そうして壊れてしまった心
わたしは弟が好きだ。
「え?わかなちゃん、弟とお風呂入ってるの?」
シャンプーの話から、そこに転がった。
わたしのなかでは当然のことだったので、その質問はびっくりした。
しかし、まだ小学一年生、そこまで周りには奇異に映らなかった。
けれど、その質問は、わたしの中で違和感を残した。
弟のことはもちろん好きだ。かわいいし、かわいい。
出来ることならなんでもしてあげたい。
最近ではドジをしてほしいとさえ思っている。
もっと甘えてほしいし、最近では、下心なく、単純な興味で、自身の体との違いに関心を抱いている。率直に言って、わーお。
まだまだ溺愛したかったわたしは、そこから二年間は疑問を抱えたまま、今の現状を継続した。
「遥斗は将来、どんな人になりたい?」
けれど、ある日、周囲とのあまりの差異に耐えかねたわたしは、ついに言ったのだ。
いつも後ろをついてくる弟に、
少しでも自分とは違う道を歩んでほしくて、そう言った。
その時には、答えは返ってこなかった。
離れてほしくなかったわたしは、表面上は怒りながらも、心の底から喜んでいたのだけど。
それから・・・・。
わたしは、いわゆるオタク?というものに・・・・なったのかな?
単純にそれが綺麗だったし、かっこいいと思っただけだ。そもそもその光る棒が、アイドルのライブで観客が振る物だったなんて知らなかったし。好奇心?興味本位?まあ、そんな感じ。
「僕もこんな〝星〟になりたい!」
それは、弟に初めて芽生えた自我だった。
いつもわたしの真似事をしていた弟が、鑑賞として楽しむだけでなく、自分から何かをやりたいと言ったのだ。
弟に、始めて目標を与えられたことがうれしかった。
だからわたしには、これがとても特別なものに見えたのだ。
これなら、もう大丈夫だ。
わたしと違うことが出来たのなら、もう大丈夫。
でも、わたしが弱かったせいで、決別はもっと先になった。
次こそは、これが終わったら。
そうやってずるずると先延ばしにして、やっと行動に起こせたのは、わたしが中学三年生になった時。
「どうしたのさ・・・?姉さん」
突然、寝床に潜り込んだわたしに、横になっていた遥斗は背中越しに優しく問いかけた。
お互いが中学に上り、大きくなったわたしたちの体では、小さかった頃に二人で眠っても余裕だったベッドも、狭苦しくなっていた。
「ちょっと・・・話をしよっか・・・」
不吉な予感を憶えたのか、身構える様子が、すがりつく背中から感じられた。
困惑が混ざり、身を捩る遥斗。わたしは振り返りそうになった遥斗を、スウェットごしに背中を掴んで止めた。
「こっち見ないで」
「・・・・ひどいじゃないか、姉さん」
もううるさいくらいに心臓が鳴って、顔が真っ赤になってるのが自分でもわかる。
遥斗は向こうを向いているからわかるはずもないのに、わたしは弟の背中に顔を埋めた。
「水樹ちゃん・・・元気?」
顔の熱を冷ますように、わたしは話を始めた。
「・・・すごいよね、この前まで妹みたいだったのに。あんなにきれいになって、身長も越されちゃった。あんなかわいい子、手放しちゃダメだよ?」
練習が激しくなったとかで、会うことは減った。姿を見たのはテレビの中、地方テレビの取材だ。
「・・・手放すもなにも、俺は俺だし、水樹は水樹だよ。あの時から何も変わらない、ただの幼馴染だよ。だから姉さんも—————————」
弟の言葉は、言い終わることはなかった。
若菜は、その先を聞けば、戻れなくなると思った。
その誘惑は、とても優しくて、揺りかごのように居心地が良くて、身を任せてしまえば一生抜け出せなくなると思った。
「ねえ、遥斗」
わたしはそこから先の言葉を遮るように、弟の耳元で囁いた。
その声音には、言外に拒絶を匂わせるものだった。
「これで最後にするから、終わりにするから」
