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商業化作品

【コミカライズ予定】公爵令嬢アルベルティーヌはぶっ潰す!

作者: 中村くらら

「ベル、大きくなったら僕のお嫁さんになってくれる?」


 ふわふわとした淡い金の髪に、透き通るような青い瞳。

 天使のように美しい少年が、頬を染めて手を差し出す。


「いいわよ! 私、セディのお嫁さんになるわ!」


 満面の笑みで答え、小さな手を重ねる。


「僕、何があっても絶対にベルのこと守るからね」

「私も、セディのことを守るわ!」


 にこりと笑い合い、手を繋いで。

 二人でいつまでも、どこまでも。


 そう、約束したはずなのに――。











 じわりと滲んだ涙で視界が歪んだ。


 視線の先のガゼボにいるのは、淡い金の髪の青年。

 この国の第一王子にして、アルベルティーヌの十年来の婚約者セドリック。後ろ姿だって、絶対に見間違えたりなどしない。


 そして彼の隣には、一人の令嬢が腰掛けている。

 ピンクブロンドの小柄な後ろ姿は、近頃セドリックと親しくしている男爵令嬢ララに違いない。


 二人は人気のない学園の裏庭のガゼボで、肩が触れ合いそうなほどの距離で隣り合っている。

 まるで恋人同士のように。


 二人がどんな愛の言葉を囁き合っているのか、物陰に潜むアルベルティーヌのもとにまでは届かない。届かなくて良かったと思う。聞いてしまうのは恐い。

 それ以上はいたたまれなくて、ぐいと瞼を拭い、アルベルティーヌは静かにその場をあとにした。






『これで信じてくれた? 僕の言葉』


 早足に、けれど公爵家の娘らしい優雅さを保って廊下を進むアルベルティーヌの頭の中に、男の声が響いた。


「……ええ、悔しいけれど。信じないわけにいかないでしょ。昨日あなたが予言したとおりの時間、場所で、セディとララさんが密会していたんだから……」


 言いながら、寄り添う二人の姿を思い出し、ツンと鼻の奥が痛んだ。声に涙が滲む。


『……泣いてるの?』

「……泣いてなんかいないわ。でも泣きたい気分よ。十年来の婚約者に心変わりされて、二日後には婚約破棄されるっていうんだから……」




 未来を知っているという、正体不明の男の声が突然頭の中に響いたのは、前日の就寝前のことだった。


『君の婚約者は、三日後に婚約破棄を宣言するつもりだ』


 男からそう告げられたとき、アルベルティーヌは大きな衝撃を受けた。

 と同時に、「やっぱり」という思いもあった。


 セドリックの様子がおかしくなったのは、一ヵ月ほど前のこと。

 ある日突然、アルベルティーヌを避けるようになった。

 喧嘩をしたわけではない。

 思い当たることは何もなかった。


 いや、仮にアルベルティーヌが何かセドリックの機嫌を損ねるようなことをしてしまったとしても、話し合うことすらせずに距離を置くような人ではない。

 もっと言えば、セドリックがアルベルティーヌに対して機嫌を損ねるということ自体、ありえないことのように思えた。


 セドリックは、少しばかり気の弱いところはあるけれど、とてもおおらかで優しい人なのだ。

 特に婚約者のアルベルティーヌには、甘すぎるほどに甘い。


 ……それが、八歳のときから十年間、セドリックの婚約者として過ごしてきたアルベルティーヌの認識だった。


 何か事情があるに違いない。

 アルベルティーヌはセドリックと話をしようとしたが、セドリックは徹底的にアルベルティーヌを避けた。

 何度も手紙を送ったが梨のつぶて。


 そうこうするうち、セドリックは一人の少女を側に置くようになった。

 二つ下の学年に在席する、男爵家の娘ララ。

 

 初めてセドリックとララが二人でいるのを見たとき、アルベルティーヌは自分の目が信じられなかった。

 それまでセドリックは、婚約者のアルベルティーヌを誰よりも優先してくれていた。

 どんなに他の令嬢に言い寄られてもやんわりと躱し、適度な距離を保つ。どうしても他の女性の相手をする必要があるときは、必ず事前にアルベルティーヌに相談してくれた。

 

