わたしは勇者を殺せない
ルーシア・トレムが人買いに売られたのは、一二歳になってすぐの頃だった。
クズな父親が賭博で大負けしてこさえた借金を、娘を売って得たお金で返しましょうとクズな母親がクズな提案をした結果だった。
年齢の割に思考、精神ともに大人びていたルーシアは、人買いに売られたという事実に悲嘆もしなければ、途方に暮れることもなかった。
絵に描いたようなクズ親から離れることができる、絶好の機会だとさえ思っていた。
ただ一つだけ、この身を引き裂かれるよりもつらいことは、たった一人の友達である、クロエ・クロームと別れなければならないことだった。
「村を出ることになったって、嘘だよね……? るーちゃん……」
人買いに売られることになった――と、馬鹿正直に話したら、余計にクロエを悲しませるだけ。
そう思ったルーシアは、ここから遠い地にいる金持ちの家で下働きすることになったと彼女に嘘を伝えたが……それでもなお悲しそうにポロポロと涙をこぼす友達を前に、ルーシアは胸を締めつけられるような痛みを覚える。
「本当よ。……だから、お願いだから泣かないでよ、クロエ……」
取り繕いきれず、情けない声音で懇願してしまったルーシアの表情は、今にも泣き出しそうなほどに歪んでいた。
ルーシアよりも一つ年下のクロエは、友達という贔屓目を抜きにしても可愛らしい女の子だった。
陽光を受ける、背中までかかる長い金髪は、着ている服の見窄らしさを覆い隠すほどに鮮やかな輝きを放っていた。
髪の美しさに彩りを添えるのが、碧い色をした大きな瞳。
顔立ちは小動物のように愛くるしく、こんな名前もない小さな村ではなく、ちゃんとした町の、ちゃんとした家に生まれ育っていれば、さぞかし評判の娘になっていたことだろうとルーシアは常々に思っている。
クロエに比べたら、わたしなんか……と、ルーシアは心の中で卑下しているが、容姿という点においては彼女もクロエに負けていなかった。
クロエとは対照的の銀髪は肩にかかる程度の短さで、蒼い色合いの視線は険しく、顔立ちも険があるが、その全てに気品のようなものが漂っており、見る者が見れば将来彼女が相当な美人になるという確信を得ることができるだろう。
そんな二人が生まれ育った村は、容姿のおかげで人気者になれるような町ではなく、容姿のせいで拐かされることを心配しなければならない、クズの寄り合いのような村だった。
実際、ルーシアの両親はもとより、クロエの両親もなかなかのクズで、父親は酒を飲んではクロエに暴力を振るい、母親はそんな家庭を見捨てて、若い男について行ったきり二度家に帰ってくることはなかった。
お互いにろくでもない両親を持ったせいか、他に年の近い子供がいなかったせいか。二人は知り合ってすぐに意気投合し、今では姉妹のように仲の良い友達になっていた。
その友達が今、わたしの目の前で泣いている。
ルーシアにとってそれは、自分が人買いに売られることよりもはるかにつらいことだった。
「るーちゃん……るーちゃぁん……」
クロエはルーシアの胸に縋りつき、泣きじゃくり始める。
本当は「行かないで」とか叫びたいだろうに、ルーシアを困らせたくない一心でただただ名前を叫ぶクロエの優しさが胸に染みて……堪えきれなくなった滴がルーシアの頬を伝っていく。
「……大丈夫よ。クロエ」
泣いているクロエに余計な心配をかけさせないよう、精いっぱい取り繕った声音で言う。
「お金を稼いで、自立できたら、またあなたに会いに行くから」
人買いに売られた後、自分がどうなるかは全く聞かされていない。
けれど、ルーシアは断言した。
泣いている友達を安心させたい一心で。
「だ、だったら!」
不意にクロエが顔をあげ、宣言する。
「だったらあたしも、お金を稼いで、自立して、るーちゃんに会いに行く!」
お互いにそんなことをしたら、いざ本当に自立して会いに行った際は、入れ違いになってしまうかもしれない。
子供とは思えないほどに冷静な思考を持っていたルーシアは、当然そのことに気づいていたが、クロエにそんな風に言ってもらえた嬉しさの方が強く、ついこんな言葉を返してしまう。
