリオンを見つめるが、何も言えず俯いた。
主人はその言葉を受けても何も答えず、ただ黙ったままだった。そして隣に立つヒナの肩を、いつもより少し力強くギュッと握りしめる。
ヒナはその手の感触に驚き、顔を上げた。主人の表情はどこか複雑で、その瞳には深い思慮が宿っているようだった。
リオンはその様子を白けたように細めた目で見つめる。
しばらくそのままでいたが、ふとコロっと表情を変え、わざとらしいほどに優しげな笑顔を作ると、ヒナに向かって話しかけた。
「ヒナくんはなんか聞きたいことないの?なんでも教えてあげる」
その声には優しさの裏に、どこか楽しげで含みのある響きが混じっていた。
ヒナは少し戸惑いながらリオンを見たが、すぐに主人の方へと視線を移した。
その瞬間、主人が静かに口を開いた。
「…今までは何も言えなかったけど、知りたいなら僕から話すよ。」
ヒナはその言葉に息を呑む。主人の声は静かで穏やかだったが、どこか重みを感じさせた。
「知らなくていいことは、知らないままの方が幸せな場合もあるかと思って黙っていたけど…」
主人はそこで言葉を切り、少しだけ俯いた。
「…暴かれちゃったからね。」
その言葉にリオンは少し満足げな笑みを浮かべて、興味深そうに2人を見ている。
ヒナは主人の言葉に込められた真意を感じ取り、心が静かに揺れた。
主人の優しさは、ヒナを守るためのものであり、決して押し付けではない。
一方でリオンの優しさは、どこか軽やかで、自由奔放なものだった。
どちらも優しさには違いないが、明らかに異なる性質のものだとヒナは理解した。
ヒナは深く息を吸い込むと、決意したように顔を上げた。
「じゃあ…」
そう切り出した声は小さくても、確かな力を宿していた。
【小説26話:覚醒の真意】
「リオンさんは、どうしてボクを“天使”だと思ったんですか?羽根もないのに。何かの勘違いじゃないんですか…?」
ヒナは真っ直ぐにリオンを見つめた。その瞳には、純粋な疑問と少しの戸惑いが混じっている。
リオンはその問いかけにつまらないとでも言うように肩をすくめ、即答した。
「会ったらすぐわかった。天使は美味そうな血液の香りがする」
そう言ってから、何かを思いついたようにニッと笑みを浮かべた。
「ヒナくんの魔力を育てて羽根生やしたら本当に天使かどうか、誰でもすぐわかるじゃん。
ヒナくんの“ご主人様”に頼んで覚醒させてもらったら〜?」
リオンはそう言うとエリンの顔を眺めて、愉快そうに笑い始めた。
しかし、その話の内容が理解できなかったヒナは困ったような表情で、思わず主人の方を見つめた。
主人はすぐにヒナの気持ちを察したようで、優しく語りかけた。
「そんなこと絶対しないから。ヒナは心配しなくていいからね。」
その言葉に、ヒナは少しホッとしたように息をついたが、同時に困惑も拭えなかった。
「えぇと…?」
思わず小さくつぶやくヒナに、リオンは肩をすくめながら笑った。
「ほんとにヒナくんは箱入りだねぇ、天使なのに無知は危ないよ?保護者のエリンの責任じゃない?」
その小さな笑い声に、ヒナは自分の知識不足を恥ずかしく思った。
──ご主人はボクを守るために情報を与えず、極力人の多い場所へは連れて行かなかったのかもしれない。でも、本から知識を得るチャンスはあったのに…!
胸の奥に湧き上がる恥ずかしさと悔しさを押し殺し、ヒナは思い切って聞くことを決意した。
「…あの…」ヒナは少し躊躇いながらも、言葉をつむぐ。
「覚醒ってなんですか。ご主人に頼んでって、どういう…」
そこまで言いかけた瞬間、リオンが耐えきれなくなったように吹き出した。
リオンは心底楽しそうに腹を抱えて笑い出した。
その笑い声にヒナは驚き、主人は苦々しい表情でリオンを睨む。
「ヒナは知らなくていい。」
主人はそう言ってヒナから目を逸らし、リオンを恨めしそうに睨みつけた。
涙が滲むほど笑ったリオンが、やっと息を整えながら言葉を紡いだ。
「“天使”として、力を発揮する為にエリンから魔力を貰って、自分の身は自分で守ったら?って言ってんの。」
その言葉に、ヒナは息を呑む。
ヒナはその場の雰囲気に飲まれながらも、
リオンの言葉に隠された意味に考えを巡らせるのだった。
【小説27話:覚醒への決意】
「は〜、笑った。」
満足そうにため息をつきながら、リオンはつぶやいた。
一方で、ヒナの胸の中には複雑な思いが渦巻いていた。主人に守られるばかりではなく、自分も主人の役に立ちたい──その想いはずっとヒナの中でくすぶっていた。
そして、その気持ちは成長したいという願いに繋がっていた。
ヒナは決意を固め、真剣な表情で口を開いた。
「どうすれば“覚醒”できるんですか…?」
その言葉に、リオンは一瞬驚いたように目を丸くしたが、次の瞬間、再び腹を抱えて笑い出した。
「…あはっ、ヒナくん、君ほんとに最高だね〜!」
しかし、リオンの笑い声が響く中、エリンは険しい表情を崩さず、リオンを鋭く睨みつけた。
そして、リオンがまたヒナに余計なことを言う前に、素早く魔法を発動させた。
リオンの体が瞬時に光の鎖に包まれ、動きを封じられる。
しかし、リオンはその状況を楽しむかのように、鼻で笑った。
「はっ、バカバカしいね。」
リオンは拘束された状態のまま、軽く肩をすくめると、あっさりとその光の鎖を弾き飛ばしてしまった。
「拘束魔法は魔族の得意分野、適性の低いエルフの拘束なんて効くわけないってわかってたよね?」
ニタリと笑いながら、リオンはエリンを挑発するように言葉を続けた。
エリンの表情がさらに険しくなる中、リオンは軽い口調で言葉をつないだ。
「観念しなよ、エリン。知識は、たとえ活かせなくても持っておくべきだよ?