 一度、二人が図書館で同席しているところに、偶然を装って突撃したことがある。


「私もご一緒してよろしいかしら?」


 ドキドキしながら声をかけると、セドリックはアルベルティーヌを一瞥し、


「僕はララ嬢と話があるんだ。すまないが君は遠慮してくれ」


 と、冷たく返した。

 そしてもう、アルベルティーヌを見ようともしなかった。

 アルベルティーヌはそれ以上何も言えず、「承知いたしました」とその場を立ち去るしかなかった。淑女の笑みを保つので精一杯だった。


 セドリック第一王子殿下が、婚約者のアルベルティーヌ公爵令嬢よりもララを優先した。

 図書館でのやり取りを見ていた者達の口を介して、その話はあっという間に学園中に広がった。

 セドリックは長年の婚約者を差し置いてララに心変わりしたのだと、多くの者が噂した。

 それを肯定するかのように、セドリックは連日ララを隣に侍らせた。


 当初は信じられない思いでいたアルベルティーヌだったが、一ヵ月もそんな光景を見せつけられれば心は揺らぐ。

 ララがアルベルティーヌとまるで違うタイプなのも、アルベルティーヌの心に棘を刺した。


 ピンクブロンドのさらさらとした髪に、チョコレート色の大きな垂れ目。鼻と口は小ぶりで、小動物を思わせる愛らしい顔立ち。

 体つきは小柄で、折れてしまいそうなほどに華奢。

 多くの男性が守ってあげたくなるような、庇護欲をそそる容貌のララ。


 一方のアルベルティーヌは、燃えるように波打つ赤毛に、宝石のように煌めく緑の瞳。その瞳は気の強い内面を表すかのように吊り上がっている。

 女性にしては背が高く、ダンスや乗馬で鍛えた体はしなやかだが弱々しさは微塵もない。


 そんなアルベルティーヌに、かつてのセドリックは、


「僕のベルはいつ見ても格好いいなぁ。太陽みたいなその髪も、猫みたいな瞳も、僕は大好きだよ」


 と、目を細めてくれていたのに。


 悲しみ、嫉妬、失望、そしてセドリックを信じたい気持ち。

 ぐちゃぐちゃに乱れていたアルベルティーヌの頭の中に、突如、謎の男の声が響いたのだった。




「それで? 詳しい話を聞かせてもらおうじゃないの」


 公爵邸の自室に戻ったアルベルティーヌは、侍女を下がらせて一人になってから口を開いた。


「セディが婚約破棄を企てているのは明後日、卒業パーティーの場。それで間違いなかったかしら」

『そう。国王が外遊で不在の隙に、皆の前で宣言してしまおうという計画だ』


 男の声が、アルベルティーヌの頭の中に響く。

 他人の頭の中に直接語りかけてくるこの謎の男は、稀に存在する異能の持ち主なのだろう。

 さらに未来が分かるという異能。そういう異能が存在するということも、アルベルティーヌは知識として知っている。

 知っているからこそ、アルベルティーヌは男の言葉を戯れ言と切り捨てることはできなかった。


「なるほどね……」


 セドリックとアルベルティーヌの婚約は、王家と公爵家との間に結ばれたもの。セドリックの独断で破棄できるようなものではない。

 だが、多くの人の目がある前で一方的な婚約破棄を宣言してしまったら、さすがの王家といえどもなかったことにはできない。


 公爵家当主である、アルベルティーヌの父も黙ってはいないだろう。

 父は公爵家当主として、また国の敏腕宰相として、大きな力を持っている。そして冷静沈着なふるまいの裏には、娘と同じく苛烈な性格を秘めている。相手が国王といえども大人しく言いなりになるような人物ではないのだ。