「だったら競争ね。どちらが先に会いに行けるか」
「うん!」
そしてルーシアは人買いに売られ、さらにその人買いを介して全く予想だにしなかった〝者〟に売られることとなる。
ルーシアを買い取った〝者〟は、魔族。
魔獣を使役し、今もなお人間の領域に侵攻を続けている、紛うことなき人類の天敵がルーシアの買い主だった。
◇ ◇ ◇
魔族に買われた人間はルーシアだけではなかった。
ルーシア以外にも、似たような年齢の子供が数人買い取られた。
そしてそのほとんどが、親に売られるかしてこの世の全てに絶望した子供たちばかりだった。
ルーシアたちを買い取った、ザエルという名の魔族は言った。
君たちには、五年後に現れると予言されている勇者を殺してほしい――と。
勇者を殺した者には報酬として、自由と、一生豪遊しても使い切れない金塊、そして、魔族の侵攻を受けた際は見逃してもらえる権利を与える――と。
その権利は勇者を殺した者だけではなく、一〇人までならばその者が望む人間にも与えてやろう――と。
そして最後に、ザエルはこう付け加えた。
この中で勇者殺しの刺客になれる者は、たったの一人だけだ――と。
刺客になれなかった者はどうなるのか、そもそも勇者殺しを断った場合はどうなるのか、ザエルは何も言わなかった。
ルーシアも含めて、人間の領域にいてなおクソみたいな人生を歩まされていた子供たちにとって、勇者を殺したことでその後の世界がどうなろうが知ったことではなかったので、勇者殺しを断った者は一人としていなかった。
ザエルが提示した報酬の破格さを考えたら、勇者殺しを請け負わない理由がないくらいだった。
ただ……
ザエルが約束どおりに報酬を支払う保証はどこにもない。が、勇者を殺しに向かうということは、必然的に人間の領域に戻ることを意味している。
ルーシアにとっては、それだけでも充分だった。
こうしてルーシアを含めた子供たちは、ザエルのもと、勇者を殺すために地獄のような訓練を課されることとなった。
訓練中に死んだ者もいれば、訓練のつらさに耐えかねて脱走を試みるも失敗し、殺された者もいた。
自由になるためにザエルを殺そうとして、返り討ちにあった者もいた。
そんな中ルーシアは、淡々と、着実に、力をつけた。
クロエと再会したい。その一心で。
そして五年後――
ルーシアは見事、勇者殺しの刺客に選ばれたのであった。
◇ ◇ ◇
一七歳になったルーシアは、美しく成長していた。
顔立ちはまだ幼さが残っているものの、背は五年前よりも随分高くなっており、肢体も女性らしい曲線を描いていた。……一部、特に胸のあたりの曲線は少々緩やかではあるが。
とにかく、今の自分は五年前とは別人とはいかないまでも、大きく変わってしまっているのは間違いない。
何かの拍子で偶然クロエと再会できた時に備えて、できる限り五年前の自分の面影を残そうと思ったルーシアは、肩にかかる程度の髪の長さだけはそのままにしていた。
そんな彼女が今いる場所は、人間の領域の中では最大の国家と謳われるマルキダ王国。
その中枢にして、勇者のみが扱うことができる聖剣が眠る地――王都ミーカールの宿屋だった。
ルーシアは旅装についた砂埃を払い、借りた部屋のベッドに手荷物ごと寝転がる。
馬に乗って魔族の領域から人間の領域に戻り、このミーカールにたどり着くまで三ヶ月。
さしものルーシアも、無意識の内に疲れたため息をこぼしてしまう。
(とはいえ、あまりのんびりというわけにもいかないわ。式典は五日後に迫っているのだから)
天井を見上げながら、心の中で独りごちる。
これはザエルからもたらされた情報だが、今日より五日後、予言のとおりに現れた勇者をお披露目する式典が行なわれるため、勇者はその一週間前にミーカールの中央にある王城に招かれ、魔王討伐の準備が整うまでの間、王城の一室で寝泊まりすることになっていた。
その式典に乗じて勇者を殺すのは下策だと断じたルーシアは、式典が始まる前に勇者を暗殺することに決めていた。
この数百年の間、幾度なく行なわれた人間と魔族との戦いにおいて、魔族が勇者を暗殺しようとしたことは一度や二度ではない。