「終わりにするってなんなのさ?・・・わからないよ」
「・・・・・・・・・自分で考えな」
好きだから、壊したくなかった。
好きだから、遥斗には非難されない生活を送ってほしかった。
好きだから、わたしから距離を置いた。
◇ ◇ ◇
そうして高校生になった、華の女子高生というやつだ。
夏を超えたわたしは、それなりの生活を送っていた。
「え?美恵利、安藤くんと付き合うことになったの?!」
「う、うん・・・」
気恥ずかしいそうに頷くのは、わたしたち四人グループ中でも一番気弱そうな女の子、古市美恵利だ。
少しヒステリック気質のある子であったので、一番に彼氏抜けするのは、意外だった。
「ねえねえ、どっちから?どっちから告った?」
「安藤くんから・・・」
「え?なんでなんで?なんで受けちゃったの?美恵利、長谷川くんが好きだったよね?」
言い淀む美恵利はしばし、思案してから、
「それは・・・・すごく、積極的だった」
「「「キャア———————ッ!!!」」」
「も、もう!茶化さないで!」
かわいく怒る美恵利に、黄色い声が鳴る。
そんな浮かれるわたしの袖を「ねえ」と、横から引く友達。
「一緒に長谷川くんに玉砕してみる?」
長谷川海里。柔道部の次期エースだ。
180センチは超える身長に、がっしりとはしているが、見た目は細マッチョ。その上に、ちょこんと甘いマスクが乗っている。まあ、学校のトップイケメン。雲の上の存在だ。
まあ、わたしも新しい恋を始めるべきだった。むしろ遅すぎるくらいだ。
◇ ◇ ◇
その場に居合わせたのは、たまたまだ。
自販機帰りに、化学準備室の前に通った時だ。
「ちょいちょい!長谷川くん!辛いでしょ、持つよ?」
「ん?・・・いいのか?」
「だって怪我してるじゃん!」
わたしが長谷川くんの手頸を指さすと、彼は不思議そうな顔をした。
「知ってたのか?」
「うん。ちょっと袖から見えたし」
彼の手首には、テーピングが巻かれていた。
「・・・・悪い」
うちの化学教師も、なかなかに酷なことをさせる。
長谷川くんの持っていた茶色い箱、フラスコやビーカーなどのガラスの実験道具が入っている。
それだけなら、それほどの重さではないのだが、意地悪なことに、痛そうな鉛のスタンドが入っている。これがこの箱のほとんどの重量だ。
そうして雑談交じりに二人で教室に戻る。
その途中、階段を上っている時だった。
「ああ、なんだか、お前といると安心するよ」
「何それー?あははは!」
あの一件以来、わたしと長谷川くんは、よくしゃべるようになった。
放課後も二人で教室で会う仲に。
日々に鬱憤だったりとか、馬鹿な話だとか、こっちがしたり、向こうがしたり。
「若菜は弟のことが本当に大好きなんだな」
「え?・・・あー・・・・・」
意識はしていなかったが、どうやらわたしの内容は、それに固まっていたらしい。
それになんだか複雑な気分になって居住まいが悪くなってきたわたしは、
「この話やめにしない?てか、もう帰ろうよ」
「ああ、悪いな。こんな遅くまで学校残らせちまって・・・」
「いいよ。むしろ柔道部の唯一の休みを、こんなことで消費しちゃっていいの?」
「いいや、俺にとってはここは一番いい」
そう言って身支度を済ませたわたし、教室の扉を開いて出ようとすると、
「なあ、若菜」
あまりにも普段とは違って真剣な声音で話されたものだから、別人が話しているんじゃないかと思った。
「今度の文化祭さ・・・俺のために時間作ってくれないか?後夜祭に、この教室で・・・いいか?」
文化祭は十月中旬、今は九月上旬だ。一か月以上もさきである。
いくらわたしといえど、それがどういう意味か分かった。
「えっ・・・と・・・。うん、いいよ」
けれどわたしの胸は、ちっとも弾まなかった。
◇ ◇ ◇