 何より、娘のアルベルティーヌを心から愛している。もしアルベルティーヌが害されるようなことがあれば、王家に戦争をふっかけることすらしかねない。


 そんな父だから、娘をコケにされてまでこの婚約にしがみつくとは考えにくい。

 あっさりと婚約破棄に応じるだろう。もちろん、莫大な慰謝料と引き換えに。


「だけど、分からないわ」


 アルベルティーナは小さく首を傾げる。


「このタイミングで私と婚約破棄することは、セディにとって得策ではないはずなのに……」


 セドリックは第一王子だが、いまだ立太子されていない。

 学園を卒業した後に立太子される予定になってはいるが、絶対確実とは言えない事情があった。


 というのも、セドリックは現王妃の子ではない。

 セドリックの実母である前王妃は、八年前に急な病で儚くなっている。

 代わって王妃の座に就いたのが、国王の愛妾だったドロテだ。

 ドロテと国王との間には、セドリックより二つ年下の王子クロードがいる。

 伯爵家の出身ながら野心家のドロテが、我が子クロードを王位に就けることを狙っているというのは、貴族であれば誰もが知っている話だ。


 当のクロード本人も、十分に王太子の素質を持った優秀な王子らしい。

 「らしい」というのは、アルベルティーヌがこの数年、クロードの姿を見ていないからだ。


 幼い頃は、セドリックとクロード、アルベルティーヌの三人で、よく遊んだものだった。

 クロードは「にいさま、にいさま」とセドリックの後をついて回り、セドリックもそんな異母弟を可愛がっていた。

 「アリーねえさま」と慕ってくれるクロードのことを、アルベルティーヌも好ましく思っていた。


 クロードに会えなくなったのは、セドリックの実母である前王妃が亡くなってからだ。

 暗殺の恐れがあるなどとして、母親であるドロテが離宮から出さないのだと言われている。学園にも通っていないが、一流の家庭教師が何人もついて、クロードに英才教育を施しているそうだ。