ヒナくんだっていずれ知ることになるんだから、無駄な隠し事はやめたら?」
その言葉に、エリンはしばらく沈黙した。苦々しい表情を浮かべながらも、リオンの言葉の一部には同意せざるを得なかったのか、ゆっくりと頷いた。
「…そうだね。」
そう呟くエリンの声には、悔しさと何か別の感情が混じっていた。
ヒナはリオンの言葉とエリンの反応を見て、さらに疑問と覚悟を深めながら、静かに2人の様子を見つめていた。
【小説28話:覚醒の真実】
「ヒナくん、全然わかってないみたいだから教えてあげるね」
リオンはいたずらっぽい笑みを浮かべ、少しからかうような調子で言った。
「天使の覚醒って簡単に言えば『譲渡』だね
他者から魔素の含まれた体液を貰って自分の器に蓄える。
エリンの魔力をヒナくんが貰うの。
天使が貰うなら血液より精液だね。
天使の性質『性愛』と相性がいいから。」
エリンの顔が曇るのを無視して、リオンは説明を続ける。
「無事にヒナくんが魔力をつけて育てば天使として覚醒して治癒魔法が使えるようになる。
天使って治癒魔法が他の種族に比べてズバ抜けて高いのが特徴なんだよね。
中でも延命、蘇生は天使にしかできない。
他の種族は、たとえ魔法適性があっても、せいぜい軽い傷を治すくらい。
でも、天使だったら腕でも足でも再生できるんだ。
さらに、天使の中でもとりわけ魔力が強い個体が、なんと蘇生までできるって話。
まあ、これは本当かどうか知らないけどね。」
ヒナはリオンの軽い調子の説明を、半信半疑ながらも真剣に聞いていた。
だが、リオンの表情が次第に真剣なものに変わると、ヒナもその雰囲気に引き込まれる。
「だから、希少価値の高い天使は狙われるんだよ。わかる?」
リオンは少し低い声で問いかけた。
ヒナはコクンと小さく頷く。
「大昔、天使は悪魔に攫われて奴隷にされてた。
天使の力の源は『愛』
でもね、奴隷にするような奴らがそんなもの天使に与えられるわけがない。」
リオンは一呼吸置き、さらに言葉を続ける。
「愛も与えず無理やり魔力を注がれて、弱ってんのに羽根をむしられる。で、その羽根を質が悪いことを隠して万能薬として加工して、精液は媚薬として売り捌く。
天使の血液は悪魔にとっては ご褒美、最高に美味い魔力を得られる。
天使は他の種族よりも体液に含まれる魔素が多くて高エネルギーだから、魔力が体に溢れるんだよね。
魔力回復どころか増強って感じかな。」
「それで天使は魔力と羽根を枯らして、最後には命を落とす。天使の最期って石化するんだ。悪魔城にはたくさん飾ってあるよ。」
リオンの話が終わる頃には、ヒナは驚愕の事実に言葉を失っていた。体が震え、自分の身に降りかかるかもしれないその危険性をようやく理解し始める。
その瞬間、エリンがヒナの手をギュッと握り締めた。その手の温かさが、ヒナに少しの安堵を与える。
「ヒナ、心配しなくていいから。僕が絶対に守る。」
その言葉に、ヒナは主人の顔を見上げ、泣き出しそうな目で主人を見つめた。
【小説29話:相性と覚醒】
リオンは椅子の背もたれに身体を預けながら、軽い調子で話を続けた。
「エリンは魔力が高いから他のエルフよりは強いかもしんないけど、
基本的にエルフや天使ってさ、他者を攻撃するような魔法は使えないか、
使えても威力が弱かったり継続時間が短かったりする。」
「逆に、魔族の血を引く者は、さっきみたいな拘束とか攻撃する魔法と相性がいいから、より威力を出せるってわけ。」
リオンは手のひらをヒラヒラと動かしながら説明を続ける。その動きはどこか余裕を感じさせた。
ヒナはリオンの話に耳を傾けながらも、少しずつ顔が不安げになっていくのがわかった。リオンはさらに続ける。
「ヒナくんはさ、魔法ってあんまり使えないんだよね?自分が天使種だってことも知らなかったんでしょ?
覚醒できたら戦力も補えるし、エリンから魔力を貰って力を育てたらいいんだよ。
仮に"愛”があまり与えられなかったとしても、
受け取る側からの愛情や信頼があれば順調に天使として成長できるはずだよ。」
リオンの言葉はどこか冷ややかで、軽口に見せかけて深い闇を覗かせていた。
その言葉に、エリンの表情が一瞬強張る。
その姿に気づいたリオンは、明るい口調を強調するように声のトーンを戻した
「ヒナくんもエリンのこと慕ってるんでしょ?相手がエリンだったら、悪い気しないんじゃないの?」
「…え?」
ヒナの口がぽかんと開いたまま、声が漏れる。
突然の言葉にどう反応していいかわからず、彼の視線は一瞬エリンへ向けられたが、すぐに俯いてしまった。
エリンは、リオンの言葉に耐えるように目を閉じ、小さく息を吐いた。
その様子はヒナには見えなかったが、エリンの手がそっとヒナの背に触れ、力強い温もりを感じさせた。
リオンはそんな2人の様子を、どこか楽しげに眺めながら、「まぁまぁ、冗談だって」と肩をすくめて言ったが、その瞳の奥には本心を隠したような光が揺れていた。
【小説30話:別れ】
リオンは楽しそうに微笑みながら、ヒナを見つめて調子のいい口調で言った。
「もしヒナくんに羽根が生えて少し分けてくれるなら、オレも今後2人が困ったら協力してあげるし。ね?」
その言葉にエリンの表情がさらに険しくなるのを見て、リオンは満足したようにニヤリと笑った。
「満足したからもう帰るかな、今日は楽しかったよ、エリン」
そう言うと、リオンの背中から悪魔のような漆黒の羽根が広がった。その光景に、ヒナは目を見開いて息を飲む。
リオンは軽やかに手を振り、続けてヒナに視線を向ける。
「ヒナくんもまたね。大変だろうけど頑張ってね」
ヒナが返事をする間もなく、リオンは窓辺に向かい、勢いよく羽ばたいた。窓ガラスを開けることすらなく、リオンの身体はそのまま闇夜に溶けるように飛び去っていった。
ヒナは呆然とその後ろ姿を見送り、ぽつりとつぶやいた。
「あの人…悪魔だったんですね…」
エリンは短く息を吐いてから、ヒナの肩に優しく手を置き、柔らかい声で言った。
「…疲れたでしょ。部屋に戻って休もうか。」
ヒナはまだリオンの残した言葉が頭の中でぐるぐる回っていたが、エリンの言葉に小さく頷いた。
2人がリビングを出ていくと、ただ夜の静けさだけが部屋に残った。
【小説31話:守られる理由】
騒がしかった家が急に静まり返り、夜の静けさが重く漂う。
ヒナの部屋では、小さな体をベッドに沈めたヒナに、エリンがもたれかかるように寄り添っていた。ヒナの手をぎゅっと握りながら、エリンはどこか疲れた表情を浮かべていた。
ヒナは元気のない主人の様子に胸が痛んだ。どうしたらいいのか分からず、ただ黙って寄り添い続けることしかできなかった。
そんな中、エリンがぽつりとつぶやいた。
「ヒナ、ごめんね。怖かったでしょ…」
ヒナは確かにショックを受けていたが、主人の優しさがその心を少しずつ癒していく。何も言えず、ただ俯くヒナに、主人はさらに手を強く握りしめ、心が落ち着く魔法をかけた。
穏やかな温もりがヒナの心に広がり、彼は少しずつ緊張を解くことができた。そんなヒナを見つめながら、主人はため息をつくように言葉を続けた。
「あの人は…リオンはね、ヒナを狙っているわけじゃないんだ。」
エリンは一瞬、言葉を飲み込むように沈黙した後、重い口調で話し始めた。
「ヒナが天使だと確信して、もしも誰かに襲われたら…僕だけで守り切れるか分からないと思ってるんだと思う。
どうせなら、ヒナを覚醒させて、最大限の力を持たせて互いを守りきれって。」
その言葉にヒナは少し戸惑いながらも耳を傾けた。
主人は続ける。
「僕はね…ヒナにはそもそも羽根が生えてないんだから、何も知らずに穏やかに過ごしてほしかった。
傷つけたくない、絶対に僕が守るって強く思っていたんだ」
