そうして少年は、人を操ることを覚え、他人を壊した。
その学校には、ルールがある。
とても独善的な、独り歩きしたルールだ。
「はあー・・・。佐々木さん、今日もすごくかわいいなぁ・・・」
ある男子生徒の呆けた声が、廊下の一区画で、周囲に影響を与えることなく、空しく消えた。
その視線の先は、人行く人へと手を振り返す佐々木亜美の姿が。
「おいバカ!誰かに聞かれたらどうする?!長谷川に殺されるぞ?!」
それを聞いて、言葉の意味に気付いた男子生徒のつれが、慌てて彼を制した。
相手の鬼気迫る表情に困惑していた男子生徒は、その名前で得心がいった。
「付き合ってるんだったよな・・・正直、羨ましいよ」
「佐々木を悪く言ってたやつらが軒並み静かになったんだ。大人しく諦めろ。元々、雲の上の存在だったんだ。潔いのも、俺は美点だと考えるぞ」
「・・・そうするよ。それで、あの横にいる冴えない奴は?」
どこか一段、気持ちの沈んだ声で、康人を指した男子生徒。
「あいつは・・・なんでも入学当初からの動画を編集してるらしい。理事長が配属させたんだ」
「そうなのか、それでも仕事とはいえ、その役回りは気分が良いだろうなぁ」
気弱に告げる彼だが、対する相手は、その意見に同意しかねるという風に、顔を顰めて、いつまでも佐々木亜美について回る安藤康人を睨んだ。
「あれが?ようは引っつき虫だろ、あんなの」
その言葉には、厚顔無恥、という意味が、ありありと感じられた。
◇ ◇ ◇
「亜美、別に学校じゃなくても、一度家に帰ってからでいいじゃないか?」
夕焼けの差し込む廊下で、二人の生徒が浮足立って、歩んでいた。
九月も上旬、夏の色香を静かに残した学び舎は、数時間前の活気とは裏腹に、どこか廃れた雰囲気を醸し出していた。そんな鬱屈とした場所に、亜美のあどけない笑顔が祝福するかのように飛散した。幼いころのいじらしくもあり愛らしい表情はそのままに、美しさを滲ませた子供以上大人未満の顔だ。
「何言ってんの!学校帰りだからいいんじゃん!」
亜美は自身がきているシャツを持ち上げて、学生という立場を示唆する。
康人にとっては、別段に特別なことだとは思えなかったが、彼女にとっては違ったらしい。
「海里どこー?」
「長谷川は・・・道場にいなってことは、教室だろう」
俺たちは海里を探していた。
お互いに休日が重なったっことが分かったので、こうして出迎えに行っていたのだ。
「・・・・・・呼び方」
「ん?ああ、すまん。使い分けてるから、ごっちゃになった。呼んだら悪目立ちするんだよ。今も、ただでさえ俺は煙たがられてる」
「そんなの気にしないよ」
「お前がしなくても、俺がするの。わかって、佐々木さん?」
言尻にいじわるな語調で笑みを浮かべると、突如として振り返った亜美が康人の頬をむんずっと掴んだ。
「やめて・・・正直、外面を浮かべるのも疲れるの。康人の前でくらいはリラックスさせて。歌手の精神ケアも康人の仕事でしょ?。さあ、さっさと海里捕まえて遊び行こ」
たったと駆けだした彼女にこちらも続く、海里の教室は、目と鼻の先だった。
だけれど、
「あははは!なんだそれ?あはははは!」
俺は海里の豪快な笑い声と、それとは別の笑い声に気付いて、亜美の腕を引いた。
亜美もそれを理解したのか、にんまりと笑みを浮かべたかと思うと、俺と共に扉の端から中を覗き込んだ。亜美の温かい表情とは真逆に、俺の顔からはどんどん血の気が引いて行った。
俺たちが小人のように仲良く身を縮こませて視線を送った先には、海里と一人の女生徒がいた。
無人の教室、ふたりはまさかここに自分たち以外がいるとは考えもしないのか、ただお互いだけを見て、こちらに気付く気配はなかった。