ゆえに式典中は、勇者の周りを大勢の護衛が固めているのは考えるまでもない話だった。
しかし、まだ誰が勇者であるのかを公表していない今ならば、必然的に勇者につく護衛の数が少なくなる。
なぜなら、現在城で寝泊まり勇者に護衛をつけすぎてしまっては、〝そこ〟に勇者がいることを魔族に喧伝してしまうことになってしまう。それでは本末転倒もいいところだ。
もっともそこまで気を遣っておきながら、魔族の侵攻に怯える大衆の不安を取り除くために、わざわざ式典を催して勇者の顔見せをすることも、大概に本末転倒だが。
(まあ、そんなことはわたしには関係ないわね)
ルーシアにとって問題は、魔族が、勇者を暗殺に向かえる程度には人間に擬態することができるという点にあった。
総じて魔族には、天使の翼を闇色に塗り潰したような、漆黒の翼が背中から生えている。
そんな翼を持っているせいか、魔族はもともと天界から堕ちてきた神族のなれの果てなのではないかという説があることはさておき。
漆黒の翼さえなければ、人間と魔族の外見にそこまで大きな差異はない。
それが、ルーシアにとっては厄介極まりない問題だった。
出発前、ザエルはルーシアに言った。
君が勇者殺しを成し遂げるのを見届ける、お目付役を複数つけてあげる――と。
勇者を殺すまで監視をつけられることは予想していたが、勇者殺しに同行させるという直接的なものではなく、間接的に複数の監視をつけられたことは予想外だった。
これでは監視が誰なのか、どれほどの数がいるのかがわからないため、監視を撒いてクロエに会いに行くという当初の企てはご破算となった。
(わかったことと言えば、鳥や犬、爬虫類といった、小型の魔獣がわたしを監視していることだけ。魔獣を使役している魔族がいるのかいないのかも、全くわかってない)
言いながら、横目で窓を見やる。
窓の桟には、いつの間にか入り込んでいた、蜥蜴型の魔獣がこちらをじっと見つめていた。
こうなってしまった以上、言われたとおりに勇者を殺して、自由を勝ち取った上で、クロエに会いに行くしかない。
そして、護衛が最低限しかついていない式典前の今が、勇者殺しを実行する最大の好機。
一日二日かけて王城周辺の下調べをした後、深夜に勇者殺しを決行しようと、ルーシアは決めた。
◇ ◇ ◇
全人類の内の実に四割が、才能を持って生まれてくる。
タレントの種類、有無は、その者がこの世に生を受けた後に受ける、幼児洗礼の儀式で知ることができる。
タレントを持たない六割の人類はコモンと呼ばれており、ルーシアの友達であるクロエもその中に含まれていることはさておき。
タレントには、〝剣士〟〝魔導師〟〝僧侶〟といった戦闘向きのものもあれば、〝予言者〟〝踊り子〟〝吟遊詩人〟といった、戦闘以外の分野で活躍できるものも含まれている。
勇者殺しの刺客に抜擢されたルーシアのタレントは、戦闘向きのものではなかった。
ルーシアのタレントは〝薬師〟。
普通ならば膨大な知識が必要な薬の調合を直感的に行なうことができたり、知らない薬でも一目見ただけでどういう効果があるのか看破できたり、普通の人間よりも薬の効きが良かったり、逆に毒の類は効かなかったり……などといったものが、〝薬師〟の特性だった。
補助や援護はできるので全く戦闘に向いていないというわけではないが、矢面に立って戦うには不向きであることは間違いない。
ルーシアは〝薬師〟というタレントを戦闘に適した形に昇華させることで、戦闘向きのタレントを持つ者も混じった子供たちの中で、刺客の座を勝ち取ったのであった。
二日後の深夜――
暗色で統一された旅装を身に纏い、人知れず宿の部屋を出たルーシアは、闇に紛れながら王城の方角に向かって、慎重に夜の王都を移動する。
当然、監視役である蜥蜴型の魔獣もルーシアの後についてきていた。が、いざ王城の傍までたどり着いたところで、魔獣ははたと立ち止まり、ルーシアについて行こうという素振りすら見せなくなる。
それもそのはず。
王城の周囲には、魔族と魔獣の侵入を阻む不可視の結界が張られていた。
