scean7 封印の水瓶
息が荒くなる。フィオナは扉の前に積み上げた家具に背を預け、膝を抱えると、声を押し殺し、涙を零した。転がる氷の粒の音で、より悲しみが増した。
『嘆くな娘よ……その力こそは……天賦の才なり……』
――低い声がした。フィオナは驚き、面を上げると、辺りを見回す。誰もいない部屋。
「……誰?」
『我こそは覇王……そなたと同じく……力持てる者』
フィオナはゆっくり立ち上がり、肩を竦めながら、この声がいずこから聞こえてくるのか、ようく確かめた。壁際に据えた木製の棚が微かだが揺れていることに気付く。棚の中にある物を一つずつ床に移動する。
一番奥には、水瓶があった。
ひと抱えほどもある、大きなもの。蓋をされ、それも複雑に編んだ紐でしっかりと固定されている。表面は全て、クロムが用いるようなルーンにて覆い尽くされて、口のすぐ下が細くすぼまって、左右対称に取っ手を備えた漆黒の器。古びて血の色のようにも見える紅の紐は、禍々しさすら感じさせるもの。
『堂々と誇れ……力は鎖を……千切る為のもの……』
声は水瓶の中から聞こえる。何故だかフィオナはその声に惹かれ、言葉を返した。
「……私は逆。この力のせいで縛られるの」
『それならば我が鎖を千切ろう……代わりにそなたは我を解き放て……忌々しきこの細糸のせいで……我はこの中で身動きが取れぬ』
触れてはいけない物だと感じて、けれどもフィオナは、震えるその手を水瓶に伸ばす。紅の紐に指先が触れる。ささくれたような感触が嫌で、さっと手を引いた。
『どうした娘よ……自由の翼を得られる好機ぞ……』
水瓶の声は蠱惑的だった。
けれどもフィオナの中では恐れの方が競り勝った。これは絶対に良くないものだと、魅了されつつも理解はしていた。堅く目を瞑り、床に移動した荷物を戻して、水瓶を隠す。
クロムが扉を激しく叩いて、その音がやけに大きく聞こえる。
「大丈夫だフィオナ、いつか外に出れる。その日までは僕が君を守る。分かってくれ……」
その言葉を聞き、フィオナは顔面蒼白になった。魔女裁判での拷問の間、教会の納屋に監禁状態であった記憶を思い出していた――その時神父が、かけた言葉まで。
『これは必要なことなんだ、フィオナ。君の潔白を証明するため、君を守るため……分かってくれるね』
湧き上がってくる静かな怒りと、煮えたぎる嘆き。
「守るですって……?」
フィオナは再び棚に目を向ける。荷物をかき分け、水瓶に触れる。
「火炙りになることに怯えて、閉じ込められて……そんなの生きていると言えるの?」
紐を解いていく、震える指先。目を固く閉じて、蓋を持ち上げる。
恐る恐る目を開けていくフィオナ。
暗い水瓶の中に見えたのは、両手のひらでも持て余しそうな巨大な眼球。
フィオナは悲鳴をあげて、水瓶を床に取り落とす。派手な音を立て、粉々に割れる。
辺りに散る水。
転がる目玉の黒い瞳孔は、光を放っているように見える。
黒い光――とは奇怪なことだが――他に形容のしようがなかった。
――目玉の視線がフィオナの目と合い、光が少女の目の中に入る――
「フィオナ!」
クロムが魔術で、家具ごと扉を破壊して、部屋の中に入り込む。室内は暗い――光源がどうということではない。部屋の全体が変色しており、墨をぶちまけたように黒かった。床に広がった水は凍りつき、一部が水晶のような結晶に変化していた。その結晶すら禍々しい黒――。
「……封印が……解けている」
フィオナは左の目を押さえながら、息を荒くして倒れ伏していた。その顔は赤く、熱があるようだ。
クロムはフィオナの手をそっとどかし、閉じた左目の瞼を開いた。白目を含んだ全体が黒く、瞳孔の奥は赤色に光る。
「君は……バロールに取り憑かれたのか」
◆◇◆
一夜が明けた。黒く変色したその部屋は、黒いフードのローブによって、顔を隠した者達により、仔細に調べ上げられていた。クロムらはもう部屋をあとにし、影も形も残っていない。
「ゲルトルート様、確かにこれらは高度な魔術か神秘によるものだと思われます。しかし我々が探知した程の魔力を保持するものはありません。持ち出されたかと……」
ゲルトルートと呼ばれた男――他の者とは身なりが違う。ローブは金の刺繍が飾り、手指は光る宝飾品が彩っている。灰色の髪、痩せ気味の頬。猛禽じみた鋭い目付き。齢五十を越えて見えるが、にやりと笑う表情はまだ衰えなどを感じさせない。
「ご苦労だった。……クロム、逃げても無駄なことだよ。私は君を手放しはせぬ」