人間とは「じんかん」と読めば世間とほぼ同義となる言葉である。
ローザティアの右頬の傷は、私の諍いでついた傷であった。ローザティアは私と仲が良く、よく遊ぶ間柄だったのだ。灰色の髪を持つ私はいじめられることも多く、腕っぷしが強いわけでもないので殴られたりけられたりは日常茶飯事であった。
ローザティアはべそもかかずに立ち上がる私の前に現れては、いつだった偉そうに「頑張りなさいよね!」と言い放った。
私はそれがひどく嫌いだったことを覚えている。何を頑張るのだ。――殴られることを頑張るのか。棍棒で叩かれることを頑張るのか。役に立ちますってか。私は当時からローザティアのことが嫌いだった。下手をすれば、私を殴ってくる奴よりずっと。
だから、謝る気も起きなかった。私がまだ幼かったころの話。リアティティが教師になって、多少は慣れてきたころだったと思う。
「灰色は死ねよ!」
張られた横っ面はびりびりとしびれるような感覚を持つ。それからだんだんじーんと熱を持つ。拳で殴られなくてよかったと思った。
並んだ金髪、白髪、銀髪。三つの氏族の中で、灰色に一番苛烈だったのは金髪の氏族だった。白と銀が縁戚であったがゆえにややおとなしいのとは裏腹に。
「何とか言ってみろよ、アンネメナス」
「……」
「ッ、そのすまし顔がイラつくんだよ」
金髪の少年……名前はもう忘れてしまった。八十年近く会っていないとそんなものである。とにかく、その子は私をこれでもかとばかりに殴って蹴った。私は何も言わなかった。
やめてと泣いても、やめろと怒っても、やめてくださいと笑っても。しくしくもぷんすかもへらへらも同じ結果につながるって知っていた。
ローザティアは私がいじめられている場所に現れたのだった。
「やめなよ、アンタたち」
「……なんだよ、お前には関係ないだろうがよ」
「関係なくなんてないよ。アンネメナスは私のお友達だもの」
得意げにそういった彼女の背中を見て、首を振った。誰が、いつアンタと友達になったんだよ。そう言いたかった。
「灰色と友達なんて、裏切り者だぞ!」
「どうでもいいわよ、そんなこと」
どうでもよくなんかない。この髪の色こそ、社会では重要なのだから。私がどう生きるかを左右するのだから。知らない人間が横から何を話すつもりなんだ。
「味方するなら、お前も――」
誰かが、石で作ったナイフを手に持っていた。それでもローザティアは私の前に立って――。
右頬に大きな切り傷を作ってめそめそ泣く少女に、私は無感情に言った。
「味方なんて、しなきゃよかったのに。生まれ持ったものが全部なんだから。あんたもみんなと一緒にいじめればよかったんだ」
「わたしは……弱いものいじめはしないもん」
弱いものいじめではない。皆がしているのは、悪いものいじめだ。生まれついての悪、根性が腐った人間が役に立つ方法。
――生まれ持ったものじゃない傷だって、私にもある。
「あっそ。それならローザティア。――頑張りなさいよ」
無駄だろうけど。その一言はひっこめたが、言外の意味は通じたと思う。
その後、リアティティがローザティアの傷を見て加害者の少年に激怒していた。私のいじめがきっかけだと知って、呼び出されて私も怒られた。納得いかない。
それ以来、ローザティアとは学び舎では話さなかったが、卒業と同時に絡むようになってきた。当てつけのように私の努力を無駄だと言ってきたのは。きっと、私が言った言葉を否定したかったからなのだろう。私自身に否定させたくて、だから嫌味っぽく言ってきたのだろう。
そんなローザティアが私は大嫌いで。他方でちょっぴりだけ尊敬もしていたと思う。
でも、それでも。私に随分好意的だったローザティアですら、灰色の髪の毛に嫌悪感が滲んでいたのだった。
死体は、焼け爛れて元の皮膚も綺麗だった金髪もほとんどわからなかった。そうした状態を隠すためか、死人に必要ないはずの包帯が皮膚を覆っていた。
「アンネメナス、来たか」
「先生……」
彼女の葬式には礼服をきたリアティティも来ていた。私は礼服など買う金もなかったので普段着だ。
私の服装に一瞬不快感をあらわにしたが、金が無いことに思い至るとため息をついて外へ出るように身振りで合図した。それに従い素直に外に出る。
「まさか、こんな……いいやつだったのに、どうして」
「…………いいやつだったからかもしれませんね」
私に言葉にどういうことだと迫ってくる。
「別に、変なつもりはありませんよ。私なんかも庇うお人よしですからね、トラブルに巻き込まれることもきっと多かったんじゃないでしょうか」
「……なんだ、それは……お前、言ってることの意味が分かってるのか」
「はい?」
リアティティは顔から血の気が失せていた。信じられないものを見るような目で、私を見ている。
「ローザティアは焼けて死んだんだ。これが事故じゃないなら、他殺によるものだって言うなら……炎の妖精が関係するって言うのか?」
「……別に、炎の妖精だけとは言ってないですよ。人間と諍いになったのかも、という話です」
咄嗟に言い訳を並べる。昨日妹から聞いた話に引っ張られて、殺されたという前提で話してしまった。犯人や事件の事情を知っているかのようにリアティティから見られてしまうのも仕方がない。
リアティティはそうか、と息をついた。
「私もな、実はお前と同じ結論だった。あの焼死体は事故なんかではありえない。第一、ローザティアは水の妖精と仲がいい。契約には至っていなくても彼女がやけどをすること自体あり得ないんだ」
「つまり」
「ああ。間違いなく彼女は殺された。人間か、あるいは……炎の妖精と契約した、灰色の髪の誰かに」
「……」
「お前……はないな」
私をちらと見てから、首を振る。どうして理由もなく除外されたのか。
「どうして私は無いんですか」
「そりゃお前、根性無しに人が殺せるか」
失礼な。人ぐらい殺そうとすれば殺せる。多分。頑張れば殺せる気がする。そして、根性がないわけではない。腐っているだけであるにはあるのだ。これも口に出せば屁理屈か?