人間であるルーシアは素通りできるが、蜥蜴型の小さな魔獣では結界に触れただけで蒸発してしまい、ザエルのような上位の魔族でも結界内に入るにはそれなりの労力を要する。
よしんば突破できたとしても、魔族や魔獣が結界に触れた時点で結界全体が激烈な反応を示すため、勇者殺しの邪魔をしないためにも、蜥蜴の魔獣がこれ以上ルーシアについて来ることはない。
ゆえに、結界内にさえ入ってしまえば監視がなくなるわけだが、
(結界の外にいても、勇者殺しの成否の確認くらいはできる。勇者を殺さずに結界の外に出ようものなら……ろくなことにならないことだけは確かね)
うんざりとしたため息をついた後、王城に視線を巡らせる。
今は城内に勇者を招いているからか、完全に閉ざされた城門の前には、深夜であるにもかかわらずそれなりの数の門兵が警備にあたっていた。
城壁の高さは一〇メートルを優に超えており、壁上においてもそれなりの数の衛兵が巡回している。
監視がいなければ、今すぐ回れ右をして宿の部屋に帰りたくなるほどの鉄壁ぶりだった。
(……腹をくくるしかないわね)
ルーシアは懐に忍ばせていたケースを取り出し、中に収めていた小瓶の一つを抜き取る。
小瓶の中身は、身体能力を強化し、視覚や聴覚といった知覚を鋭敏化させる薬だった。
副作用はなく、少なくとも今晩いっぱいは持つほどに長時間効果が持続する、ルーシアお手製の強化薬だった。
これとは別にもう一つ、副作用ありで効果の持続時間も短いが、大幅に身体能力を強化するお手製の秘薬も携行しているが、それはあくまでも切札なので、今はケースの中に収めたままにしておく。
覆面を被り、腰に下げていたかぎ爪付きロープを手に取ってから瞑目し、耳を澄ませる。
人並み外れた集中力と、強化薬によって鋭敏化された聴力が、壁上を巡回している衛兵の足音を捉える。
やがて、足音が遠ざかったところで、
(ここ……!)
瞼を開き、壁上に向かってロープを投げて、胸壁にかぎ爪を引っかける。
ロープを引っ張ってかぎ爪が外れないことを確認してから、知覚と同様に強化薬によって増強された身体能力をもってロープをよじ登り、瞬く間に壁上に到達した。
すぐさまかぎ爪付きロープを回収すると、壁上から飛び降り、音もなく城の外庭に着地する。
当然、外庭にも衛兵が巡回しているので、すぐさま木陰に身を隠し、周囲に気を配りながら慎重に移動を開始する。
この二日の間に城の見取り図を入手していたルーシアは、勇者が眠っている客室の位置と、ほとんど利用されていない部屋の位置を完璧に把握している。
ゆえにその足取りに淀みはなく、衛兵に気をつけながらも外庭を移動し、今は全く使われていない武器庫の窓から城内に侵入。
例によって巡回している衛兵に気をつけながら、勇者のいる客室を目指した。
そして――
(さすがにアレは、どうにかやり過ごしてというわけにはいかないわね)
廊下の曲がり角に身を隠しながら、勇者の客室の前にいる二人の衛兵を睨みつける。
王城全体が石造りでできているため天井や床から客室内に侵入することは出来ず、窓も嵌め殺しになっているので、出入り口は衛兵二人が護るあの扉しかない。
ここまで順調に来られたルーシアといえども、見つからずにというわけにはいかない状況だった。
(やるしかない、か)
今一度腹をくくったところで、袖の内から針を二本取り出す。
転瞬、這うような低姿勢で音もなく廊下を駆け、二人の衛兵に肉薄。
突然の襲撃者に衛兵たちは腰に下げていた剣を抜こうとするも、ルーシアが二本の針を投擲する方がはるかに早かった。
衛兵の首筋に針が刺さり、数秒としない内に二人揃ってその場に頽れる。
針には、強力な誘眠効果を持った薬が塗られている。
勇者を殺すまでどころか、朝になるまで二人が目覚めることはないだろう。
(ザエルの監視がいなくてよかったわ。眠らせるなんて温いやり方を、許すとは思えないもの。……さすがに、無益な殺生はもうこりごりよ)
ザエルの訓練の中には、人を殺す忌避感をなくすために、ザエルが捕まえてきた人間を殺すという吐き気を催すほどに非人道的なものも含まれていた。