エリンの瞳には、深い悲しみと後悔が滲んでいる。
「エルフである僕は結界を張るのが得意だし、この人気のない土地の、この屋敷の中でなら…ヒナを守ってあげられると思ったんだ。」
ヒナはエリンの言葉を聞きながら、自分が守られてばかりであることを痛感していた。けれど、主人の言葉から伝わる優しさは、心をじんわりと温めた。
エリンは少し間を置いてから、静かに続けた。
「羽根の生えていない天使に気づくことができるのは、ごく少数の、しかも長寿な種族だけだと思う。」
ヒナはその言葉に首をかしげながら、無意識に疑問を口にした。
「…少数の、長寿な種族…?」
その問いに、エリンは困ったように目を伏せ、答えにくそうに口を開いた。
「天使の血液を一定量飲むと、天使の血液の匂いに敏感になるんだ。
“飲まされた”人もいるんだよ。『次の天使』を見つけ出すために…。たとえば獣人とかね。
本来の獣人の寿命はそこまで長くないけど、エルフの血が入ると長寿の部類に入るんだ。
だから…五感が鋭い獣人と長寿のエルフの混血種ならヒナが天使だって気づくかもしれないね。
でも混血種は…"自然には"滅多に生まれない希少な存在だから…そんなに心配しなくても大丈夫、だと思う。」
ヒナが驚いた表情を浮かべる中、エリンは少しだけ遠くを見るような目をしながら、静かに語り始めた。
「リオンはね…エルフと悪魔の混血種なんだよ。
幼少期、奴隷として生まれた僕を助けてくれた人。だから、恩人。魔法も教えてくれたしね。」
エリンの言葉には、リオンへの複雑な感情が滲んでいた。その中にある感謝と、そしてわずかな苦悩に、ヒナは気づいた。
【小説32話:譲渡の方法】
「ヒナには内緒にしていたかったんだけど…」
エリンがぽつりと呟いた。その言葉には、微かに後悔と諦めが混ざっているようだった。
「もう今更だからね。」
エリンは小さくため息をつきながら、静かに話し始めた。
「他者に魔力を分け与えて、魔力を強化する方法はいくつかあるんだ。
ただ、それは種族ごとに効率の良い方法が違ったり、種族間の相性に左右されたりするんだよ。」
ヒナはじっとエリンの顔を見つめながら、静かに話を聞いている。
「他者に寄り添う特性を持ち治癒魔法にも長けているエルフや、生命や愛の象徴とされる天使は、他者に与えられる魔力の量が大きい。
そして、天使の場合は『愛』で自身の魔力の自然回復量が上がる。
悪魔の場合は『自己愛』だね。」
ヒナの瞳がわずかに見開かれる。エリンはその表情を見て、少し苦笑を浮かべながら続けた。
「…それで、魔力を他者に譲渡する方法についてだけど、基本的には体液を介することが一般的なんだ。
摂取量が少ないと効果は薄いけれど、汗とか唾液でも一応、譲渡が可能だよ。」
エリンは言葉を少し区切り、ヒナの反応を伺いながら続ける。
「ただ、中でも血液や精液なんかの類は、情報が濃いから効率がいいとされてる。
もちろん血液は、死体でもなければ一度に大量に摂取するわけにもいかないし…。
精液は生命の種とされているから、魔力の譲渡に向いているんだ。
どれも鮮度が悪くなると効率が下がるのは同じだけどね。
魔力は日々回復するし、種族の本質を満たせば更に回復が見込める。
でも大きな魔法も使わずに普通の生活をしていれば魔力を譲渡したりされたりっていうのは必要ない。
魔力を蓄えられる器っていうのは生まれつきもあるけど、器を強化するには感情や精神が育てることが必要なんだ。
精神強度が上がれば器も育つし、
他者からの魔力譲渡で、自分の持つ魔素を魔力と感情で活性化されると時間と共に自分の魔力として取り込めて……」
ヒナは耳まで赤く染めながら、何も言えずにエリンの話を聞いていた。
そんなヒナを見て、エリンは苦笑しながら言葉を続ける。
「…って、ごめん。一度にいろいろ喋り過ぎた。
極端だね、僕は。」
エリンは優しく微笑むと、ヒナの肩にそっと手を置いた。
「不安になったら、いつでも僕を頼ってね。ヒナが知りたいことがあれば、どんなことでも教えるから。
今日はもう疲れただろうし、ゆっくり休むんだよ。」
そう言って、エリンはヒナの額に軽くキスをした。その瞬間、心がじんわりと温かくなるのをヒナは感じた。
それは、ヒナの精神がリラックスできる癒しの魔法だった。やわらかな光が部屋を包み込み、ヒナはその安心感に目を閉じる。
「おやすみ、ヒナ。」
静かな声を最後に、エリンはそっと部屋を去っていった。
ヒナは瞼を閉じながら、エリンの言葉を反芻していた。
その胸には、言葉にできない不安と、そしてエリンへの信頼が複雑に交差していた。
【小説33話: 夜の決意】
エリンが部屋を出て行った後、ヒナは主人からの額への優しいキスを思い出していた。胸が高鳴り、頬がじんわりと熱くなる。
エリンの温かい言葉と心遣いを思い返しても、ヒナの心は落ち着くことができなかった。
眠れないまま過ごす夜、ふとリオンの言葉が脳裏をよぎる。
「知識を持つべきだ。」
リオンの挑発的な口調と真意を測りかねる言葉。しかし、何かがヒナの中でそれに納得していた。自分が守られるばかりで何もできない現状に、強い焦りを感じ始める。
「僕も、ご主人の力になりたいのに…」
落ち着かない気持ちを抱えたヒナはベッドから起き上がり、喉を潤そうとリビングへ向かう。
静まり返ったリビングは、夜の冷たい空気に包まれていた。月明かりが薄く窓から差し込む中、ヒナはキッチンのカウンターに寄りかかりながら水を一口飲む。そして、リオンの言葉を再び整理し始める。
「知識…強くなるために必要なこと…」
そんな考えに浸っていると、ふとリオンが座っていたソファが視界に入った。何気なく視線を向けたヒナは、ソファの隙間に何かが挟まっていることに気がつく。
「なんだろ、これ…?」
ヒナは好奇心から手を伸ばし、挟まった物をそっと引っ張り出した。それは黒い紙だった。冷たく、滑らかな感触。それに触れた瞬間、紙が突然蒼白い炎のように燃え上がる。だが、不思議と熱さは感じない。
光の中から文字が浮かび上がる。書かれていたのはリオンからのメッセージだった
"『ヒナへ
過保護なエリンから魔力は貰えた?
まだ知りたいことがあるなら明日、1人で結界の外の湖に来なよ。
時間は君の好きな時でいい。待ってるよ』"
読み終えた途端、紙は黒い塵へと姿を変え、風に流されるように消えてしまった。
ヒナはその場に立ち尽くし、目の前で起きた出来事を整理しようとする。リオンの言葉は挑発的で、危険な香りを漂わせていた。
しかし、同時にヒナの中には主人の為に頼れる自分になりたい、成長したいという気持ちも湧き上がる。
「ボクは…守られるばかりじゃ駄目だ。」
ヒナは静かに拳を握りしめた。主人を傷つけたくないという想いと、自分も何かを変えたいという気持ちが交差する。
明日、なんとか主人を誤魔化し、時間を作って湖へ向かおう。そう決心したヒナの目には、覚悟の色が宿っていた。
【小説34話:夜にほどけるもの】
夜更け。
冷たい空気の中、エリンはベッドに伏していた。
激しい魔力の消耗で、体は鉛のように重い。
額に滲む汗。浅く早い呼吸。
無理を重ねた結界魔法が、彼の身体を容赦なく蝕んでいた。
そのとき、窓の向こうから、軽く窓を叩く音がした。
「……リオン……?」
這うようにして窓へと向かい、か細い力で開けると、そこには悪戯めいた微笑みを浮かべたリオンがいた。
銀白の髪が夜の風に揺れ、赤い瞳が冴え冴えと輝いている。
「お待たせ、エリン。随分、無計画に魔力使ったね。
壊れたかと思ったよ。」
リオンは気怠げに笑いながら、窓からするりと部屋へ入り、ベッドの端に腰を下ろした。
その無遠慮な態度に文句を言う元気もない。
エリンは苦しげに喘ぎながら、リオンを見上げた。
「魔力、必要なんでしょ?