頑張りなさいよ、という声が頭の中で響いた気がした。死んでもやかましいやつだ。
葬儀場に長居するつもりもない。どうせローザティアの母親は私を見れば不快な顔をするだろうし、場合によっては私を殺そうとする。なんせ焼け死んだ娘の前に灰色髪は最悪の組み合わせだ。私は先生との会話を適当に切り上げてかえろうとするが。
「……せっかくだ。飯でもおごるよ」
この人は、私に飯をおごるのがとことん好きらしい。世話焼きというべきなのか。単なる話し好きというべきなのか。仕事なし、金なしの私からすればこの申し出はありがたいというほかないのだが。
「いつものところでいいか?」
安い食堂で済ませようというのは、少しいただけない。まぁ、いただくんだけど。
いつもの食堂で適当な料理を注文する。酒も適当に頼む。
「毎度毎度ありがたいです、先生」
「私はお前がまともな仕事に就くのを期待してるんだがな……」
「まぁ、探してはいるんですけど」
世間話の内容などいつであっても変わらない。仕事がない私と仕事を探せと言うリアティティ。ローザティアが死んでもそのあたりは変わらないらしい。
「で、だ。いつまでも仕事の見つからないお前に折り入って相談があるわけだ」
……そうでもないらしい。私に相談など、リアティティがするはずもなかったから。
「三氏会は今回の事件は事故として処理するらしいんだ」
三氏会はエルフの社会を統括する氏族の重鎮たちの意思決定機関で、事件や事故の操作から裁判まであらゆることを決定する。
灰色髪への扱いは当然冷淡なので正直信用していなかったが、個人的には悪くないと思えた。
「……へぇ、灰色のせいにはしないんですね」
この事件を皮切りに灰色の地上追放なども起こりえるだろうなと踏んでいたので、そのあたりは意外だ。
「捜査もろくにしないんだと」
それは少し奇妙だ。こうした事件は社会の不安をあおるので迅速に捜査するべし、というのがならいだ。それを曲げてまで事故として処分するのか。
リアティティは悔しそうに歯噛みする。
「私は悲しいし、悔しい。ローザティアは良いやつで、妖精とも仲良く、きっと将来は立派な防人になれただろう。土地を愛し、人を愛するに奴だった。それが、未成年だからって軽く扱われるのはおかしいと思わないか……?」
私はつまみを齧りながらリアティティの顔を見る。本気で怒っているらしい。そして、ローザティアが未成年だから軽んじられていると思っているらしい。そうした側面もあるだろう。ローザティアは三氏会から見てもうるさい人間だっただろう。おかしいことにはおかしいと言う存在。誰の顔色も窺わない。うん、やっぱり軽んじられているというよりは疎まれている。
だが、話を合わせるために言葉を並べる。
「それはもちろんおかしな話です。私だってローザティアとは友人だったつもりです。彼女は私にもよくしてくれましたしね。――結局昨日の事だって謝れていないわけで、後悔もある」
「そうか、そうだよな! アンネメナス、お前は出来のいい生徒というわけじゃないが人としての重要な部分は欠落していないようで安心したよ。……本題に入ろう。この事件、お前が解決するつもりはないか?」
「……はい?」
「もちろん報酬は出す。妹の病を治す病院への紹介状も私が隠し、治療費も負担する。だから、お前にこの事件の調査をしてほしいんだ」
「…………成功しないと報酬は出ない、とかありませんよね」
「前金として妹のことは私に任せてくれて構わない。これでどうだ?」
正直、めんどくさい。三氏会がかかわってそうな話に手を出すことの危険性を理解していない私ではない。
だが、リアティティはエルフの中でも名の知れた有力者だしその名前はかなり強い影響を持っている。彼女の名前を出せばある程度は調査できる。それに、妹のこともそうだ。ここで頷かなければ、近い将来に根無し草だ。
「わかりましたよ。情報が集まり次第報告します」
「いや、報告は全貌が分かってからでいい。お前には期待してるんだ」
「……じゃあ、またお力が必要なときに連絡します」
「ま、いいだろう。――さて、食うか」