 そんな対抗馬がいながら、第一王子派と第二王子派で目立った派閥争いが起きていないのは、セドリックに公爵家という強力な後ろ盾があるからだ。


「なのに今それを失えば、確実に第二王子派に付け込まれるわ。ララさんの実家の男爵家には、セディの後ろ盾になれるような力はないし……」


 それどころか、爵位返上も視野に入るほど困窮しているらしいということを、アルベルティーヌはここ一ヵ月の調査で把握していた。

 ララがセドリックに近づいたのは、あわよくばの玉の輿目当てでは、とアルベルティーヌは勘ぐっている。

 だが、そうであればセドリックだって気付くはずなのだ。セドリックはおっとりしているようで、そういったことに鈍感な人ではない。


 いずれにせよ、ララが純粋な恋心だけでセドリックの側にいるとは思えない。

 図書館で相対したとき、おろおろと戸惑ったような表情のララの目に、ほんの一瞬、状況を面白がるような色が浮かんだことに、アルベルティーヌは気付いていた。


「そもそも後ろ盾云々以前に、皆の前で婚約破棄だなんて醜態を演じた時点で、セディは求心力を失ってしまうわ……」


 学園内で公然とララを連れ歩くセドリックに、密かに侮蔑の視線を送る者は多い。

 さらなるスキャンダルを起こせば、クロード自身はともかく王妃が黙ってはいないだろう。


「私がセディの立場なら、どんなにララさんに心を奪われたとしても、婚約破棄などしないわ。公爵家の娘と結婚した上で、王太子になり、その上でララさんを愛妾にする」


 婚約破棄などしてしまったら、セドリックは王太子にはなれないだろう。

 そんなこと、セドリックだって分かっているはずなのに。


「それなのに、どうしてそんな馬鹿なことを……」

『……真実の愛のためだろう』


 ずっと黙っていた男の声が答えた。


「恋だの愛だののために、全てを無駄にするというの?」


 王太子になるためにセドリックがどれほどの努力を重ねてきたか、アルベルティーヌはずっと間近で見てきた。

 アルベルティーヌ自身にも厳しい妃教育が課されたが、二人で励まし合いながら乗り越えてきたのだ。

 そんな日々を全て無駄にしてでも、ララとの未来を選ぶということなのだろうか……。


『恋は人を愚かにする。セドリックにとっては、王太子の地位よりも真実の愛の方が大切だということだ』


 男の声は静かで、けれど容赦なかった。


「……私は嫌よ、婚約破棄なんて」


 アルベルティーヌは声を絞り出す。


「こうなったら、明後日のセディの計画をぶち壊してやるわ!」

『それは駄目だ!』


 突然大きな声が頭の中に響き、アルベルティーヌは飛び上がった。


「ちょっと! 急に大声出さないでよね!」

『すまない……。だが、婚約破棄を阻止してはいけない。そのまま受け入れるんだ』

「なぜ? 阻止するために事前に教えてくれたんじゃないの? 私、婚約破棄なんて受け入れられない。だって私はセディのこと今でも……」

『あの男は駄目だ。あの男と結婚したら、君は不幸になる』

「……それも、未来が分かるというあなたの異能で知ったというわけ?」

『そうだ。セドリックと結婚し王太子妃となった君は、何度も命を狙われ……ついには毒を盛られ、血を吐いて死ぬ。お腹に宿っていた赤子もろとも……』


 男の語る内容に、アルベルティーヌは息をのんだ。


『おそらく王妃の差し金だろう。悶え苦しみながら息絶える君を前に、セドリックは何もできなかった……。あの男は駄目だ。君を守れない』


 男の声には、はっきりとした失望の色があった。


『……君に本当に伝えたかったのは、ここから先の話だ』

「どういうこと?」

『君への婚約破棄を宣言したセドリックは、廃嫡されることになる。そして、王太子には第二王子クロードが指名される』


 アルベルティーヌは無言でうなずいた。


『そして、セドリックとの婚約を解消された君は、今度はクロードの婚約者になる』

「なるほど……」


 それは大いにありうる話だと思えた。

 公爵家からの慰謝料を回避しつつ、クロードの後ろ盾を得たい王家。

 公爵家の体面も保たれる。

 アルベルティーヌの受けた妃教育も無駄にはならない。


『だが、クロードと結婚しても、君はやはり暗殺される』

「えっ」

『嫁姑問題、と言えばいいのだろうか。君は大人しく王妃の駒でいるような人じゃないからね。君を疎ましく思うようになった王妃が君を排除しようと……。クロードも、君を守ろうとはしたようだが……』


 男の声が苦しげなものになる。


「……つまり、どう転んでも、私は王妃様に毒殺される運命にあるということね」

『そうだ。だから、セドリックとの婚約が破棄されても、クロードとの婚約を受けてはならない。公爵家の力をもってすれば、婚約を突っぱねることもできなくはないはずだ。そのためにも君は、婚約破棄と同時に外国に逃れて欲しい。王家の手の届かないところへ……』


 アルベルティーヌは無言で、男の話を頭の中で整理する。

 姿も、名前すらも知らない謎の男。

 確かに、未来を知る能力を持っているのだろう。その内容も決して荒唐無稽なものではない。

 だが、本当に信用してもいいのだろうか……。


『アルベルティーヌ、どうか信じて欲しい……。君は賢くて強くて、眩しいほどに美しい人だ。新天地で、必ずや幸せを掴むことができると信じている……』


 深い溜息を一つつき、アルベルティーヌは心を決めた。


「信じるわ。あなたのこと」


 素性も分からない男。

 だがその言葉から、声から、吐息から、心からアルベルティーヌを案じていることが伝わってくる。


「明後日の婚約破棄の邪魔はしない。クロード殿下との婚約も断るわ」

『ありがとう、信じてくれて……』


 男が吐息混じりに呟く。

 その声音には、安堵と共に、切なさが混じっているように、アルベルティーヌには思えた。


『ではこれで、君との交信を終えようと思う。さようなら、アルベルティーヌ。どうか幸せに――』

「待って!」

 

 アルベルティーヌは、鋭い声で男を呼び止めた。


「一度この交信を終えてしまうと、二度と私と交信することはできない。そう言ってたわよね?」


 他人の頭の中に直接話しかけるという男の異能も、万能ではないらしい。同じ人物と交信できるのは一度きり。だから男とアルベルティーヌは、昨日の夜からずっと、交信を繋いだままにしていたのだ。


「だったら最後に、聞いておきたいことがあるの」

『――答えられることならば』


 アルベルティーヌは緑の瞳を煌めかす。


「あなたの名前を教えて。恩人の名前も知らないままだなんて、そんな恩知らずにはなりたくないわ」


 男は声を発しない。密やかな息遣いだけが頭の中に響く。


「……そう。教えてはくれないのね。いいわ、勝手に予想するから。そうね、まずあなたは私をよく知っている人。きっと、私もあなたのことを知っている。あなたの声、最初に聞いたときから思っていたのよ。くぐもっていて、声を変えているようだけど、誰かに似てるって」

『……』

「それと、あなたの異能。異能自体とても珍しいものだけど、未来を知ることができるというのはさらに稀だわ。『時』にまつわる異能は、特定の血筋にしか現れない――王家の血筋にしか」