……ヒナを守るために生きたいよね?」
リオンの声は、どこか冷たく、けれど確かにエリンを叱咤するものだった。
ゆっくりとベルトを緩めながら、彼は淡々と言葉を続ける。
「エルフは血液から魔力を吸えないんだから、オレが補ってあげる。」
言いながらベッドに座るリオンは、
エリンの表情を、真意を観察するように瞳を覗き込むように見つめ、淡々とした調子で告げた。
「オレも気乗りしないけど…。
悪魔だからね、自己暗示でいくらでも欲は引き出せる。
過剰に性欲を引き出すから嗜虐性も多少出るけど我慢してね」
リオンはそう言いながら、軽くエリンの頭に手を置いた
魔力の波動が微かに震え『誘惑』の魔法がかけられる。
静かに、だが確実に、エリンの精神に干渉していった。
エリンの意識がぼんやりと霞み、目の焦点が合わなくなる。
頬を染め、わずかに潤んだ瞳で、リオンを見上げる。
「……リオン……」
かすれた声で名を呼びながら、エリンはよろめくように跪いた。
細い指がリオンの膝を掴む。
まるで縋るように。
「……しても、いい……んだよね……?」
震える声で、許しを乞う。
普段の清廉なエリンからは考えられない、弱く甘えた声音だった。
リオンは赤い瞳を細め、ゆっくりと笑った。
「どうぞ。
さっさと済ませて、飲んでくれる?」
その答えに、エリンは小さく息を呑み、けれどまだ不安げに問いかける。
「……キスは……して、くれないの……?」
その言葉に、リオンはくすっと小さく笑った。
蔑むように、どこか哀れむように。
「必要あるの?正気に戻ったら絶対文句言うでしょ?
…今は魔法かかってるから、エルフの価値観で愛情を求めてるだけだよ。──面倒くさい種族だよね。」
リオンの声は軽やかだったが、突き放すような冷たさも含んでいた。
エリンは少しだけ悲しそうに目を伏せる。
その仕草を見て、リオンは満足そうに少し笑った。
「そんな顔しないでよ。
慣れてなさそうに見える割に、悪魔を誘う表情 作るのは上手なんだね」
リオンはわざと意地悪に微笑んだ。
「ここまでしてあげるなんて優しい悪魔でしょ?
もっと感謝して欲しいな。
ありがとうございます、弱くてごめんなさいって、ちゃんと自覚して反省してよ、二度と同じミスしないように。
オレに手間かけさせないで──自分で手と口、動かして?」
旧友に対して優しさのかけらもない、悪魔らしい嗜虐の響き。
エリンは震える体を支えながら、なおもリオンの服の裾を握りしめ、
小さく、か細い声で続けた。
「……お願いします……見捨てないで……」
まるで小さな子供の切実な願いのように絞り出した声は小さく、震えていた。
「……弱くて……ごめんなさい…。迷惑かけてごめんなさい…。
僕なんかに……魔力を分けてくれて、ありがとうございます……。」
弱々しく言葉を紡ぎ、縋るようなエリンのその姿は、
まるで命乞いをする奴隷のようだった。
真力消耗したエリンは取り繕う余裕がない程、弱っていた。
リオンは冷ややかに笑い、軽く嘲笑うようにつま先でエリンのズボン越しの欲をつついた。
「……身体だけ成長したって感じだね。」
「気持ち悪いなぁ……。
そこまで面倒見る気ないから、ソレは自分で何とかして」
──嘲るような声音。
しかしリオンの声には、明らかに魔力で引き出された嗜虐の熱が滲んでいた。
エリンは羞恥に耐えるように震えながら、それでも頷き──
そっと、震える指先でリオンのズボンに手をかけた。
──エリンには この行為に、愛情なんて ひとかけらもないように感じられた。
少なくともリオンからは感じられなかった。
必要だから。
生きるためだから。
守るためだから。
そんな薄く重たい理由だけが、今のエリンを突き動かしていた。
それでも、エルフの価値観に背いた背徳感に手の震えは止まらなかった。
リオンはそんなエリンを見下ろし、冷たく笑った。
「エルフってさ、魔力消耗して精神不安定になると、身体は魔力を求めるのに──
性交渉を神聖視する価値観が邪魔して、自慰して誤魔化すんだって?」
「……意味のない現実逃避なんてして、何の解決もしてないのに。
不便で哀れだよねぇ……」
耳に刺さるようなリオンの声に、エリンは涙を堪えるようにぎゅっと唇を噛んだ。
リオンは楽しげに、蔑むように続ける。
「──まぁ、オレも暇じゃないからさ。」
「何回も死にかけないでね?
オレの魔力、アテにしないで。
自分で魔力の残量、管理して。
……次はヒナに貰えば?
それが嫌だったら、しっかり自己管理しなよ。」
その言葉に、エリンは小さくかぶりを振った。
「……ごめんなさい……」
「謝っても仕方ないよ。」
リオンは にやりと嗤った。
「ほら、自分で何とかして?ヒナのためだもんね。
プライド捨てて、悪魔に奉仕して魔力を乞うのも
“可愛い家族”を守るためなんだよね?
……何もしないで人から魔力が貰えると思ってないでしょ?
わかったら──もっと奥まで喉使えよ、“ご主人様”」
指先で顎を掬うようにして促され、エリンは静かに従った。
「そう、その顔。
“ごめんなさい”って泣きながらオレの魔力吸ってんの、似合ってるよ。
さっきまで強がって偉そうに命令してた口が、
今は裏で必死に奉仕して滑稽な姿見せてんの、最高だね」
リオンは、口の端をわずかに吊り上げ、
まるで可哀想なものを見るような目で、エリンを見下ろしていた。
その赤い瞳には、冷たい愉悦と──ほんのわずかな熱が、滲んでいた。
羞恥と罪悪感、
そしてぼんやりとした熱に支配されながら──
エリンはただ、リオンに魔力を求め、身を委ねていくしかなかった。
夜は静かに、堕ちていった。
【小説35話:夜にほどける、鎖のようなもの】
エリンはベッドに沈み、ぐったりとしていた。
薄緑色の瞳は虚ろに揺れ、顔色もまだ完全には戻っていない。
「……ごめんね、リオン。ありがとう。
また助けてもらって……僕は…何も変われてないね。」
ぽつりと、弱々しい声が零れる。
リオンはそんなエリンを見下ろしながら、無造作にベッドの端に腰を下ろし直した。
「命を救ってもらって、妹まで探してもらってるのに……
僕はリオンに何ひとつ、恩を返せてない……」
エリンの指先が、シーツをぎゅっと握り締めた。
その痛々しい姿に、リオンは小さく鼻で笑った。
「気にしすぎ。
恩とか大袈裟だよ。重いし、いちいち考えなくていい。」
軽い調子でそう言いながらも、リオンの声にはほんのわずかな優しさが滲んでいる。
「魔力譲渡だって、そんな罪悪感抱えるようなたいしたもんじゃないと思うけど。
悪魔や獣人みたいにある程度 割り切れればそんなに苦しまないのに、
エルフってさ、繊細で、意外と不器用。」
そう言いながら、リオンは手近にあった毛布をエリンの膝に無造作に投げるようにかけてやった。
エリンは小さく首を横に振った。
俯きながら、それでも絞り出すように言葉を紡ぐ。
「……僕は……。
弱くて、情けなくて……失ってばかりだ」
悲しそうに、悔しそうに、エリンが呟く
「オレはそうは思ってない。それに…別に弱さって完全に悪いことじゃないと思うよ。」
リオンは落ち込むエリンを横目に見て、ふっと笑った。
「他人の痛みに共感して、寄り添えるのも、弱さを知っているから。
それってエルフらしいし、十分、長所でしょ?」
リオンの言葉に、エリンの瞳がわずかに揺れる。
「だから、いつまでも落ち込んでないで。
愛のない行為に傷ついたんでしょ?
…傷つけたなら悪かったけど、オレに頼るならちゃんと割り切ってくれる?