それがどのようなものであるのか察した俺と亜美は、ゆっくりと来た道を戻り、そのまま帰宅した。
「海里、そなたも勇者となる時が来たか。我らは幾星霜、この時を待ちわびたことか・・・というわけでわたし達だけで行こうか?・・・・・康人?」
ふざけた様子でどこかの王様か長老の真似をした亜美が、どこか浮かない顔をした康人の肩を叩いた。
「・・・なんでもないよ。海里は仕方ないから、どうしようか?」
「じゃあ、わたしの買い物付き合って!CDでしょ、雑誌でしょ、あと服も見たいから意見を頂戴!」
その後はひとしきり、亜美のショッピングに付き合った康人。
前半はCD巡りだったので、編集側としては参考にするものもあったが、後半に至っては聞き流す程度に相槌を打っていた。
◇ ◇ ◇
次の日になって康人は、夏休み終えて付き合うことになった古市美恵利を自宅に招待していた。
「お、お邪魔します」
「ははっ。そんなにかしこまらなくていいよ。それに今は俺以外いないんだし」
高校に上ると同時に、佐々木家から離れ、元の自宅に戻ってきた。母親の仕事が落ち着いたというのもあるが、なにより康人が高校生になったので、もう大丈夫だろうということだ。
慎重に家に上った美恵利は、丁寧に靴まで揃えていた。
美恵利とは夏休み前から何度もこちらから接触し、夏季休暇で目を離した隙にどんな虚言を吐かれるかわからなかったので、いっそのこと付き合って手元に置いておくことにしたのだ。
今日も繋ぎとめておくための定期交流、適度に話を合わせて相手を持ち上げて、気分を良くさせ、また適度にいじわるをする。
そうして美恵利と何気ない会話をしている時だった。
ピンポーン!とインターフォンが鳴った。
美恵利に一言告げた康人は、そのまま玄関へ赴き、扉を開いた。そこには亜美がいたのだ。
「康人!遊びにきた!家あげて!」
(おっと、これはまずい)
前方には無邪気に笑う亜美、後方には便宜上は彼女の美恵利、非常にまずい。
安藤康人は、ここからここからどうすべきか考えた結果、
〝それ〟から視線が外れるように、さりげなく亜美の前に出て遮った。
「ごめん、今日は都合が悪くて・・・また今度にしてくれないかな」
「え~・・・いいじゃん、ケチぃ。邪魔しないからさ、てか何してんの?また理事長からの依頼?」
「まあ、そんなところ」
「そうかぁ~・・・仕方ないね。っみせかけて、とうっ!」
残念そうな顔をした亜美は、そのまま振り返って帰ると見せかけて、玄関から内部に滑り込んできた。
「大丈夫、わたしがいたところでなんの支障にもならない・・・ってナニコレ?」
和やかでのほほんとした亜美の表情が一変した。
彼女が答えを求めるように顔を顰めて、指を指した先には美恵利のかわいらしいレディースのミニブーツがあった。
「康人くん。遅いみたいだけど、どうかした—————————えっ・・・」
片眉を上げて右のおでこに皺をつくった亜美に母親のものだと誤魔化そうとしたが、運の悪いことに、康人の帰りを待ちわびた美恵利の登場で、それは不可能となってしまった。
すべての状況を理解した亜美は、もう感情を隠すこともなく顔を歪ませ、対する美恵利はいきなり別の女、しかも我が校の象徴たる佐々木亜美が現れたので、説明を求めるように康人を見た。
◇ ◇ ◇
「「・・・・・・」」
数分前までの、恋人同士の空間が一転。亜美と美恵利、ふたりの視線は、残暑を掻き消すほどに冷たく、今ではなんとも言えない空気が流れていた。
絶対零度の俺の部屋。テーブルを挟んで、右に美恵利、左に亜美。
なんとか少しでも和ませようと、九月だというのに温かいお茶を置いた。
「粗茶です」
コトリ、ピキッ!
(亀裂が?!!?!!)
