手に入れた大切なモノ
夏には、ふたりがいたのだ。
それは、まだ傷一つない日々だった。
真夏の日々に、空調の利いたリビングのカーペットの上で寝そべって、遊んでいた時のことだ。
「遥斗は将来、どんな人になりたい?」
姉にとっては何気ない質問だったと思う。
僕は引っ込み思案で、いつも姉の後ろにいる、頼りない弟だった。
この時も確か、姉の外遊びについて行って、帰ってきた後だったか。
「うーん、とね・・・・・・わかんない!」
「わかんないかぁ~・・・」
僕の正直な回答に、苦笑いを浮かべる姉。当時の僕に不満はなかったし、三人でいるこの時間に満足していて、将来など微塵も考えていなかったのだ。
背後では水樹がゲーム機を両手にカーペットに寝転んで、足をパタパタさせていた。
僕が姉について行くのと同じように、僕の後ろには水樹がついてくるのだ。
「でもねでもね。僕、お姉ちゃんのことが大好きなんだ!だからお姉ちゃんをお嫁さんにしたい!」
曇りのない瞳で、子供時分の夢を語る。
けれど一つ年の離れた姉は僕よりも先に進んでいて、見えているものも違ったのだ。
「う~ん・・・。それは難しいかなぁ。お嫁さんは水樹ちゃんがいいと思うよ?」
聞いている僕は子供だったので、どうしてそんな突き放すように言われたのか、わからなかった。
「若菜!」
今までの会話を聞いていたのか、背後にいた水樹が、顔を真っ赤にして声を荒げた。
けれど、僕は姉と離れたくない一心で、まっすぐな気持ちを伝えた。
「僕は水樹よりもお姉ちゃんのほうが好きだよ」
「・・・・・・・」
当然、それを背後で聞いていた水樹は絶句した。
初めは飛び込んできた衝撃に目をぱちくりと瞬かせたが、何を言ったのかを理解して受け止めた時には、じわりと目の端に滲むものがあった。
「コラ!遥斗!そんなこと言うんじゃありません!水樹ちゃんに謝りなさい!」
僕越しにそれを見た姉は、妹のように思っていた水樹を弟が傷つけたのだと分かると、すぐにそう言い放った。
そして、遥斗は小走りに水樹の下へと向かった。
姉のことが好きだから、何でも素直に言う事を聞いたのだ。
遥斗は、泣く寸前の水樹の前にしゃがみこんだ。
幼馴染の前で膝をついた遥斗は、しっかりと水樹の目を見て、
「ごめん水樹、僕はお姉ちゃんのほうが好きなんだ・・・」
「・・・・・・・」
「コラ!遥斗!」
弟の無邪気であるが残酷な発言に、姉である若菜はたまらず叱りつけた。
そうして、水樹は泣いた。
そんな小さないざこざはありながらも、恙なく三人で仲良く過ごしていたある日。
「お姉ちゃん、なに見てるの?」
「うーん?」
小学校低学年の頃だった。
姉はいわゆる〝そっち系〟の趣味に傾倒していた。
ご機嫌にスマホ画面に注がれる視線、姉の手元では、両手にサイリウムを持った数人が、腕を振り回していた。
「綺麗でしょ?」
当時の姉の声音が、いつもより一段は高かったことを、よく覚えている。
「・・・・・・」
ふたり並んで寝そべって、それを見た。
自身の手元に落ちる姉の目は、期待と希望に満ちていた。
姉の目もキラキラと輝いて、彼女の手元もキラキラと輝いていた。
僕は、〝星〟に囲まれた。
この時だ。僕に目標が産まれたのは。僕も、こんな風に・・・。
「僕もこんな〝星〟になりたい!」
そう、僕は〝星〟を追いかけていたのだ。
川に落ちて、引き上げてくれた姉の笑顔、その〝星〟を愛したのだ。
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そんな彼女も、今では部屋に引きこもってしまった・・・。
地下スタジオから自宅に帰った遥斗は、翌日を迎えた。
今朝も水樹と通学し、学校についた遥斗は組んだ両腕に突っ伏していた。