あのまま無意味に死ぬよりは、ずっとマシな選択だったと思うけど」
そう言いながら、リオンはエリンの頭を軽く指先で弾いた。
「取り繕った強がりも、続けて本当に自分のものにできるならそれもアリだけど
……でも今は、“助けてほしい”でいいじゃん。」
エリンは小さく息を呑み、リオンを見上げた。
その視線には、戸惑いと、それ以上に感謝が滲んでいた。
リオンは肩をすくめると、軽口を叩くように続ける。
「まぁ、魔力を与えた対価はもらうからね。
持ち直したら、エリンの血液ちょうだい?」
「……え?」
エリンが驚いたように瞬きをする。
「精霊王の血を引いた子供の体液って質がいいから、魔素の濃度高いし、落ち着くんだよね。ミアの涙みたい。」
リオンは悪戯っぽく笑った。
けれどその笑みに、どこか影がほんのり滲む。
「オレさ、悪魔とエルフの混血でしょ。
悪魔に寄りすぎると……父親みたいになっちゃうかもしれないし。
エルフに寄りすぎると、精神バランス崩して生きられないかもしれないし。」
リオンの言葉に、エリンは静かに目を見開いた。
リオンはそれ以上は語らず、ふっと息を吐いた。
「だからさ、オレもお前の血が必要なの。
生きるためにね。」
淡々と、冗談のように。
けれどその裏に隠された現実の重さは、エリンの胸を静かに打った。
「──ね、助け合ってるでしょ?」
リオンはそう締めくくると、軽くエリンの頭をぽんと叩いた。
「気にすることないってわかったら、早く寝て。
明日からまた保護者、頑張りなよ。」
エリンは俯きながら、小さく微笑んだ。
ベッドに沈むエリンの目元が、かすかに揺れる。
「……リオンには、感謝してもしきれないよ。
こんなこと言うと、君は嫌がるかもしれないけど──」
そこでふと、言葉が詰まった。
彼の口元がわずかに震え、何かを言いかけたように見えたが、結局は小さく笑ってごまかした。
その笑みには、どこか“あきらめ”にも似た温度があった。
照れたような、けれど真剣な声で続ける。
「でも……憧れてるんだ。
目的があって、行動力があって、自由で、力強い君に。
僕は、少しでも追いつきたい。
人を……救えるようになりたい。」
その言葉に、リオンは一瞬だけ目を細めた。
そして、くすくすと笑う。
「大袈裟〜。悪魔相手によくそんなこと思えるね。
エリンってロマンチストだよね、無駄に真面目で重いし、エルフっぽい。
──でも、見てて飽きないよ。」
エリンは苦笑いしながら、赤らめた頬を隠すようにベッドに身を沈めた。
リオンは立ち上がり、手を軽く振る。
「じゃ、またあとで。もう添い寝してなんて言わないでしょ?」
くすりと笑うと、リオンは背を向け、ドアへと向かう。
その背中に、エリンが小さく声をかけた。
「……もう、そんな子供じゃないよ。
大丈夫。」
リオンは振り返らず、片手を軽く上げて答える。
「はいはい。
おやすみ、エリン。
また来るから、ちゃんと寝て持ち直してね。」
そして──
エリンの視線から隠れるように、ドアを開けて廊下に出たその瞬間。
リオンの表情から、すっと笑みが消えた。
ほんの一瞬だけ、
疲れたような、静かな真顔。
けれど、すぐにまた薄く、形だけの笑みを浮かべる。
そのまま、夜の廊下へと姿を消していった。
──リオンの足音が遠ざかる。
そして、エリンは小さく、ゆっくり息を吐いた。
「……あの頃、僕は……なにを、求めていたんだろう」
自分でも気づかないまま、縋っていた。
頼れる場所が、心を預ける場所が、そこにしかなかった。
──『リオンのことも僕は家族のように大切に思ってるよ、
だから……僕を置いていかないで。』
寂しさなのか、憧れなのか、それとも……もっと別のなにかだったのか。
けれど今は、形を変えて消えたそれを名前にする必要なんて、もう──ない。
────────────────────────
薄い毛布に包まれて、部屋に一人取り残されたエリンの身体はまだ火照りを残している。
少しずつ、薄れてきている『誘惑』の魔法の効果がまだ残っていた。
心臓だけが、喉の奥で、ばくばくと音を立てている。
──どうして、あんなことになったんだろう。
頭ではわかっている。
魔法だった。
必要だった。
命を繋ぐため、仕方なかった。
急速な魔力の枯渇は命に関わるから。
このままじゃ『結界』を維持できないから。
また、家族を守れないから──。
仕方ない。
それがきっと最善だった。
僕はリオンに救ってもらった、ヒナを守る為に。
それでも、
エリンの奥底には、
ひどく、浅ましい熱が残っていた。
嫌だ…一人でいると…心が…不安定になる。
身体が、いうことを聞かなくなる…。
リオンの指先。
リオンの声。
リオンの、あの冷たい瞳。
──もう、いいよ。
──さっさと、済ませて。
まるで、自分を──
使い捨ての道具のように扱う、その言葉。
ふとした拍子にリオンは突然、冷たくなる。
悪魔の『自己暗示』の魔法だけ、じゃない
縋ろうとすると、一線を引かれる時が昔からあった
なのに。
エリンの心は、どこかで、その冷たさすら、
自分に都合よく、温もりに変えようとしていた。
魔力の強い悪魔種は欲のコントロールが自在だし
自慰なんて、他者に関わったら搾取されるだけの弱い悪魔が隠れて行う恥ずべき欲の発散行為だという価値観の文化なのだから、
きっとエルフの精神の乱れや現実逃避なんて理解できない…
そんなの、わかってる。
自分でだって、気持ち悪くて仕方ない。
羞恥と罪悪感、そしてぼんやりとした熱に支配されながら
──自分が崩れていく感覚がした。
現実逃避の背徳的な快感の波が、静かに引いていく。
その刹那
リオンがかけた『誘惑』の魔法が、
まるで身体に染み込んでいた 悪魔の毒 のように、
ゆっくりとエリンの身体から抜け落ちていった。
魔力の余韻が空気に溶け、
熱を帯びていた肌から、冷たさが戻る。
まるで現実に引き戻されるように
徐々に正気に戻っていく。
それは、“現実”という名の毒が戻ってくる合図だった。
その瞬間──視界がぐらりと歪んだ
「……っ、く……」
頭が割れそうに痛い。
呼吸が浅くなり、胸が締め付けられる。
喉の奥が焼け、胃が捻じれるような不快感。
苦悶の中、こらえきれず、
エリンはベッドの脇に身を乗り出すと、
震える手で口を押さえ──
そのまま、床に嘔吐した。
「……っ、ぁ……っ……ぅ゛……」
喉を焼くような吐き気に、
エリンは肩を震わせながら、荒く息を吐く。
むせるように咳き込み、
「はぁ、……はっ……」と必死に呼吸を整えようとするが、
酸素が肺に届かない感覚に、さらに目が眩む。
不安と吐き気が収まらない。
激しい頭痛に、意識すら曖昧になっていく
どれだけ魔法を磨いても、
どれだけ強くなろうと足掻いても──
(……僕は、何も変われていない)
内面が、弱いままなんだ、まだ。
過去も、喪失も、罪も──
その不安や痛みは全て、自分の弱さのせいだ。
(家族を…守りたかった、のに……)
悪魔の城で、奴隷として生まれて過ごした日々の重みが背中を押し潰す。
唯一残された家族、妹ミアを失った日の罪の記憶がよみがえる。
僕は…守られていた、置いていかないで欲しかった
僕も、君の役に立ちたかった
弱いだけの、守られるだけの自分が嫌だった、のに
守られている実感が…心地よかった…
感情がぐちゃぐちゃになって、泣き縋り
突き放されては、
依存している自分の弱さを自覚した
そんな、幼い日の記憶──。
縋るように、助けを求めるように
震える手で、棚から取り出した小瓶。
そこには、ミアを捜索していたリオンから送られてきていた最後の精神安定剤が入っていた。
半透明な青い海のような液体に、淡い光が差す。
ミアの涙──
精霊王の血を引く特異体質の彼女にしか作れない、
貴重な癒しの涙の薬。
(……最後のひとつだ)
エリンは、それを一気に飲み干す。
舌の上に広がる、優しい甘さ。
まるで、ミアが罪を赦すように そっと頭を撫でてくれたような…
そんな錯覚すら覚えるような安らぎが心を満たしていく──
少しだけ、痛みが和らいだ気がした。
【小説36話:忠犬の微笑み、眷属の誓い】
──深夜、ノアの家。
玄関の扉が静かに開く音に、ベッドの上で丸くなっていたノアの獣耳がぴくりと跳ねた。
すぐに目をぱちりと開くと、パジャマ姿のままぱたぱたと尻尾を振りながら、玄関へ小走りに向かう。
「リオくん、おかえりっ!」
ぱっと抱きつく勢いで飛びついたノアを、リオンは片手で軽く受け止めた。
「また居なくなっちゃったから、しばらく会えないのかと思ったよ〜。」
「そんなわけないでしょ。」
リオンは片手でノアの頭をぐしゃりと撫でる。
「狐たちに任せたとはいえ、せっかく見つけたミアを置いて遠くまでは行かないよ。」
ノアはその言葉に、ほっと息をつく。
嬉しそうに目を輝かせるノアに、リオンはくすりと笑った。
ノアはリオンに抱きついたまま、クンクンと匂いを嗅ぐ。
知らないシャンプーの香りがする。
「どこ行ってたの?」
「エリンのとこ。」
あっさりと答えながら、リオンはノアから離れ、上着を脱ぎ室内に上がる。
「……あいつ、絶滅したって言われてる天使の生き残りを飼ってたんだよ。」
「天使……!」
ノアの目がまん丸になる。
「すごい……今も生き残りっているんだ……!