 それは公にはされていない事実。だが、すでに妃教育を終えたアルベルティーヌは、そういった王家の秘密の一部についても知らされていた。


「王家の男性で私をよく知る人といえば、国王陛下、クロード殿下、そしてセディ。『時』の異能はあまりにも特殊で強力だから、発現しても公表はしないきまりになってる。だけど、もしセディにそんな異能が発現していたら、婚約者の私に知らされていないとは思えない。少なくとも、セディが他人の頭の中に語りかける異能を持っていないことは確かだわ。残る候補は二人だけど、国王陛下の声にしては、あなたの声は若すぎる」

『……』


 それでも男は答えない。


「……ねぇ。私、あなたに会いに行きたいわ。全てが片付いたら。直接お礼を言いたいの」

『……それはできない』

「なぜ?」

『僕は、自由に出歩いたり、人と会える立場にない』

「どこかに囚われているということ?」

『……』


 ここでの沈黙は肯定を意味していた。


「だったら私が助けに行くわ。私自身にはたいした力はないけど、お父様に仕えてくれている影はとっても優秀なの」

『……無理だよ。どんな手を使ったとしても、それは不可能なんだ』

「どうしても?」

『どうしても』


 男の声は頑なで、そして悲しげだった。


「分かったわ。じゃあ、次で最後の質問にする。あなたも囚われの身でありながら、貴重な異能を使って私に未来のことを教えてくれたのは、なぜ?」

『それは……君を守りたいからだ、ベル』


 優しくて切実な声に、アルベルティーヌは息をのむ。

 

「あなたは――」


 けれどそれを最後に、男の声がアルベルティーヌの頭に響くことは、二度となかった。






 アルベルティーヌはすぐさま動いた。

 二日後の卒業パーティーまでに、話をつけておくべき人物が二人いる。

 信頼できる侍女を呼び寄せ、指示を出した。


「大至急、お父様にアポイントを取ってちょうだい。お父様の可愛いアリーから大切なお願い事があるのです、と。それから、男爵家のララ嬢に遣いを。明日、我が屋敷にご招待したいと。いいえ、こちらから出向きましょう。それだけのお願いをするんですもの、礼儀は尽くさなくてはね」









 二日後。

 華やかなる卒業パーティーの場で、セドリックが高らかに宣言した。


「公爵令嬢アルベルティーヌ、今この場で、君との婚約を破棄させてもらう」


 第一王子の突然の振る舞いに、会場は驚きと戸惑いのざわめきに包まれた。

 自然と人垣が割れ、セドリックとアルベルティーヌとを遮る者はいなくなる。


 こうなると聞かされていてもなお、アルベルティーヌの心臓はドクドクと嫌な音を立てた。

 けれどそれを表情には出さず、毅然と顔を上げて冷静な視線をセドリックに返す。


「理由をお聞かせ頂けますでしょうか」


 セドリックはアルベルティーヌの視線を真っ向から受け止めた。


「……真実の愛のためだ」


 そう答えるセドリックの傍らには、ララの姿がある。

 セドリックに寄り添い、不安そうに眉を下げるララは、儚げな美少女にしか見えない。


 たいした演技力だこと、と感心しながら、アルベルティーヌは前日のララとの対面を思い出す。




 質素な男爵邸を密かに訪ねたアルベルティーヌを、ララは余裕の笑みで出迎えた。


「ごきげんよう、アルベルティーヌ様。せっかくお越し頂いたのに申し訳ないですけど、あたし、セドリック殿下を裏切るつもりはありませんわ」


 ララを見据えたまま、アルベルティーヌはローテーブルの上に札束を積み重ねていく。

 それにちらと目をやり、ララは唇を舐めた。にやりと口角が上がる。


「……まあ怖い。でも、そうですわね、条件次第では――」




 そんな本性を綺麗に隠して舞台に立つララから、再びセドリックに視線を戻す。


「真実の愛、ですか。……他にやりようはなかったのでしょうか」


 束の間、アルベルティーヌとセドリックの視線が絡む。

 先に逸らしたのはセドリックの方だった。


「……君にはすまないと思っている。だが、考え直すつもりはない」

「分かりました。ならば仕方ありません。婚約破棄のお申し出、謹んでお受けいたします」


 美しい淑女の礼とともに答えると、セドリックの瞳に動揺の色が浮かんだ。アルベルティーヌがあっさり応じるとは思っていなかったのだろう。


「アルベ……」

「そこまで」


 厳粛な声音は王妃ドロテのものだった。

 その場の最高権力者の登場を前に、皆が畏まる。


「騒ぎが起きていると呼ばれて来てみれば。第一王子ともあろう者がなんと情けないことでしょう。婚約者以外の女性に現を抜かした挙げ句、このような場で一方的に婚約破棄を宣言するとは……。恥を知りなさい、セドリック」