お昼時にトイレに行ったわたしは、回答をどうするか悩んでいた。
(いや、まだ決まったわけじゃないし・・・)
そう心を落ち着かせて、教室に戻ったわたし。
(あれ?・・・・)
けれど、なんだかおかしかったのだ。
いつも三人、わたしの席の周りに集まっているのだけど。
今見たら、数十人は集まっている。
「えー、なになに?なにして————」
わたしは何事かと、自分の席に向かった。
だけど、次の光景、というかみんなの行動に戦慄した。
その行動は、すごく怖かった。
みんなわたしを見た瞬間、蜘蛛の子を散らすように、一目散に離れていったのだ。
不審に思ったわたしは、そのまま自分の机の上を見た。そこにはわたしのスマホがあった。
だけどそれだけだったらまだいいのだ。悪いのは、それが映し出していたものだ。
そこには、わたしの趣味で鑑賞していたヲタ芸動画の履歴があった。
動画の履歴だけではなかった。他にもネットの閲覧履歴が晒されていた。
スマホの横には、わたしの顔写真が載った学生証が、みんなが散る前に、写真を撮ってると思ったけど、もしかしてわたしの顔を・・・?
「ちょっと!・・・誰?!こんなのひどすぎる!」
わたしの激怒に、応える者はいない。みんな、まるでわたしが初めからここに存在しなかったかのように振舞う。
それに歯茎を鳴らしたわたしは、いつも仲の良い三人に問いかけた。
「ねえ、誰?」
「「「・・・・・・」」」
携帯の解除なんて、彼女たちの前でしか行っていない。ならば必然的に、この中の誰かだ。だけれど、わたしの怒りに応える者はいない。
「ねえ、この前まで仲良かったじゃん。普通に話してたじゃん」
「「「・・・・・・」」」
「ねえ、無視しないでよ。ねえ・・・・あっ——————」
そう言って、彼女達も、蜘蛛の子を散らすように、教室の反対側へ、消えていった。
その日から、わたしの扱いは少し変わった。
◇ ◇ ◇
「それじゃあ、浅井。58ページから読んでくれ~」
「はい」
古文の授業で、わたしは教科書を読み上げる。特になんの変哲もない。普通の授業。
わたしは文を目で追って、つらつらと読み進める。
「・・・・きっしょ」
「・・・・・・・・」
あれ?わたし、どこを読んでて・・・なんて言おうとしたんだっけ?
「ん?どうした?浅井」
「・・・いえ、なんでもありません」
◇ ◇ ◇
(あっ・・・最悪、教科書忘れた・・・)
帰り際に、忘れ物に気が付いた。
今までだったら、机の引き出しに入れても、なんら問題はなかったが、現状は持ち帰らなければ、無残な姿で返ってくるのだ。
わたしは小走りに教室に戻る。急がないと、間に合わないかもしれないのだ。
階段を早足に上って、そうしてやっと教室に付いたが、中から話し声が聞こえて来た。話し声から察するに、長谷川くんと美恵利の彼氏である安藤康人くんだ。
(ああ、そうか・・・・・幼馴染だったよね。たしか・・・)
さっさと教科書を取るべきか悩んだわたし、そうやって立ち往生していると、運の悪いことに、会話が始まってしまった。しかも内容はわたし。
「さすがにな、あんな趣味じゃあなあ・・・長谷川もそう思うだろ?」
(うわ・・・・最悪・・・)
内容は、耳を塞ぎたくなるものだった。ここ数日で嫌と言うほど聞いた内容だ。
(まあでも、長谷川くんがいるなら、大丈夫か・・・)
なぜだか知らないが、みんな長谷川くんには気取られないように、嫌がらせをしてくる。女子はおおよそイメージを悪くしたくないためか、男子の方はわからない。けれどないならそれでいい。
そもそも彼はそういうことを言う人じゃないし、これなら入っても大丈夫かな、と思って、教室に踏み出そうとした時だ。
「知らね。興味ねえな」
「・・・・ははっ————————」
わたしはその言葉を聞いた瞬間、教室とは逆方向に走り出した。