ねぇねぇ、どんな子だった?」
ノアはリオンの後を小動物のようにぴったりくっついて歩きながら、首を傾げる。
「──新しい“お気に入り”になっちゃったりする?」
リオンは肩越しにちらりとノアを見て、皮肉めいた笑みを浮かべた。
「さぁ。臆病で気弱そうだったけど。」
「うぅ〜……天使なんて珍しい子だし……リオくん、いっぱい知りたいことあるんでしょ…?
夢中になって おれのこと、忘れちゃったりしないよね……?」
尻尾をしょんぼりと垂らすノアに、リオンはくすりと笑って、頭をぽんぽんと軽く撫でた。
「天使の力があれば、ミアが目を覚ますかもしれない。
──だから成長は急がせたいけどね。」
「……ミアの命が尽きる前に、できるだけ早く。」
リオンはぽつりと呟き、ひらりと振り返った。
その言葉に、ノアはぐいっとリオンの袖を掴んだ。
「……またどっか行っちゃうの……?」
不安そうな声。
「おれも、ミアちゃんの捜索とお世話とか……狐さんの案内とか……いっぱい頑張ったんだよ。
だから──
ご褒美ほしいな〜……!」
ノアはぱっと顔を上げ、ぱたぱたと尻尾を振りながら、潤んだ瞳で甘えるように見上げる。
リオンは、わざとらしくため息を吐いた。
「……何が欲しいの?」
「……えへへ、いいの〜?♡」
ノアは頬を赤らめながら、もじもじと恥ずかしそうにする。
リオンは片眉を上げ、ふっと口角を上げる。
「構われたいんでしょ?発情期、まだ先じゃなかったっけ?」
「…う〜…もうちょっと先。
え〜っと…半年に1回だから…まだ大丈夫!でもぉ…ごほうび…。
…ぎゅってして一緒に寝て欲しいのと、それからえっと……。
……だめ?」
ノアが不安げに見上げると、リオンは肩をすくめた。
「別にいいけど──」
リオンは、ふっと悪戯っぽく笑う。
「えっ!?いいのっ!?ほんとっ!?」
ぱぁっと顔を輝かせるノア。
「代わりにノアの血液、ちょうだい。」
「もちろんっ! リオくんのためなら何でもするし──
おれの血液は、命の恩人のリオくんのためにあるんだもん♡」
かつて悪魔の城で命を救われた、あの日からずっと。
ノアはきらきらとした瞳でリオンを見上げ、無邪気に笑った。
「……ほんと、素直になったね。
拾った時は悪魔になんて従わない、とか言ってなかったっけ?」
リオンは肩をすくめると、寝室へと歩き出す。
ノアも「えへへ…そうだっけ〜…?」と誤魔化すように照れ笑いをして嬉しそうに、ぱたぱたと後を追いかけた。
──
寝室に入り、ノアは着ていた羽織りを脱ぎ、ベッドへと飛び乗る。
ふわりとした薄手のネグリジェのようなパジャマ越しに、月明かりが差し込んだ鏡へ
ノアの背中に浮かび上がる、痣のような淡い印が映り込んだ。
獣人であるノアは、魔力を使い、少年のような中性的な姿から、より女性的な身体へと変化していた。
獣人種は変身で大きく特徴を変える場合は魔力を消耗するが
今夜は、魔力を体内に長く留めるための準備だった。
リオンはベッドに腰を下ろし、抱きついてきたノアの背中にそっと指を這わせる。
服越しに、刻まれた紋様をなぞる──
それは、小さなライオンと悪魔の羽根をかたどった、ハート型に似た印。
中央にはかすかに残る噛み跡の痕。
リオンは眷属印を確かめながら、ぼそりと呟いた。
「……眷属印って、便利だよね。」
指先でノアの肩甲骨付近をなぞると──
「互いが得られる魔力も上がるし」
そのまま、指がノアの腰へと滑り──
リオンは軽く抱き寄せる。
「……ちょっとくらいなら、離れてても位置もわかる。」
囁くように言いながら、リオンはノアの首筋へと顔を寄せ、
血管の上を、ぬるりと舌でなぞった。
ノアはびくりと震え、くすぐったそうに小さく喘ぐ。
「えへへ……っ」
嬉しそうにくすくすと笑いながら、ノアはリオンに身体を預けた。
「……それだけじゃないもん〜!