 王妃から叱責を受け、セドリックがうなだれる。


「あなたには当面の間、北の塔で謹慎することを命じます」

「承知いたしました……」


 衛兵に引き立てられるようにしてセドリックが退出すると、王妃はアルベルティーヌに目を移した。

 先ほどとは打って変わって、労るような微笑みを浮かべている。


「アルベルティーヌ、そなたには辛い思いをさせましたね。今後のことは後日、場を改めてお話しましょう。今日のところは帰っておやすみなさいな」

「……王妃殿下のお心遣いに感謝いたします」


 優雅な礼を披露し、アルベルティーヌは会場をあとにした。

 ホールを出て、人の目がなくなるなり、廊下を小走りに駈け出した。


 堂々と振る舞う王妃の瞳の中にちらりと浮かんだ、仄暗い喜悦の色を思い出す。

 セドリックの失態に、内心では快哉を叫んでいるに違いない。

 数日後に国王が外遊から戻り次第、セドリックの廃嫡が決まることだろう。

 そしてほどなくして、アルベルティーヌのもとにはクロード王子との婚約話が舞い込むはずだ。


 その前に動かなければならない。

 アルベルティーヌは、アルベルティーヌの計画のために。

 そのための布石は、一昨日のうちに父に依頼し、すでに打ってある。


「お父様。大至急、安全な留学先をご用意頂きたいの。早ければ三日後には出立できるように。ただね、その前にぶっ潰しておきたい相手がいるので、ご助力頂きたいのです。お父様の可愛いアリーからの、一生のお願いですわ。お父様にお願いしたいことは――」