その訓練によってルーシアはすでに一〇人近く、何の罪もない人間を殺している。
そうしなければ、処分という名目で自分がザエルに殺されることがわかっていたから。
けれど、人を殺す忌避感をなくすフリはできても、本当になくすことなど、ルーシアにはできなかった。
(わたしの手がこんなにも血塗られているって知ったら、クロエはどう思うだろう……)
そんなことを考えたところで、小さくかぶりを振る。今まさに勇者を殺そうとしている状況で、今さら迷いを持ち込むのはよろしくない。
ここで失敗してしまっては、クロエに会いたい一心でザエルの訓練に耐えてきた意味が、心を殺してこの手を血に染めてしまった意味がなくなってしまう。
一つ息をついて気持ちを切り替えると、眠っている衛兵たちの懐をまさぐり、客室の鍵を手に入れる。
ちゃんと扉の鍵穴に挿し込めるかを確認してから、できる限り音を立てないようにゆっくりと鍵を開け、ついに勇者が眠る客室に足を踏み入れた。
強化薬のおかげで視力が向上し、いつも以上に夜目が利くようになったという理由もあるが、嵌め殺しの窓から差し込む月明かりのおかげで、視界はそう悪くなかった。
部屋に配置されている調度品の数々が、一つの例外もなく逸品であることを一目で確認できる程度には。
足音を立てないよう細心の注意を払いながら、部屋の隅にある天蓋付きのベッドに近づいていく。
強化薬によって鋭敏化した聴覚が、ベッドで眠っている人物の寝息を捉える。
顔が隠れるほどにまで深々と毛布を被って寝ているせいで、視覚で確認できる情報はほとんどなかった。
毛布の膨らみから、ルーシアよりも小柄な人間だということがわかる程度だった。
ある程度ベッドまで近づいたところで、懐から一枚の札を取り出す。
勇者は、聖光と呼ばれる固有の能力を有している。
その聖光によって、身体能力強化は勿論、〝薬師〟に匹敵する毒の耐性や、僧侶に匹敵する呪いの耐性などが勇者に付与される。
当然、聖光は攻撃に用いることもでき、魔族や魔獣には絶大な効果を発揮する一方で、人間に対しては全くの無害であるため、勇者は敵味方の区別を気にすることなくその力を存分に振るうことができる。
だからこそ魔族が、人間を勇者殺しの刺客に仕立て上げたことはさておき。
ルーシアがたった今取り出した札には、勇者の体から常時垂れ流しになっている、目に見えないレベルの微弱な聖光に触れただけで蒸発する、極めて力の弱い魔獣の血が塗り込められている。
この札は、いわば勇者を識別するための道具。
ルーシアが下調べの際に掴んだ諸々の情報が、魔族を攪乱するために流した偽情報ではないことを、今から殺す人間が間違いなく勇者であることを確認するための道具だった。
ルーシアは札を持ったまま恐る恐るベッドに近づいていき……札に塗り込んだ血が蒸発するのを見て、思わず息を呑む。
ベッドに眠っている人間は、間違いなく勇者だ。
しかも、ここまで近づいてなお起きる気配が全くない。
今なら楽に、確実に殺せる――その確信が、ルーシアに息を呑ませた。
「…………」
腰の後ろに水平になる形で固定していた鞘から、一本の〝刃〟を一息に引き抜く。
長さが長剣と短剣の中間くらいの、片刃のブレード。
それがルーシアの得物であり、勇者の命を刈り取る〝刃〟。
ブレードにはかすっただけで相手を動けなくする神経系の毒薬を塗り込んであるが、聖光の力で毒に耐性のある勇者には効かない上に、苦しまないよう一息に殺すつもりなので、今この時においては関係のない話だった。
ベッドのすぐ傍まで近づいたルーシアは、毛布に隠れるようにして眠っている勇者に刃を突き立てるべく、逆手に持ったブレードを持ち上げ……ふと、気づいてしまう。
毛布からはみ出している髪の色が、目を奪われるほどに綺麗な金色であることに。この瞬間ルーシアは、ある一つ可能性に思い至ってしまう。
馬鹿げている。
そもそもあの子はタレントなしのコモン。
勇者であるわけがない。
あるわけがないけど……
(もし、本当にあの子だったら?)
