日曜日の女装
日曜日の昼下がり。
俺は《あたし》に変身する。
利用者のいない公園のトイレで金髪ロングのウィッグをかぶり、パッド入りのブラを胸につける。憧れのセーラー服に袖を通して、ギャルっぽい厚めの化粧を施したら、準備完了。その足で繫華街へとくりだした。
「今日はなにをしようかな」
って、駅前をぶらついていたら、
「ちょっといいかな、そこのお嬢さん」
と、背後から声をかけられた。
振り返ると、そこにはスーツ姿の男性が立っている。
黒縁の眼鏡をかけて、歳の頃は四十歳くらい。
一目見た瞬間、ギョッとした。
(げっ、親父!?)
そこに居たのは、今朝、休日出勤したはずの父親だった。
なんでここに!?
心臓がドクンと跳ねた。
会社はどうした? いや、それよりも……どうして《あたし》に声をかけた?
まさか……まさか……。
最悪の想像が脳裏をよぎる。
(……女装趣味がバレた!?)
全身から冷や汗が噴き出した。
なんで?
どうして?
バレるようなヘマはしてないはずなのに……!
あたしが石像みたいに硬直していると――父は写真でポーズをとるみたいに、指を二本立ててピースサインをつくり、
「これで、どうかな?」
と、尋ねてきた。
「へ?」
喉から間の抜けた声がもれる。
どうかなって、なにが?
父の行動の意味を理解しかねていると、父は小さな声で「これじゃ足りないか」と呟いて、指をもう一本追加で立ててみせる。
あたしは立てられた三本の指を数秒間見つめ……
「ハッ」
ようやくその行動の意味について察することができた。
(もしかして、これ……パパ活ってやつか?)
ピースサインは『二万円』
三本の指は『三万円』
おそらく、父はジェスチャーで金銭交渉をしているのだろう。
なるほどね、言葉にすると犯罪の証拠となりかねないから、こうやってジェスチャーで交渉してるのか。それにしても、どうやらこの様子だと、あたしの正体には気付かれていないっぽい。よかった、よかった。
……いや、よくねーよ!
おもわずノリツッコミが炸裂する。
(なにやってんだ、おやじぃいいいいいい!?)
あたしは心の中で絶叫した。
あんた、家庭がありながら何してんだよ!
夫が駅前で女子高生を三万で買おうとしてたなんて……おふくろが知ったら泣くぞ!
あたしが内心で叫んでいる間にも、指が四本に増えていた。
「お茶だけだから」
と、小さな声で父が言う。
その瞳はギラギラと血走っていた。
ぜったいお茶だけで済ませる気ねーだろって思った。
父親に対する尊敬の気持ちが、ガラガラと音を立てて崩れてゆく。
(まさか親父がパパ活オヤジだったなんて……これ以上、話していたら親父を嫌いになりそうだ)
幻滅する前に立ち去ろう。そう決めて、踵を返そうとした――瞬間、
「待ってくれ!」
父に手首をつかまれた。
これでは逃げられない。
「や、やめてください!」
練習した女声で拒絶する。
が、
「頼む! 待ってくれ」
父は聞く耳を持ってくれない。
その手を離す気は、さらさらないようだった。
おい、親父。いくらなんでも、これはしつこすぎるぞって思った直後、
「十万!」
親父が叫んだ。
「え」
「十万で、お茶だけでも!」
「……十万?」
「そうだ。十万円で、お茶に一杯つきあってくれるだけでいいから」
なに考えてんだ。
十万円って、大金だろ。
それを見ず知らずの女子高生に?
「……どうしてそこまで?」
おもわず尋ねると、父は気恥ずかしそうに顔を俯けて、
「キミが……あまりにも亡くなった妻に似ていたから」
そう呟いた。
「おふ……奥さんに?」
「そっくりなんだ。本人じゃないかって思うくらいに」
だから、声をかけてしまった――と父は言った。
おふくろが不慮の事故で亡くなった日曜日。
まだ幼かった俺はこの世の終わりみたいに泣いていた。
大切な人が亡くなったんだから、悲しいのは当たり前だ。
もう笑える日はこないんじゃないかってくらい絶望した。
葬式が終わった後、
「これからは母さんの分まで頑張らないとな」
そう言って、父が俺の頭を撫でた。
その瞳に涙はなかった。
「悲しくないの?」
と訊くと、父はどこか寂しそうな微笑を浮かべて、
「悲しいさ。でも、悲しんでばかりいられないから」
そう答えた。
あの日、あたしは幼心に「薄情だ」と思った。
大切な人が亡くなったら、泣くのは当然で……泣かないのは、愛情が欠けているからだと思った。
でも、きっと、そうじゃなかった。
本当に愛情が欠けていたのなら、母に似ているだけの女子高生に声などかけない。
たぶん父は……母の面影を探していたのではないだろうか。
泣きたい気持ちを隠しながら、何年も、何年も…。
「お茶、一杯だけなら」
あたしが、そう呟くと、父は嬉しそうに表情を明るくした。
「ほんとかい?」
「ええ」
「ありがとう。キミ、名前は?」
「なまえ?」
「そう、さすがに三月って呼ぶわけにはいかないし……あ、三月っていうのは妻の名前ね」
知ってる。
つーか、母親の名前を知らないわけがない。
「は、ハルです」
さすがに本名を答えるわけにはいかないから、とっさに偽名を伝えると、父が驚いたように、
「奇遇だね。僕の息子の名前も春彦っていうんだよ」
と、目を丸くした。
「へ、へぇ。そうなんですか」
心臓バクバク。
さすがに本名をもじっただけの偽名は危険だったか……反省。
「それじゃ、そこの喫茶店に入ろうか」
「はい」
父が駅前立地のチェーン店に入ってゆく。
あたしはその背中についていった。
ほんとうに紅茶を一杯だけ飲むだけの時間だった。
それなのに、なぜか父は幸せそうな顔をしていた。
母と同じ顔の女性と紅茶を飲む。それだけで十分だとでも言うように……。
「一杯だけでいいんですか?」
と訊くと、
「そろそろ仕事に戻らないといけないから」
と父は苦笑した。
どうやら昼休みだったらしい。
「今日はありがとう。これ、約束のお金」
別れ際、父が財布から十枚の諭吉を抜き出す。
十万円は大金だ。
受け取るべきかすこし迷ったが、
「どうぞ」
と手渡されて、仕方なく「どうも」と受け取った。
この十万円、どうしよう。
悩んでいると、喫茶店の向かいにある花屋さんが目に入った。店頭には黄色い薔薇が展示されていて、『父の日フェア開催中』と販促用のブラックボードが立っている。
そういえば、そろそろ父の日だっけ。
思い返してみれば、父の日にプレゼントを贈ったことがないような気がする。
男手一つで育ててくれている父親に感謝しているはずなのに、なんとなく気恥ずかしくて、それを形で示したことはなかった。
今年こそ、何か贈ってあげようかな。
そういえば、ちょっと前に父が「最近、肩こりが酷いからマッサージチェアが欲しい」と言っていた気がする。
マッサージチェアって、いくらするんだろ? 疑問に思ってスマホで調べてみると、ちょうと十万円くらいだった。
手元にはちょうど十万円の臨時収入。
おのずと使い道は決まっていた。