遥斗の頭の中では、姉の悲痛な叫びがいつまでも響いていた。
「文化祭なにやるー?」
「お化け屋敷とか?」
「えー?つまんないー。なにか特別なことやろうよ」
季節は九月下旬、みな一様に、迫る十月中旬の文化祭で、話題は持ちきりだった。
その声色は軽やかで、遥斗とは対照的に、不安など微塵もなかった。
「でも佐々木先輩のライブ、楽しみだな~」
「それな!」
もうすぐ姉が引きこもって一年が経ってしまう。
止まった時計が、もうすく一周してしまう。
明るい会話は、意識の外で揺れる雑音で、砂嵐が起こったテレビの音のようだった。
「ねえねえ、ちょっと。起きてよ」
気持ちの上がらない遥斗の肩がゆすられた。
顔を上げれば、幼馴染の水樹がいた。
「次さ、古文の授業でさー。忘れちゃったから、貸して」
ああ、と。
机の中から取り出した教科書を、手を合わせてお願いする水樹に渡した。
会話も数度、会話と言うより、ほとんど鳴き声にも等しかったそれの後に、水樹は自分の教室に戻っていった。
「え?お前、神崎と知り合いだったのかよ・・・」
「そうだよ、須藤」
前の席の、男子生徒。
奇抜な髪型は、校則すれすれで、なぜ許されているのかわからない彼。
無二の男友達というより、共に学業を乗り越える共同戦線が近かった。
「なあ、今度紹介してくれよ」
「自分でやれ、俺は絶対に関わらん」
なので、お互いの利害が一致しなければ、こうして関係も決裂する。
◇ ◇ ◇
昼休みになり、生徒の空気も和やかになった。
みな、自身のおもむく場所に向かっていった。
遥斗はと言うと、水樹のクラスへと来ていた。
ぽん、と。教科書が戻ってきた。受け取って、帰ろうとした遥斗。
「ありがとう。助かったよ。・・・ねえ、明日さ、部活休みなんだ。遥斗の家に行っていい?」
しかし、水樹は二人にしか聞こえない声量で、言ってきた。
「水樹~。まだ~」
「ああ、うん。ちょっと待って!・・・じゃあ、そういうことだから」
是否も確かめず、強引に決めた水樹は自分のグループに戻っていった。
◇ ◇ ◇
帰宅した遥斗は、またも姉の扉の前に来ていた。
「姉さん・・・」
昨日と全く同じ状況、扉を右往左往した彼は、恐る恐る、声を出した。
「昨日は、ごめん。怖がらせるつもりはなかったんだ」
繊細な彼女の心を傷つけぬように。
遥斗自身、それは本意ではないのだ。
むしろその逆で、少しでも形が戻ればと思った。
「でも気持ちは本当だから」
それが杭であろうとも、それでも、否定できないものだから。
今日も、返ってくる声は、なかった。
唯一の声が、拒絶だったことが、遥斗の心に、重くのしかかる。
僕に対する気持ちは、もう嫌悪だけなのだろうか・・・。
あの叫びのときも、怖かった。だから逃げ出した。
こんなことで、姉を嫌いになりたくない。
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カーテンを閉め切った、夕方の薄暗闇の部屋の中で、浅井若菜は、その優しい声を聞いていた。
安全な部屋の中にいるというのに、毛布をかぶって、外界と自身を隔絶していた。
むくり、幽霊のように体を起こした。
しかし、ベッドの上でへたり込んだ彼女には、昔のような頼り強さもなく。眩しかった笑顔も、今の彼女の顔からは考えられない。
このまま、この部屋の闇と同化して掻き消えてしまう。一目見れば、そんな印象だ。
「ごめん・・・ごめんね。遥斗・・・・」
虚しい謝罪が、部屋に溶けて、消えた。
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次回『そうして壊れてしまった心』