そんな疑問が浮かんだ時点で、もう駄目だった。
勇者を起こしてしまう恐れがあることを承知の上で毛布を掴み、ゆっくりと捲り上げる。
果たして、ベッドに眠っていたのは、ルーシアが想像したとおりの人間だった。
おそらくは背中までかかるであろう、綺麗な金髪は言わずもがな。
五年前よりは少しは大人びているものの、それでもなお小動物を想起させる愛くるしい顔立ち。
閉ざされた瞳の色は、間違いなく碧い色合いをしていることだろう。
ルーシアが今、殺そうとしている勇者は。
ルーシアが会いたくて会いたくて堪らなかった友達。
クロエ・クロームだった。
「どう……して……」
知らず、そんな言葉が漏れてしまう。
クロエに会いたくて、ザエルの訓練に耐え、この手を血で染め、勇者を殺しに来たのに……その勇者がクロエだったなんて、ルーシアは夢にも思わなかった。
「ん~……むにゃむにゃ……るーちゃぁん……」
ひどく暢気で、ひどく胸を締めつける寝言が、可憐な唇から漏れる。
こんな状況であるにもかかわらず、五年経った今でもクロエの夢の中に自分がいることが、堪らないほどに嬉しかった。
力が抜け、持ち上げていたブレードを下げようとした、その時、
「!?」
突然背後から殺気を感じたのも束の間、眠っているクロエ目がけて鋭い〝何か〟が投擲されたことを肌で感じ取る。
振り返ってからでは遅いと判断したルーシアは、殺気の主に背を向けたまま、その手に持ったブレードで〝何か〟を弾き飛ばした。
視界の端で捉えた〝何か〟は、ナイフだった。
「まさか、今のを防がれるとはね」
背後から男の声が聞こえてくる。
油断なくブレードを構えながら振り返ると、そこにはルーシアと同じように覆面を被り、暗色の衣装に身を包んだ青年が立っていた。
覆面の隙間から見える目つきを見る限り、年齢に関しても自分とほぼ同じくらいだろう。
「一応確認させてもらうけど、君も勇者を殺しに来たということでいいんだよね?」
男は両手に持ったナイフをそのままに、こちらを指でさしてくる。
「その言い方……まさか、あなたも魔族に買われて勇者殺しを?」
「……やっぱりそういうことか」
男はルーシアの問いには答えず、頭を抱えるようにして右手のナイフの柄頭を額に当てる。
もっとも、察しの良いルーシアにはそれだけで充分だったが。
(考えてみれば当然の話よね。魔族にとって最大の天敵である勇者を殺す刺客を、複数用意することなんて)
この男もザエルの手で訓練されたのか、それとも別の魔族の手で訓練されたのかはわからない。
ただ、男が自由と金塊を勝ち取るために勇者を殺す気でいることだけは、確認するまでもなくわかりきっていた。
「え~っと……君さ。一つ提案があるんだけど。勇者を殺すの、俺に譲ってくれないかな? 『魔族の侵攻を受けた際に見逃してもらえる』一〇人の中に、君のこと入れてあげるからさ」
男が、そんな提案をしてくる。
どうやら、ルーシアと争うつもりはないようだが、
「この子は、わたしのものよ。他の誰にも渡さない」
はっきりと拒絶の意を示した。
ルーシアにとっては言葉どおりに、男にとっては「勇者はわたしが殺す」と宣言しているように聞こえる言い回しで。
「やれやれ、交渉決裂か」
言い終わるや否や、男は予備動作もなしに、一足でルーシアに肉薄する。
いつ床を蹴った……!?