金のため。妹の病のため。面倒事に足を引っ張られて転ぶことには慣れている。泥も埃も気にして生きているわけではないのだ。
とは思いつつ。探偵ごっこをさせられる羽目になるとは思わなかった。
三氏会が関わる、というのはおおむね私の予測である。彼らがローザティアを疎んじる可能性は大いにあるし、捜査をしないことは何よりの決め手である。……だが、他の可能性はいくらでもある。
本当に事故死であった、という可能性。私は無縁だが、ローザティアは香油を使う機会もあったろうし、そうした香油は燃えやすいことでも知られている。
続いて、地上の連中の可能性。……地上というのは、樹上に比して、地面の上で暮らすエルフたちの事である。地上で暮らすのは犯罪者や灰色髪、極貧の末借金を背負ったものなのである。私もいずれ行くかもしれない場所だ。彼らは荒事に慣れており、場合によれば炎の妖精との契約を済ませている可能性も考えられる。行きたくはないが、彼らの調査も不可避だろう。
そして、最後の可能性。妹が言っていた言葉。炎の妖精の復讐劇。エルフの社会を恨み、その報復を企む炎の妖精による「悪戯」の可能性は極めて高いが。妖精は単独で人を焼くほどの火力を持たないはずだ。持っているとするならば、不完全であったとしても契約している必要があり――。
妹が夢に出る妖精と契約していない保証は、どこにもない。小さく舌打ちをする。三氏会なんかよりよっぽどあり得る話だ。
妹が棍棒で叩かれるわけにはいかない。頑張りなさいよ、なんて。うるせぇ、クソが。言われなくても。張ってるつもりだよ。
リアティティは私の肩をポンと叩いて、期待してるぞなんて言葉を耳元で呟く。ため息が出そうだ。とほほ、って感じだ。まだ何もしてないのに。
髪の色は、私にとっては不幸だった。銀色ではない、灰色。灰色なのだ。汚くて、ぼんやりしてて、重苦しい色で、みんなから嫌われている。髪の毛のせいでいじめられて、性格も根性もひん曲がったんだ。そう思いたいだけなのかも。そうだったとしても、やっぱり耐え難いものだった。でも、肩をすくめてやり過ごすだけ。それでどうとでもなる。気にしたら気にするだけ辛いもの。だから私は気にするのをやめた。他人に感情を振り回されるのは、気分のいいものではない。
今考えるべきことはそういう話ではない。髪の色というのはマイナスに作用するが。しかしそれでも、灰色以外が幸せに暮らせていると思うのなら、それは幻想にすぎないのだ。
「このクソガキ、盗みやがったな――」
「ご、ごめんなさ……」
目の前の光景は、それを証明する。薄汚れた金髪の少年が、八百屋の男に蹴り飛ばされ、怒鳴られている。少年の服は襤褸で、泥に汚れている。泥に汚れているということは、地上から登ってきたのだろう。
「旦那、ちょっといいか」
八百屋の男に気さくに声をかける。男は私をちらと見ると、不快感をあらわにした。灰色が何の用だ、と言いたげな顔である。
「ちょっとそこのガキに用事があってな。こいつの盗んだものの代金は私が払うからさ、私にこいつのことは任せてくれないか」
「……罪は罪、罰は罰だ。庇うつもりなら、てめぇから半殺しにしてやる」
「庇うつもりなんてねぇよ。私はリアティティから受けた仕事でこいつに用があるんだからな。あとで聞いてこればいい」
「……仕方ない。ったく、リアティティは何を考えてるんだか」
リアティティの名前はやはり有効である。それもそうだ。教師という仕事はこの社会の中で最も重要視される職業なのだから。
教師は妖精に愛され、優れた魔法使いとして高名でなければなれない。加えて人品の良さも重視され、初めて教師として認められる。彼女はあれでなかなか優れた人なのだ。
信頼されている人間の名前は便利なものだ。泥に汚れたガキを拾い上げ、金を渡してガキの盗品をちらとみる。生の林檎だった。
「よりによってこんなまずいもん盗みやがって……」
私はその林檎を齧ろうと思ったが。少し考えて、やめた。ガキから地上への伝手を手に入れて、適当に情報を手に入れよう。ひょっとすれば重大な手がかりとつながっている可能性もある。
ガキを家に運ぶ。重い。