 猶予はそれほどない。

 まずは今宵、アルベルティーヌは、囚われの人を救いに行く。






 雲が月を覆い隠す中、黒い影が音もなく走る。

 次の瞬間、見張りの衛兵が二人、声を発する間もなく昏倒した。


 堅牢な扉の前に忍び寄る三つの黒い人影。三人とも、全身黒い衣服に身を包み、顔を隠している。

 そのうちの一人が、懐から取り出した道具で錠前を外す。扉に耳を推し当て、しばらく中の気配を探ってから、残る二人にうなずいて見せた。


 最も小柄な人影が、それにうなずきを返し、扉に手をかけた。


 重い扉を開き、滑るように中に入り込む。

 顔と頭を覆う布を取り去ると、燃えるような赤毛が波打ち、緑の瞳が煌めく。

 中にいた人物が呆然と目を見開いた。


「ベル、どうして……」


 勝気に微笑み、アルベルティーヌは答えた。


「助けに来たわよ、セディ」











「――ではセディ。聞かせて頂きましょうか。どうしてこんな馬鹿げたことをしたのか」


 公爵家の影によって護衛された質素な馬車の中。

 アルベルティーヌは厳しい表情で、正面に座るセドリックを見据えた。

 セドリックはしばらくの間黙ってうつむいていたが、やがて意を決したように顔を上げた。


「……君を守るためだ、ベル」

「それは知ってるわ。聞いたもの、未来のあなたに」


 セドリックが目を瞠った。


「まさか、君のもとにも交信があったのか? ……未来の僕から」

「ええ、三日前の夜、突然にね」


 アルベルティーヌの頭に直接語りかけてきた謎の声。

 その男の異能についてアルベルティーヌは最初、他人の意識に直接語りかける能力と、未来予知の二つを併せ持っているのだと考えていた。

 だが、二つの異能を併せ持った例は聞いたことがない。

 一方で、かつての王族の中に、『時』の異能として過去や未来の人物と交信した例があることを、アルベルティーヌは妃教育を経て知っていた。


「二十歳を超えた頃、突然この異能に目覚めたんだと、未来の僕はそう言ってたよ」

「そういうことだったのね」


 どうりで、婚約者でありながらセドリックの異能を知らされていなかったわけだ。異能が発現するのは約二年後。現時点ではまだ発現していないのだから。


「……だけどたぶん、あなたが交信したセディと、私が交信したセディは、違うセディだったのだと思うわ」

「……どういう、意味?」


 セドリックが訝しげに眉を寄せる。


「セディ。未来のセディから交信があったのは、いつ?」

「今から一ヵ月ほど前のことだ」


 アルベルティーヌは小さくうなずく。

 一ヵ月前といえば、セドリックが急にアルベルティーヌを避け始めた時期と一致する。


「未来のセディは、あなたに何を伝えたの?」

「……僕と君が結婚したら、君は命を狙われ続け、お腹の赤子もろとも毒で命を落とすことになる、と……」


 そう説明するセドリックの声は震えており、彼がその未来を心の底から恐れていることが伝わってきた。


「だから絶対に君との婚約を破棄しなければならないと……」

「なるほど。思ったとおりね」


 セドリックが目線で先を促してくる。


「私に交信してきたセディの話には、さらに続きがあったわ。婚約破棄された私は、今度はクロード殿下の婚約者になる。けれど王妃様に疎まれて結局は若くして暗殺されることになる、と」

「なんだって……?」


 セドリックが唇を震わせた。


「だから、婚約破棄されても絶対にクロード殿下との婚約を受けてはならない、断るために国外に逃れてほしいと。未来のセディは私にそう伝えてきたの」

「そうか……つまり、こういうことか……」


 セドリックは瞬きも忘れて思考に浸る。


「僕に交信してきたセドリックは、君と結婚した未来の世界のセドリックだった……一方、君に交信してきたセドリックは、僕と君が婚約破棄して、君がクロードの婚約者になった未来の世界のセドリックだった……そういうことだね?」


 アルベルティーヌはうなずいて見せる。


「ええ、そうだと思う。未来のセディは、すでに一度過去のセディと交信し、婚約破棄を指示してしまった。だから、もう一度セディと交信して方針を変更するよう伝えることができなかった。同じ人物と二度と交信できないというのは、かなり厳格なルールのようね。だから、婚約破棄を前提に暗殺の未来から逃れられるよう、今度は私に交信を試みた。……名前も素性も明かさずに」


 セドリックが目を瞠る。


「未来の僕は君に名乗らなかったのか……いや、そうだな、僕ならそうする。僕のことを忘れて新しい人生を歩いて欲しいと思うなら。……でも、だったらなぜベルは、声の正体が未来の僕だと……?」


 アルベルティーヌは小さく微笑んだ。


「すぐには気付かなかったわ。悔しいけど。声を少し変えていたし、異能の内容についても誤解していたから……。だけどあの声の主は、心から私のことを案じてくれていた。悲しいくらいに。声だけでも、それは分かったの。だから、もしかしたらと思った。いえ、そう思いたかっただけかもしれない……。確信したのは最後の最後よ。あの声が、私をベルと呼んだときに」