速すぎる……!
などと呻く間もなく、男の両手に握られたナイフが至近の間合いで閃く。
首筋に迫る右刃。
ルーシアがそれをブレードで受け止めている隙に、半瞬遅れて閃いた左刃が脇腹を裂こうとする。
防御は間に合わないと判断し、半歩下がって左刃をかわすも、男はさらに間合いを詰め、執拗に攻め立ててくる。
圧倒的な手数と速度からくる攻撃の苛烈さは、まさしく疾風怒濤。
ザエルの訓練を受けた子供たちの中にこれほどの使い手はいなかったせいもあって、ルーシアは防戦を強いられていた。
しかし、
「く……ッ」
覆面の下で苦々しい表情をつくっているのは、男の方だった。
一方的に攻めているはずなのに、目の前の相手にナイフがかすりもしない。
魔族の訓練を受けた子供たちの中にこれほどの使い手がいなかったという点においては、男も同じだった。
業を煮やした男が、両手のナイフを同時に閃かせ、左右からルーシアの腕を斬り裂きにかかる。
タイミング、速度ともに、後ろに下がってかわせるような代物ではなく、左右からの同時攻撃ゆえにブレード一本で止められるような代物でもない。
勝利を確信した男が、覆面の下で笑みを浮かべる中、ルーシアはブレードを水平に構え、右から迫る刃を切っ先で、左から迫る刃を柄頭で受け止める。と同時に、空いている左手の袖から針を取り出し、男の首筋目がけて投擲。
男は大きく身を反らして針をかわし、勢いをそのまま後方に転回して距離をとる。
ルーシアの精緻極まる技術に舌を巻いたのか、男は覆面の下で笑みの代わりに驚愕を浮かべていた。
「まさかあんな受け方をされるなんてね。そんな中途半端な長さの剣や針を武器にしていることといい、部屋の前の護衛を無力化した手腕といい、君っていったい何のタレント持ってるの? まさかとは思うけど、俺と一緒ってわけじゃないよね?」
「生憎だけど、素直に答えてあげるほどマヌケじゃないわ」
「……みたいだね」
自身のタレントについて素直に答えるのは論外だが、「俺と一緒」という問いについて答えるのも大概に論外であることに、ルーシアは気づいていた。
なぜならその問いに答えることは、男にこちらのタレントを類推させるヒントを与えるのと同義だからだ。
その一方で、ルーシアは男のタレントを看破していた。
己が気配を消し去る特性を持つ、最速の称号を欲しいままにしているタレント――〝暗殺者〟。
勇者殺しの刺客としてはそのものズバリなタレントであり、有している者の数が少ない稀少なタレントでもあった。
少し自画自賛が入るがこの自分に、攻撃に移る直前まで気配を感じさせなかった時点で、男のタレントが〝暗殺者〟であることを看破していた。
「それにしても、今回の勇者は随分大物だね。すぐ傍で殺し合っているっていうのに、まるで起きる気配がない」
寝ているクロエがちょっとやそっとのことでは起きないことを知っていたルーシアは、相変わらずすぎる友達に内心苦笑しながらも男に訊ねる。
「とはいえ、このままやり合い続ければさすがに勇者が起きるかもしれないし、城内を巡回している衛兵に気づかれるかもしれない。それでも、まだ続けるつもり?」
「いや……」
男は肩をすくめると、
「これで終わりにさせてもらうよ」
予備動作はおろか、攻撃しようという気配すらなく、ルーシアの背後にいるクロエ目がけて両手のナイフを投擲した。
〝暗殺者〟の気配を消す特性は何も、その場にいるかいないかの単純な気配に限った話ではなかった。
完全に不意を突かれたルーシアだったが、ギリギリのところで反応し、ブレードを振るってクロエを狙う凶刃を弾き飛ばす。が、その代償はあまりにも大きかった。
「隙あり!」
度し難い隙を晒すルーシアに、男は新たなナイフを取り出しながら肉薄。
ルーシアの両前腕にナイフを突き立て、手放すと同時に一歩後ろに下がり、
「そのナイフは俺からの餞別だよ」
側頭部目がけて回し蹴りを放った。
「ぐ……っ」
ルーシアはナイフが刺さったままの腕を持ち上げ、なんとか回し蹴りを防御するも、男女の体格差に加えて腕がやられているせいで防ぎ切れず、蹴り飛ばされ、床に伏してしまう。
これで勝負がついたと思ったのか、それとも自分と同じように魔族の訓練を受けた刺客を殺すのはまずいと判断したのか、男はルーシアを無視し、再度新たなナイフを取り出しながらベッドに眠るクロエに襲いかかる。
(クロエは殺させない……!)