さすがの粗茶くんも、空気に耐えかねて砕け散った。逃げ出したいのは同じようだ。
重たい沈黙が康人の両肩にのしかかり、これをどうにか打破すべく、康人は亜美に話しかけた。
「佐々木さん、この前の動画の話なんだけどさ」
パソコンの画面を亜美に見せて、意識を美恵利から外させた。
この状況、一方的に敵視しているのは亜美の方だ。つまり彼女の目線がこちらに向けば、自然とこの部屋も平和に———————。
「ねえ、なんの話?」
「あなたは関係ない。話しかけないで」
「はあ?」
ちょっと亜美さん、あなたなんで挑発するんですか・・・。
やめてよ、美恵利が大変なことになっちゃうから・・・。
ただでさえ沸点が低い子なのに・・・。
「いや、関係ないわけないでしょ。こうして同じ部屋にいるんだし、てか混ざれない方が難しいと思うんだけど。どうやったって会話は耳に入るわけなんだから」
「今が取り込み中ってわからない?わたしたち仕事の話をしてるの。いわば企業秘密なんだから、ああそうだ、それだったらちょっと廊下に出ててくれない。いや、廊下じゃダメか、一階のリビングで待っててよ。わたし康人と話さなくちゃいけないことがあるから」
「急に押しかけてなに?康人くんプライベートだったじゃん。やっぱり嫌な感じはしてたんだ。自分のことばっかりじゃん。自己中心的なのはどうなの?自分の歌に酔いしれるのもいい加減にしたほうが良いよ」
「人のこと言えなくない?あなたもここに来てるじゃん。そう思うならそっとしてあげなよ。康人はただでさえ忙しいのに、少しは休ませて」
「歌ばかり歌うと頭が緩くなるの?わたしはここにお呼ばれしたんだよ?それってつまりわたしといるのが心が休まる時ってことだよ。その鈍い頭、少しは締めたらどうなの?」
「緩いのはお前の股だろ?」
「ああもうだめ完全にキレた康人くんわたし今からこの人を引っぱたくけど誰にも言わないでね?」
その日の康人は、寿命が数年縮む思いをした。
仁王像も震えあがるほどの冷気がその場を包んでいた。
その中心で、ひたすらに動く、小さな首振り人形、それが俺だった。
◇ ◇ ◇
激突から数時間後、俺の家には美恵利だけが残った。お互いに暴投を投げまくった彼女たち、時間帯も良いところになったのでふたり揃って帰ろうとしたのだが、
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「ごめん、美恵利にはちょっと話があるんだ」
「・・・今、言えばいいじゃん」
「悪いね、佐々木さん。ちょっと聞かせられない話なんだ」
「なにそれ・・・」
亜美は悲しそうにそう言うと、怒りを露わにした。
「もう康人なんて知らない!バカ!勝手にすればいい!」
憤慨した亜美はそのまま荒々しく扉を開けて、帰っていった。
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「ほんと、迷惑な子だった。康人くん、軽々しく家にあげちゃダメだよ。・・・・・話だったね、なに?」
頭痛をこらえるように言った美恵利は、こめかみを抑えながら康人に警告した。
「美恵利さ、浅井さんと仲良かったよね?」
「・・・どういうこと?」
まさかその名前が出てくるとは思わなかったのか、突然の発言に、目を丸くする美恵利。
「最近、浅井さんと長谷川がいい感じなんだ。くっつけたくないから、邪魔してくれない?直接じゃなくて、間接的に。正直、プロデューサーの立場からだと、長谷川と佐々木さんが付き合ってることにしてくれた方が、やりやすいんだ」
目的を簡潔に告げた康人、だが美恵利は先程のこともあり、心底、嫌悪感を露わにして、
「わたしがあいつのために? 冗談じゃない。いくら康人くんの頼みと言っても無理だよ」
「亜美は大切な幼馴染だ、安全に活動させたい」
「・・・・じゃあなおさら無理だね。わたしには関係ない」
康人と亜美の関係性を耳にして、一層不機嫌になった美恵利は、そっぽを向いて、断固拒否する。
だけれど、そんな美恵利に、康人は迫った。
イスに座る美恵利に歩み寄り、ひじ掛けに両手を置いて逃げ道を塞いだ康人は、追い込まれた彼女の瞳を見据えて、 深く 、告げた。
「亜美にはできない。君にしか頼めないんだ」
「これはふたりだけの秘密だ」
「 〝美恵利は〟 、俺のことを助けてくれるし、言う事も聞いてくれるよね?」
その言葉の勢いと誘惑に、美恵利はしばし、推考する。
あの女の為というのは、彼女にはすごく癪に障ることだが、何より、康人と亜美の関係性において、一歩劣る彼女にとっては、その役目はとても魅力的に映っていた。
「わたしの方が、康人くんの役に立てるもん」
◇ ◇ ◇
次の日になれば、康人は亜美に、校舎裏に呼ばれていた。
「亜美、話ってなに?」