 セドリックが目を瞬く。

 アルベルティーヌは口の端を上げた。


「知らなかった? 私をベルという愛称で呼ぶのは、セディ、あなただけなのよ。あなた以外には許していないの」


 しばらく呆然としてから、セドリックは力なく自嘲の笑みを浮かべた。


「……そうか、君には何もかもお見通しだったんだな。でも、じゃあなぜ僕を連れ出すの? 君のことだ、すでに国外に出る手筈は整えてるんだろう?」

「ええ、お父様に依頼済みよ。その気になれば明日にでも出立できるわ。……でも」


 アルベルティーヌはそこで言葉を切り、表情を消した。


「あなたの問いに答える前に、私の最初の質問に答えてちょうだい。なぜ、こんな馬鹿なことをしたの?」


 セドリックは唇を噛む。


「……どんなに愚かなことをしてでも、君を守りたかった。絶対に守ると、約束したから――」

「私だって約束したわ! あなたを守るって!」


 叫ぶように言い、アルベルティーヌはセドリックを睨み付ける。


「なのに、どうして相談してくれなかったの!?」


 溢れ出した感情と共に、緑の瞳から大粒の涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。


「ひどいわ、いつまでもどこまでも、一緒に行こうって、約束したのに……自分一人を犠牲にして、それで済ませようだなんて……!」


 声に嗚咽が混じる。


「……ごめん、ベル、本当にごめん……」


 セドリックがおずおずとアルベルティーヌを抱き寄せる。

 その胸にしがみつき、アルベルティーヌは声をあげて泣いた。





「さあ、ここからが本題よ。二つの道を用意したわ」


 散々泣いてスッキリした顔で、アルベルティーヌは指を二本立てて見せた。


「このまま二人で外国に亡命する道が一つ」

「もう一つは?」

「もちろん、戦う道よ。王妃様をぶっ潰して、あなたは王太子に、私は王太子妃になる」

「王妃殿下をぶっ潰すって……」


 不敵な笑みを浮かべてとんでもないことを言い出したアルベルティーヌに、セドリックが目を瞬く。


「実はララさんを買収してあるの。あなたを王位継承争いから引きずり下ろすためにハニートラップを仕掛けた、王妃殿下の指示で――そう証言してくれるようにね。セディはそれに気付いていながらララさんを泳がせていた、と、そういう筋書きよ。ああ、情報操作は公爵家の十八番だから任せてちょうだい」

「ハニートラップって……。だって、ララ嬢は僕の依頼で偽の恋人役を演じてくれていただけで……」

「ええ、ハニートラップというのはもちろん嘘よ。だけど、この程度の嘘、可愛いものだと思わない? ……暗殺に比べれば」

「それはそうだけど、暗殺はまだ起きていない未来で……」

「私の暗殺は、ね」

「……まさか」


 二人は声を潜める。


「前王妃様――セディのお母様の急な病死にはドロテ王妃殿下が関わっていると思う。毒を扱うのがお得意のようだしね。今、お父様の影が証拠を集めているところよ。必ず見つけ出してくれるわ」


 見つからなければ作るまでよ、というのは言葉にしないでおく。


「……ララ嬢の身の安全はどうなる?」

「もし戦う道を選んだ場合、ララ嬢には証言をして頂き次第、私達の代わりに国外に亡命して頂くつもりよ。多額の餞別と、病身のお父上と一緒にね」


 ララと対面したときのことを思い出し、アルベルティーヌは口の端に笑みを乗せた。


「彼女、面白い人ね。信頼できる。どんなに大金をちらつかせても、先に受けたあなたの依頼に反することはしないと言い切ったわ。その上で、それと両立することなら条件次第では受けると、堂々と私に言ったのよ。肝が据わってるわよね」


 そこでアルベルティーヌは、少しばかり意地悪な笑みを浮かべてセドリックを見た。


「私、彼女のことが気に入ったわ。ほとぼりが冷めたら呼び戻して側に置こうかしら」

「う……さすがにそれは勘弁して下さい……」


 婚約者と元恋人(偽)が二人で談笑するシーンを思い描いたのだろう。セドリックが泣きそうな顔でうなだれる。

 その様子に、アルベルティーヌは溜飲を下げることにする。この一ヵ月、アルベルティーヌは大いに傷ついたのだ。これくらいの意地悪は許してほしい。

 冗談よと笑って見せ、アルベルティーヌは居住まいを正した。

 セドリックも背筋を伸ばす。


「セディ、あなたが選んで。亡命か、戦いか」


 アルベルティーヌはまっすぐにセドリックを見つめる。

 透き通る青の瞳の中に、燃えるように煌めく緑の瞳が映る。

 セドリックが、ふっと微笑んだ。


「……ベルは本当に格好いいなぁ。君がいれば、なんだってできるような気がするよ」

「あなたがいるからよ、セディ」


 アルベルティーヌも微笑みで応える。


「一緒に戦ってくれないか、ベル」


 セドリックが右手を差し出す。アルベルティーヌはそれを、力強く握り返した。


「共に行きましょう。いつまでも、どこまでも」











 一ヵ月後、王妃ドロテは、病を理由に離宮で隠居することが決まった。

 その実態は、前王妃の暗殺と、第一王子セドリックを陥れようとした罪を理由とする生涯幽閉である。


 それと同時に、第一王子セドリックが立太子された。

 王太子セドリックと、婚約者の公爵令嬢アルベルティーヌはその一年後に結婚。三人の子宝にも恵まれた。


 後に二人は、優しき王と賢き王妃として長きにわたり善政を行った。

 王弟クロードもそれをよく補佐したと伝えられている。


 セドリックとアルベルティーヌの仲むつまじさは有名で、いついかなるときも互いに寄り添い合っていた。

 そしてアルベルティーヌが一足先に老衰で息を引き取るその瞬間まで、互いの手を離すことは二度となかったのだった。









〈了〉


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