リオくんの“モノ”だって思えるから──
……すっごく、自慢なんだよっ♡」
リオンは小さく笑うと、ノアの頭を軽く撫でた。
「見せびらかすもんじゃないけどね。」
「うんっ……! でも、おれ、リオくんのモノって思えるだけで自信がつくっていうか…リオくんに飼われてるみたいで…♡
そばにいられることが、すごく嬉しいんだ。
見捨てないよって証の…首輪みたい!」
ノアはぱたぱたと尻尾を振り、えへへと照れ笑いする。
リオンはそんなノアを見つめながら、静かに目を細めた。
──────────────
(──混血種として持って生まれた“潜在能力”。)
ノアはリオンの魔力を注がれたことで、魔力が体内に留まっている間はリオンの感情を読む能力が覚醒した。
喜怒哀楽程度の感知で思考が読めるものではないが、第六感みたいなもの。
ノアの力は戦闘向きのものではないが、もしかしたら強化することが出来るかもしれない。
(──オレ自身は、まだ……。
覚醒条件が曖昧で、まだ掴めない)
そして、夜白と白夜─狐獣人と悪魔の混血種。
せっかく他の混血種とも出会えたんだから、利用しない手はない。
比較対象として覚醒条件の検証をしてもいいし、
上手く懐かせて混血種としての能力を覚醒させたら、
眷属契約を結べば従者として役立ってくれるだろう。
(力が、欲しい。)
(知識も、経験も、全部。
手に入れて──いずれ、自分を取り巻くすべてを“選べる側”に立つために。)
リオンは静かに、ノアの背中の小さな紋様に指を伸ばした。
月明かりの下、その指先がふれるたびに──
わずかに刻まれた眷属印が、命を宿したように微かに光を返していた。
【小説37話:言い訳】
翌朝、ヒナが目を覚ますと、主人はすでにリビングにいた。
エリンは朝の光の中で、机に向かって一通の手紙を読んでいた。
封筒の表には、「先生へ」と、丸く丁寧な字で書かれている。
(ご主人は、子供たちに魔法を教えてるんだ……やっぱりすごい人なんだな……)
ヒナは、ちょっとだけ背筋を伸ばすような気持ちで声をかけた。
「ご主人、おはようございます。」
「…おはよう、ヒナ。
どうしたの?こんな朝早くに。」
ヒナは少し申し訳なさそうに俯きながら言った。
「あの…今日は気分転換したくて。
流れ星を見たあの湖に行ってきます。」
エリンはその言葉に、少し眉をひそめる。
「1人で?危ないよ、僕も一緒に行くよ。」
予想通りの反応に、ヒナは内心で焦りながらも、なんとか説得しようと勇気を振り絞った。
「その…実は、普段お世話になっているご主人にサプライズを用意したいんです。」
「サプライズ?」
「はい。それで、できれば1人で準備したいんです。ご主人を驚かせたいので…。」
エリンは少し考え込むような表情を見せたが、すぐに心配そうな声を上げた。
「でも、1人で外に出るのはやっぱり危険だよ。もし何かあったら…。」
ヒナは主人の心配を和らげるために、あらかじめ用意していた案を口にする。
「あの…もし何か危険を感じたら、ご主人に必ず伝わるようにします。紅茶のカップにまじないをかけていきますから…ダメでしょうか?」
その言葉に、エリンは驚いたようにヒナを見つめた。普段控えめなヒナが、ここまで強い意志を見せるのは珍しいことだった。エリンは少しだけため息をつき、目を閉じて考え込む。
「ヒナ…」
「ご主人、僕が1人で行くことを許してくれませんか?どうしても…。」
エリンはしばらくの沈黙の後、渋々という様子でうなずいた。
「…わかったよ。でも、本当に何かあったらすぐに知らせてね。」
「ありがとうございます、必ずそうします!」
許可を得たヒナは、急いで出かける準備を整えた。そして、紅茶のカップに小さな魔法のまじないをかけると、エリンに渡した。
「これで、何かあればすぐに伝わります。安心してください。」
エリンはそのカップをじっと見つめ、最後にもう一度だけ心配そうにヒナを見た。
「気をつけてね、ヒナ。」
「はい!行ってきます!」
ヒナは一礼して、少し緊張しながらも湖に向かって走り出した。その背中を見送りながら、エリンは胸の奥に微かな不安を抱えていた。
小説38話: 湖での再会
ヒナが湖に到着すると、木陰に寄りかかるようにして目を閉じているリオンの姿が見えた。彼は静かに眠っているようで、その佇まいにはどこか高貴で儚げな印象があった。
遠目から見ても、その美しい容姿からは悪魔の片鱗など微塵も感じられない。むしろ、どこかエルフのような雰囲気さえ漂わせている。その姿を見たヒナは、思わず足を止めてしまった。
ぱちり、とリオンが目を開き、木陰から体を起こすと、手をひらりと振りながら眠そうな声で話しかけてきた。
「あぁ…ヒナくん、思ったより早かったね」
その軽い口調に、ヒナは少し気まずそうにしながらも挨拶を返した。
「おはようございます…。まさか、ボクをずっと待っててくれたんですか…?」
リオンはヒナの言葉におかしそうに笑いながら首を横に振る。
「まさか。昨日はちゃんと夜遊びして帰ったし、朝ヒナくんが結界の外に出た気配を感じてさっき来たばかりだよ」
「夜遊び…?」ヒナは自然と首をかしげながらつぶやいた。リオンさんっていつ眠ってるんだろう…
そんなヒナの心中を見透かしているかのように、リオンは悪戯っぽい笑みを浮かべながら、自分の首元に複数ついた赤い痕を見せつけるようにトントンと指で叩いた。
「羽根なし天使くんには、わかんないか。
ヒナくんは過保護の慈悲深いご主人様に魔力、もらえた?」
からかうような言葉に、ヒナはその意味をすぐに理解し、顔を真っ赤にしてしまう。恥ずかしさを誤魔化すように、思わず勢いで言い返した。
「もらってませんよ…!
…リオンさんは恋人がいるんですね、羨ましいです。」
ちっとも羨ましそうではない口調だったが、それがヒナなりの精一杯の仕返しだった。しかし、リオンはあっけらかんとした様子で返事をする。
「は?…恋人?
魔力のやり取りするのに必要な手段とっただけ。
一般的に悪魔は愛なんてものより魔力や快楽重視で搾取するんだよ。」
その言葉を聞いた瞬間、ヒナの顔はさらに赤く染まる。
リオンはそんなヒナの反応を楽しむかのように笑い続けた。
「だから魔族ってめちゃくちゃ数が多い。ヒナくんも悪い魔族に攫われないように強くなりなよ?」
リオンが悪戯な笑みを浮かべながら楽しそうに話していると、ヒナはふとあることを思い出した。
そして、思わず口を開く。
「…そういえば、ご主人から聞きました。昔、リオンさんに助けてもらったって。」
その言葉を聞いたリオンは一瞬だけ動きを止めた。
そして、薄く笑いながら、意味深な視線をヒナに向ける。
「ふぅん…。エリンがそんな話、ヒナくんにしたんだ、意外だね。」
リオンの笑みの奥に、何かを探るような光が見え隠れしていた。
小説39話: 揺れる心
「でも助けたなんて人聞き悪い」
リオンは軽い口調で言い放った。その言葉には、悪戯好きの笑みが添えられている。
「ただ弱ったエルフの血を啜って、部屋に持ち帰って譲渡しただけなのに。まだそんな事覚えてるんだ、あいつ。」
ヒナの心に不穏なざわめきが広がる。
そのリオンの言葉が冗談では済まない何かを含んでいる気がしてならなかった。
今までのリオンの言動を思い返すたびに、胸の奥がザワザワと騒ぎ立てる。
「…えっと…それって…その…ご主人と…?」
緊張に耐え切れず、ヒナは震える声で言葉を絞り出した。
リオンは一瞬だけ驚いたように目を見開いたが、すぐに肩をすくめて、軽く笑った。
「そ、血でもらった魔力を精液で返してあげたの。
エルフは相性悪くて、血液からうまく魔力摂取できないしね。」
ヒナの頭の中が真っ白になる。
その様子を見たリオンがわざと追い討ちをかけるように言葉を続けた。
「そんなに感謝してくれてるなら、もっと抱いてあげても良かったかもね〜
混血種の体液って魔素が豊富に含まれてるから一滴の価値が他より高いんだってさ。」
リオンの言葉はどこまでも軽い。けれど、その軽さがヒナの胸にぐさりと突き刺さる。
「まあエリンがめちゃくちゃ小さい子供の時の話だよ。もうずぅっと昔の話。」
リオンはそう言って、目を細めて思い出すように呟いた。
「もうあんまり覚えてないな…。」
そして、ヒナを試すような視線でじっと見つめる。
その目には悪戯な光が宿っていたが、どこか計算高い冷静さも見え隠れしていた。
ヒナはその視線をまともに受け止められなかった。
心の中にぽっかりと穴が空いたような感覚に襲われる。
(ご主人にとってリオンさんは大切な人だって言ってた…。恩人だって。)
それってどういう意味だったんだろう。ヒナの頭の中で疑問がぐるぐると回る。
(特別な意味で好きだった…?)
そうじゃなかったとしても…。
ヒナの胸が締め付けられるような感覚に襲われる。
抑えきれない感情が溢れ、気づけば一筋の涙が頬を伝っていた。
リオンはその涙を目にすると、一瞬だけ表情を曇らせたように見えたが、すぐに柔らかな笑みを浮かべた。
「泣かないでよ、ヒナくん。
たかが数回の肉体関係より、エリンの命が助かったことの方が重要じゃない?
