欲望 ②
全ての人間の男性が恐怖する存在『サキュバス』。
その姿を見た者=死、という最悪な存在である。
サキュバスは『魅了』という能力により、一瞬で戦闘不能にし、その性(生命)を吸う。その容姿は一定の姿をしておらず、個体によってさまざまな形をしている。ある者は人に近くそしてある者は獣に近いと‥‥。
そして今日、サキュバスの一体が一人の男に手を掛けようとしていた。醜い人の姿をした個体は、他の町で5人の男の命を奪い、そのまま北へ移動したまたま鉢合わせた男を意識不明に落とした。
サキュバスは思う、この餌は上物だと‥‥。
今まで食ってきた餌とは違い、今までとは違う香りがする。
十分に腹は膨れていたが、それよりも未知の香りに引かれ、倒れている餌に手を伸ばした。
「私の縄張りで何をしているの?」
不意に後ろから声を掛けられる、それは女の声で少しだけ怒っているような口調であった。サキュバスは餌に伸ばそうとしていた手を引っ込め臨戦態勢に入る。
「まったく‥‥、変な匂いが漂ってくると思ってたら‥‥、いいこと? ここは私の縄張りなの、だからこの場から大人しく去りなさい」
声の主はグンサーどころか、フグラーシェマ王国にその名を知られている、サキュバスの女王と呼ばれた女性‥‥、パラムだった。
常に自身の住む4階の建物の中におり、滅多な事では外に出ない彼女が、グンサーのはずれにあるこの工房まで出て来ていた。
人間にはその生態が知られていないサキュバスだが、彼女らはそれぞれ縄張りを持っており、他のサキュバスの縄張りには決して近づこうとしない。
だがこのサキュバスは目の前の未知の臭いに引きつけられ、引こうとはしなかった。餌には明らかにパラムの臭いが染みついていたが、食欲が優先していた。
ここがパラムの縄張りだとは分かっていたが、どうしても諦めが出来なかった。どうしてもこの餌の味を確認したいと‥‥。
ならばこの女からこの餌を奪ってしまおう。
自然とサキュバスの喉からは威嚇にも似た唸り声が上がる。
「私の言っている事が聞こえないの? その子は私が目を付けていたの。今ならまだ許してあげるからここから消えなさい」
パラムはそう警告するが、サキュバスは唸り声をあげたまま最高の餌を取られまいと、餌を自身の後ろに隠すように立つ。
そしていつでも餌を持って逃げられるように、餌の腕を掴んだ。
「‥‥‥どうやら、言葉も分からない馬鹿のようね」
それまで眉一つ動かさなかったパラムだったが、サキュバスがパラムのお気に入りの男であるゴテの手を掴んだ瞬間。
『ギリッ!』 そいう音が聞こえそうな位目元を歪ませた。
「そう、分からないのね? ならお仕置きしてあげないとね」
誰も聞いたことのないような低い声で言い放つパラムには、いつもゴテに語り掛けるような優しい表情は無かった。
そのまま手を自分の髪にあて、髪を結うために刺していた簪を抜くと、パラパラとほどけ、その美しい光沢のある髪が揺れる。
抜いた簪は、パラムという名の由来でもあるこの世界の花と、前世の名である『梅』の花が重なるように装飾をされたもので、髪にさす方の部分は鋭く尖っており、まるで針のように長かった。
パラムの抜いた簪を見て、自分の攻撃だと判断したサキュバスは、人には聞こえない高周波の音を喉から出す。
その音は出した本人とパラムそして、周囲にいたサキュバスの囲いの魔物にも届いた。
今までどこに隠れていたのか? 数体の魔物がサキュバスを守るようにパラムの前に立ちふさがった。
現在、人が知るサキュバスの生体では、サキュバス自体臆病な存在であり、人が多く住む場所に出て来ることは少ない。だが例外もあり、稀にサキュバスには魔物のオスが取り巻きに付く事がある。
サキュバスのメスの臭いにつられ集まってくるのだが、サキュバス自身は魔物のオスからは性を取る事は出来ない。
だが自信を守るための護衛として、魔物の取り巻きを利用する事がある。
人からして見たらそれが一番厄介なものになる。サキュバスを討伐しようにも、男は全て『魅了』の影響を受け戦闘不能になるし、残された女たちは男の力無しで取り巻きの魔物を倒さなければならない。