期待しちゃって、馬鹿みたいに。なんであんなヤツ信用しちゃったんだろう。
もういいもういいもういい。
そう言うなら、もう誰にも頼らない。
そうして、わたしは孤独となった。
◇ ◇ ◇
クスクスクスクスクスクス。
わたしはお姉ちゃんだから、しっかりしないと。心配かけちゃう。
だから親にも弟にも、学校は楽しいと言った。
大丈夫。
ケラケラケラケラケラケラ。
友達はいないけど大丈夫。
学校はどう?と言われても笑顔で、普通普通と返す。
大丈夫大丈夫。
クスクスクスクス。
上履きが隠されるけど大丈夫。
大丈夫大丈夫大丈夫。
ケラケラケラケラ。
関係ない会話ですら、わたしに対する陰口に聞こえてきたけど大丈夫。
大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫。
クスクスクスクス。
たまにっていうか、ほとんど本当に陰口を言われていたけど・・・大丈夫大丈夫。
大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫。
ケラケラケラケラ。
きっと悪いのはいまだけ、これから良くなる。きっとそうだ。
水浸しだけど、大丈夫大丈夫大丈夫。
クスクスクスクス。ケラケラケラケラ。
だから、大丈夫、大丈夫、大丈夫、大丈夫、大丈夫、大丈夫。
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大丈夫やめて大丈夫大痛い痛い痛い丈夫大丈夫大丈夫大病む丈夫やめろ大丈夫大丈夫大丈夫大丈苦しい夫大丈夫イね夫大うるさい丈夫大丈夫大丈夫黙れ大丈夫大丈夫うざい大丈夫大丈夫痛大丈夫大丈夫大丈夫大丈消えろ夫大丈夫死ね大丈夫大があああ丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大囀るな丈夫大丈夫大丈夫だだ大丈夫大目障りだ丈夫大丈夫だだちゃ大丈夫大遥斗丈夫大丈夫だだちゃだだちゃdあ助け伸ばすなだだちゃアカdああさsあさあさあ閉じ込めろさあさd大さdfrgれdsっでwrgrgtgtgrふぇfrtじじぇろえろ丈夫大丈夫大丈夫だだちゃあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ—————————————————————————————————————————————————————————————————————————————————————————————————。
つまるところ、わたしにはもう居場所は無くて。
弟を異性として好きになるようなわたしには、平凡な生活なんて望めなくて。
そもそも感性が普通ではなかったわたしには、普通の生活など送れなかったのだ。
そうして、涙を流す毎日、わたしは考えることをやめて、引きこもった。
◇ ◇ ◇
そうして、一年は経とうとした頃だ。
「姉さん・・・」
扉の向こうから、大好きな声が聞こえて来た。
「昨日は、ごめん。怖がらせるつもりはなかったんだ」
感情が高ぶって、弟に酷いことをした。本当はあんなことしたくないのに。
「でも気持ちは本当だから」
こんな風になったわたしでも、遥斗はまだ諦めてくれなかった。
————————————————————————怒鳴ったりしてごめんね。
——————————でも、お姉ちゃん。普通じゃないから、疲れちゃった・・・。
——————————————————遥斗は幸せになってね・・・・。
わたしの泣き腫れた目からは、もう涙なんて出ないと思っていたけれど、
まるで今まで栓をしていたかのように、その日は涙が止まることはなかった。
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次回『俺の全てはその歌に』