…それに君が想像してるような感情はオレ達の間には無いんだし。だから…」
「そんなにエリンが好きだったら、
なおさら今、ヒナがエリンと関係を作るべきじゃない?
エリンのこと、助けたいよね?繋ぎ止めたいんでしょ?」
何を考えているかわからない目の前の悪魔がヒナに囁き、くすっと笑った
小説40話:導き
ヒナは覚悟を決めたような表情でリオンに向き直り、まっすぐ目を見つめながら言葉を口にした。
「ボクはご主人にずっと守られてきました。自分の無知と、守られるだけの頼りない自分の弱さに気づいて、正直ガッカリしました…。
でも…守られるばかりじゃなくて、ご主人のために少しでも役に立ちたいんです。」
その言葉を聞いたリオンは、ほんの一瞬だけ目を細めた後、満足そうに微笑み「いいね」と短く言った。
ヒナは言葉を続ける。
「だから…自分の身は自分で守れるようになりたいし、覚醒も…方法が難しいかもしれないけど、できたらいいな…と思っています。」
だが、その言葉を口にしながら、魔力の譲渡方法を思い出したヒナの顔は真っ赤になり、視線が自然と床に落ちた。
「ボクはご主人のことが大好きです。でも、ご主人はボクのことをきっと、か弱い子供としか思っていないんだと思います…。
大切にしてくれて、守ってくれて…。
だけど…ご主人がボクを…その…。性的な目で見るなんてことは、きっと無いと思うんです。」
ヒナの声は段々と小さくなり、最後はほとんど消え入るような音になった。
顔を伏せるヒナの姿を見ながら、リオンは口元に手をやり、くつくつと笑いをこぼす。
「だから……ご主人がボクの覚醒に賛成してくれるとは思えません。」
ヒナがそう言い終わると、リオンの笑いがピタリと止んだ。そして、真剣な声で言った。
「まぁ、そんな悠長なことも言ってられなくなると思うけどね。」
「え…?」ヒナが顔を上げる。
「ついてきて。」
リオンはそう言うと、黒い羽根を大きく広げ、バサッと音を立てた。ヒナに向かって手を差し出し、挑発するような笑みを浮かべる。
「君が覚醒したいっていうなら、まずはその足を動かして行動しなきゃ。
頭の中で考えてるだけじゃ、何も変わらないでしょ?」
ヒナは一瞬躊躇したが、覚悟を決めたようにリオンの手を握った。
昨夜とは違い真っ黒だった羽根の色は、わずかに血の色のように紅く染まっていた。
悪魔の羽根を広げ再び羽ばたく音と共に、二人は宙に舞い上がった。
小説41話:提案
ヒナはリオンに導かれ、目の前に立つ真っ白で無機質な建物を見上げた。
どこか異様な雰囲気を纏うその建物に足を踏み入れると、中は冷たく静まり返り、外の世界から切り離されたような感覚に包まれた。
普段は人をからかい、軽口を叩いて笑っているリオンが、先ほどから不気味なほど真剣で口を開かない。
その様子にヒナは緊張しながらも、彼の後をついていった。
奥の扉を開けた瞬間、ヒナの視線はベッドに横たわる少女に吸い寄せられた。
彼女は痩せ細り、青白い肌は今にも消え入りそうで、呼吸もかすかに感じられる程度。
その姿にヒナは驚きと悲しみを覚えた。
「この子は…?」ヒナが声を震わせる。
リオンは彼女を見つめながら、低く静かな声で言った。
「やっと…見つけたんだ。エリンと共にずっと探してきた。エリンの妹だよ。」
「…ご主人様の…、妹さん…」ヒナの声がかすれる。
「魔力を枯れるまで使われて衰弱し切ってる。拒むように結界に閉じこもって意識がない。
エルフの生命力の強さで、かろうじて生きてはいるけど、このままだと結界 張ってる分 魔力を消耗していくから、そんなに長く生きられないだろうね。」
リオンは一瞬目を閉じ、深く息を吐くと続けた。
「オレが見つけた時はもっと悲惨な姿だった、あの状態じゃエリンには見せられない」
ヒナはショックで言葉を失い、視線を少女に釘付けにしたまま、瞳に涙を溜めていた。
「意識がないし特殊な結界が張ってあって、魔力の譲渡もうまくいかない。
治癒魔法はどの種族も多少の差はあれど傷を治せる程度のものだ、表面的な見た目を整えるくらいの治療しかできない。
魔力の枯渇で衰弱した彼女にオレやエリンができることなんて、もうない。
ただ彼女が息絶えるその時まで寄り添うくらいしか、ね。」
リオンの顔にほんの一瞬、悔しそうな怒りが滲んだように見えた
「見つけ出すのが遅すぎたんだ。」
ヒナの頬に涙が一筋流れる。
リオンは視線を少女から外し、遠くを見つめるように語り出した。
「…エリンからは ずっと手紙をもらってたんだよね、
妹の手がかりを探してオレたちは協力関係だったけど、オレが返事を書くことはほとんどなかった。
少しでも早く見つけることが最優先だったから。」
ヒナはリオンの言葉を静かに聞きながら、エリンが抱えていた重荷の一端を感じていた。
「それが、ある時からエリンの手紙に君の話が出てくるようになったんだ。君の存在に癒されてたみたいだね。」
リオンはヒナに視線を向け、少し表情を緩めた。
「最初は、君の存在が現実逃避の産物だと思ったよ。でも、違和感があった。」
「エリンはなんで自分の家に結界を張ってたのか。
手紙には結界のことなんて一言も書かれてなかったけど、実際に張られてたんだ。ずっとね。
普通、エルフの結界は1人じゃせいぜい小さい範囲に展開できる程度だ。
けどエリンは魔力が特別強いから、屋敷を囲うくらいの結界を張れる。魔力の自然回復も早すぎる。正直化け物だね、あれは。」
リオンの言葉にヒナは胸が苦しくなった。
「でもそんなエリンだって、1日中 結界を張れば魔力の消耗は相当でかいはずだ。そこまでするか?普通。」
リオンはヒナの目をじっと見つめ、少し声を低くした。
「魔力の消耗を顧みず、守ってたのが“天使”だったわけだ。自分や妹のような奴隷の被害者を、もう出したくなかったんだろうね」
ヒナはその言葉を胸に刻むように聞いていた。
「天使が側にいるだけで魔力の自然回復量が上がる。天使は愛するものに対してだけ無意識にそれを施すんだ。
でも天使を飼ってたなんて、これほど都合がいいことはない。奇跡だと思ったよ。」
リオンは少し言葉を区切り、息を吐いた後、ヒナに向き直った。
「頼みたいことがある。」
リオンの真剣な表情を前に、ヒナは息を飲む。
「これだけ種明かししたんだ、もうわかるよね?協力して欲しい。できるなら一刻も早く覚醒してエリンの妹を助けて欲しい。」
ヒナはエリンの妹を見つめ、涙を拭いながら頷いた。
「…ボクにできることがあるなら、全力でやります。」
その言葉を聞いたリオンの口元に、満足そうな笑みが浮かぶ。
「いい答えだね、ヒナくん。じゃあ、覚悟を見せてもらおうか。」
その場に漂う張り詰めた空気の中、ヒナは新たな決意を胸に抱き始めていた。
何回か書き直ししてます。
私は別に穏やかな日々で2人が何らかの形で距離が縮まればいいと思っていたのだが、
急にストーリーとして始まっていくこととなるとは…この時は思いもしなかった〜
某キャラの初期陽気っぷりが「子供に対する態度」として、
自身の過去からくる人の影響を受けている、という裏話あった気がする