時間は放課後、いつもなら共に帰宅して動画の打ち合わせをしている時だが、少し話をしようということで、こうして遠回りをしてきた。
「あの子のこと、なんだけどさ・・・名前は?」
「昨日のこと?古市美恵利っていうんだ」
康人が当たり前のように言ったものだから、亜美はそのことを忘れているんじゃないかと思って、詰問した。
「康人ってさ、わたしのプロデューサーだよね?」
語調に少しの怒りが混ざって、突き刺すように彼女は言った。
「確かにそうだけど、誰に会おうと俺の勝手だろう?」
「いやいや、お互いに活動してるんだから影響するに決まってるじゃん。てか、康人はわたしのものでしょう?」
「俺はものじゃないよ、亜美」
「ああ、ごめん。まずこれを確認しないといけなかった。あのさ・・・」
亜美はバツが悪そうに顔を顰めながら、
「康人ってあの子と付き合ってるの?」
俺を突き刺すような視線でじっと見つめる亜美の表情には、冷たい感情しか読み取れなかった。
「そうだよ」
断言した俺に、突き詰めていた表情が、一瞬歪んだ。しかし、すぐにキッと目線を絞った亜美は、すぐさま反論した。
「でもさ、わたしたちこれからじゃん。これからふたりでやっていこうっていう時にさ、康人だけ抜けたらできなくなっちゃうじゃん」
「ねえ康人・・・」と、最後のほうは、懇願に近かった。
その願いに俺は胸に手を当てて、強く宣言した。
「約束する、俺は絶対に亜美を歌手にする」
薄暮の空に、少女のくぐもった声が鳴り、耳鳴りのように響く学校の部活動の音が、ひどく現実味を帯びていなかった。
ふらりと揺らいだ亜美は、自身を支えるように腕を力強く掴み、俯きながら、何かを抑えるように言った。
「・・・・・帰って。あと、打ち合わせは明日にしよう」
俺は彼女の言う通り、背を抜けて帰宅した。右手に曲がり、校舎の影に消えようとした康人の耳元には、幼子のような泣き声が、微かに聞こえた。
得も言われぬ気分の悪さに、足取りも重くなる。
コーン!と響く金属バットの音が、落ちた心を淡く震えさせるだけだ。
「あれ?安藤?こんなところでなにやってるんだ?」
くたびれたように歩く康人の前に、三人の野球部員が現れた。康人は返答をしあぐねていると、部員たちは彼の横を通り過ぎて、そのまま進もうとしていた。
「ちょっと待ってくれ。今はひとりにしてあげてほしい」
「・・・・どういうことだ?」
事情を聞いた野球部員たちは、そのまま康人に案内される。
そうしてきた道を戻った康人は、彼らにそれを見せた。
彼らの視線の先には、膝を抱えて静かに泣いている亜美の姿があった。
「最近、・・・亜美の噂が出回ってるのは知ってるよな?」
そうして安藤康人は、委細にある嘘を織り交ぜながら説明した。
その原因が、一人の女生徒のせいであると。
しかもその女生徒がそれを利用して、恋人の長谷川海里を奪おうとしていることも。
「でもさ、おれ許せないよ」
説明を聞いた野球部員のひとりが、亜美を見つめながらそう言った。
「佐々木だって、あんなに頑張ってるだろ。それなのに、こんなのって・・・」
悔しそうに、握り拳をつくる彼に対して、仲間も後に続いた。
「確かに、何もしてないヤツがそんなことを言うのは、気分が良くないな」
「安藤、事情はわかった。任せろよ、俺たちにも協力させてくれ」
横にいた一人が肩に手を置いて、顔に微かな怒りを滲ませていた。
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その日から、瞬く間に情報は学校中に流れた。
美恵利が浅井若菜の趣味を晒し、複数人の男子生徒の協力のもと、悪評として学園中に広めた。人の恋人を奪い取る、趣味の悪い女として。
以前、本当に亜美の陰口を言っていた奴らは、これまでの責任をすべて浅井若菜に押しつけて、今では亜美の肯定派となった。
浅井若菜という女生徒はひと月と経たないうちに、学園から姿を消した。
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そうして来たる文化祭に日。亜美のライブが行われた。
文化祭ライブは大盛況で、亜美の姿は確かにその日ステージに刻み付けられた。投稿した動画も、各種SNSを通じて大きな反響を呼び、学校のホームページにも記載され、彼女は確かに知名度を得ることが出来た。
どこか欠けた、少女。
されど欠けたからこそ、人々を魅了する。
彼女は欠けたからこそ完成した。
そのまっすぐな表情と、痛切な歌声が、どこかもの悲しさを湛えながら、人々の脳裏に刻まれた。
強く、だけれど不安定に孤高で、
マイクを握る細腕はしなやかで繊細だ。
その喉から繰り出される歌声は、何をもにも揺るがぬ芯があった。
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※
次回『変えられるはずだから』