scean40 忘れたゲルトルート
◆◇◆
「悪いが人手は足りているのだよ」
光の射さぬ石壁の部屋。陰気な声がやけに響いた。黒いローブに灰色の髪――ゲルトルートだ。部屋の中にはゲルトルートとヴァイスの二人。この工房は貴族の屋敷――その地下室を利用しており、ゲルトルートが貴族から目をかけられているのは明白だ。
室内はよく整頓されて、戸付きの棚は全て堅固な錠前により閉ざされている。
それに比べて、部屋の扉に備えた鍵は簡素なもので、鍵穴一つ。
扉の外で息を潜めて、フィオナは鍵の穴から中を窺っていた。
「貴方ほど地位の高い魔術師ならば、研究以外の所用も多いとお聞きしています」
「そう、だからこそ徒弟も多く仕えていてね。間に合っている」
「まぁそうですよね……あの、よろしければ他の魔術師に紹介状とか書いてもらえます? 例えば貴方が推挙したという達人、クロムに」
ゲルトルートは片眉を上げ、怪訝な顔でヴァイスに言った。
「誰だねそれは。その名は聞いた覚えがないな。ところで――そこにいるのは誰だ?」
ゲルトルートがその指先で虚空に何か記号を描く。すると扉が勝手に開き、支えが消えたフィオナが倒れ、かなり大きな音が響いた。
「君の連れかね? まさか世俗の者をこの場に引き入れたのか?」
「まさか。彼女は徒弟で、俺の付き添いですよ」
ゲルトルートはフィオナの顔を一瞥すると、興味が失せたように右手で扉を指した。
「お帰り願おう。これでも私は忙しいのでね」
◆◇◆
空はどんより雲に覆われ、今にも雪が振り出しそうな気配であった。街路を歩くフィオナの足は重そうであり、その表情は沈鬱だった。
「あの人、私を研究素材にしたがってたのに……表情をまるで変えませんでした」
ヴァイスの方は、元々あまり期待をせずにいたため、軽くフィオナに言った。
「やっぱり夢でも見てたんじゃないか?」
「そんな事ありません!」
フィオナが普段出さないような大きな声で叫んだために、ヴァイスは少し気圧され、怯む。
「なんなのよ、この仕打ち……恩人のためだって頑張ってましたけど、私だけ必死なの馬鹿みたい! 皆から可哀想な人だと思われて……なぜこんな扱いを受けないといけないの?」
「お、落ち着けフィオナ」
「この助け方、独りよがりに思えませんか? クロムは恩を売った側だし、いい気分かもしれませんけど、私の気持ち無視してません?」
フィオナの顔の表情が消え、右親指の爪を前歯でかじり始める。
「『僕が彼女に負わせたものは計り知れない』? 余計に重いものを負わせて、何を言うのよ……うふふ、そうだわ、絶対助け出して毎日責め苦を言っていびり倒して精神的に追い詰めてやる……助けた事を悔やむくらいに」
「なあおい、ちょっと顔が怖いぞ……?」
その時、ふっと周囲が少し明るくなったような気がした。フィオナが顔を上げると、雲の切れ間から日が少し射し込み、街路を照らし出すのが見えた。
そこには、走るモニカとリズが手を振りながら近づいてくる姿が見えた。
「二人とも、手がかりを見つけたよ!」
「ほ……本当ですか!」