サキュバス単体なら子供でも倒すことが出来るが、魔物が相手となると厳しくなる。
普通この状態ではパラムに勝ち目は無かった。
だがパラムは『普通』ではなかった。
「邪魔よ、退きなさい」
パラムもまたサキュバスだった。
たった一言で魔物達は大人しくなり、パラムに道を開ける。
守ってくれると思っていた魔物達に裏切られ、今逃げれば助かっていただろうが、餌の誘惑に勝てなかったサキュバスは、その餌を持って逃げようとするが、その前にパラムの手がその髪を鷲掴む。
「汚い手でそれに触るな」
パラムに躊躇することは無い。そのまま持っていた簪の先端をサキュバスの首に向け深く差し込んだ。『ギュ!』と悲鳴のような声がサキュバスの口から出て来るが、そのままパラムは刺した簪を捻ると、サキュバスは痙攣をした後、クタッとその体から力が抜けていった。
殺したサキュバスを転がすと、意識の無いゴテの側に座るパラム。
「汚れてしまったねゴテ君、大丈夫私が奇麗にしてあげるから」
懐から布を取り出すと、サキュバスに掴まれていた腕の部分を拭きだした。それは腐った物を取り除くようにゴシゴシと力を込めて‥‥。
力を入れて拭いている為、直ぐにゴテの腕は真っ赤になっていく。それを見て満足したのか。
「よし、奇麗になったねゴテ君」
赤くなった腕を見てパラムは少し考える。
「‥‥‥」
今は誰も見ていない、ゴテも意識が無い。
「‥‥‥」
今なら‥‥。
「ゴテ君‥‥さっきは危なかったね、私が来なかったら今頃もう死んでいるよ? だから‥‥少しくらいお礼をさせてもらってもいいよね?」
パラムはずっと我慢していた。初めてゴテを目にした時からずっと、その欲望を‥‥。
その美しい顔を近づけて行き、パラムは迷うことなくゴテの唇に自分の唇を合わせた。
「んっ‥‥」
合わせた瞬間にパラムから声が漏れ、ピクッと彼女の体が震える。こすり合わせるように唇を動かし、ゆっくりと唇を離す‥‥。
パラムの顔は気持ちが高揚しているのか真っ赤に染まっており、ゴテの顔をみたままうっとりとしていた。そして今離したばかりの自分の唇に手をゆっくり当てると‥‥。
「‥‥美味しいぃ‥‥」
恍惚とした表情でそのキスの『味』を言葉に漏らす。
パラムがしたのは、ゴテに対する愛情表現ではなく食事の為の行為だった。
パラムの本質はサキュバス、男とはただの『食料』でしかなかった。ゴテも自身の食料としてしか見ていない、しかも特別な食料として。
彼女が行った行為は、別名『サキュバスの口づけ』と言われている行為。
通常サキュバスは魅了で相手を意識不明にした後、その生を奪う。だが稀に自分が気に入った餌がいると、生を一度に奪わず生きたまま少しずつ、甘いお菓子を食べるようにゆっくりと奪っていく。
パラムは最初にゴテを見た時から、その異質な匂いをかぎ分けていた。そして一瞬で分かった。彼は転生者ではなく転移者だと。
そして思った。
『あの子は一体どんな味がするのだろう』と。
この星の人間ではない、別の‥‥自分が前に生きた世界の人間の『生』はどのようなものだろう?。
結果‥‥彼女が初めて味わった『生』はこの世のものとは思えない程の美味であった。それは今まで食べた食料や生など価値が無いと思えるほど‥‥、そして目の前にはまだそれがある。
「もう少しだけ‥‥」
ここにはサキュバスの死体もある、もし全て生を奪ったとしてもこのサキュバスの所業にすれば、自分の仕業にはならないだろう。
「ごめんねゴテ君‥‥」
パラムが唇を合わせようとした瞬間。
「何をしている」
後ろからの男性の言葉と同時に首の後ろに冷たい感覚が走る。そしてその感覚は直ぐに熱いものへと変わり、パラムは動きを止めるしかなかった。
男の声の主の名はフェルド、ゴテが最初に会った人間である。そのフェルドの持つ槍の先がパラムの首に突きつけられており、その槍の先からわずかにパラムの血が浮き出し、パラムの首筋から滴っていた。