その決意が、手段を選んではいられない状況が、切札を切ることをルーシアに決断させる。
立ち上がりながらも懐に忍ばせていたケースから小瓶を一つ取り出し、一気に呷る。
小瓶の中身は勿論、副作用ありでなおかつ効果時間が短い、飲んだ人間の身体能力を大幅に強化する秘薬。
「これでジ・エンドだ!」
男は覆面の下で口角を吊り上げながら、クロエにナイフを突き立てようとする。
確実に殺すために、投擲ではなく刺突を選んだことが運の尽きであることにも気づかずに。
秘薬によって極限以上にまで増強された脚力が、石造りの床を蹴り砕く。
最速のタレントと謳われた〝暗殺者〟の速度を越え、彼我の距離を刹那に潰す。
そして――
「……がはッ!?」
ナイフを振り下ろそうとしていた男の心臓を、背中からブレードで刺し貫いた。
クロエを血で穢したくなかったルーシアは、激痛を訴える両腕を秘薬によって増強された筋力で無理矢理動かし、男をベッドから離れさせる形で床に投げ捨てる。
あの状況から負けると思っていなかったのか、すでに事切れている男の、覆面の隙間から見える両目は見開いたままになっていた。
ルーシアは両前腕に刺さっていたナイフを引き抜き、止血の薬を塗り込み、手と口を使ってハンカチを巻いて応急処置を済ませた後、男を刺し貫いたブレードを回収する。
両腕の痛みに顔をしかめながらも腰の後ろに固定していた鞘に収めたところで、暗鬱としたため息を吐き出した。
薬の力で限界以上の力を引き出された肉体は、じきに悲鳴を上げ、動けなくなる。
それが秘薬の副作用だった。
両腕が重傷を負っていることを鑑みると、副作用が出始める前に王城から脱出するのは至難だと言わざるを得ない。
仮に脱出できたとしても、暗殺に失敗したルーシアを待っているのは魔族の監視役。その後自分にどんな処分が下されるのかは、想像もしたくない。
(だったら……)
覆面を脱ぎ捨てながらクロエに歩み寄り、ベッドの空いているスペースに腰を下ろす。
それから痛みを堪えながらも右手を持ち上げ……寝ているクロエの鼻を指で摘まんだ。
これが、ちょっとそっとのことではない目を覚まさない友達の起こし方だった。
「…………………………………………………………ふごっ」
珍妙な吐息を漏れたところで、クロエの瞼が上がり始める。
鼻から指を離すと、クロエは寝ぼけ眼のまま、ゆっくりと上体を起こした。
「ごめんね、クロエ。寝ているところを起こしちゃって」
本当に悪いとは思ってるけど……衛兵たちが来て、捕まったら、もう二度と会わせてもらえないかもしれないから、今だけはワガママを突き通すことに決めていた。
「ほぇ……?」
明後日の方向を向いたクロエが、ゆっくりとこちらに顔を向ける。
蒼と碧の視線が重なった瞬間、
「るーちゃんっ!?」
クロエの大きな瞳が、これ以上ないほどにまで見開かれた。
一目でわたしだとわかってくれた――それだけで充分だったルーシアは、緩み始めた頬を勝ち気な笑みで誤魔化す。
「どちらが先に会いに行くかって競争、わたしの勝ちってことでい――」
「るーちゃぁぁああぁぁぁぁああぁぁぁんっ!!」
クロエが泣き叫びながら抱きついてくる。
そんなことをされたら、怪我をした両腕が死ぬほど痛い思いをすることになるわけだが、折角の再会に水を差したくなかったルーシアは、なんとか、かろうじて、歯を食いしばって耐え忍んだ。
(それはそうと……)
押しつけてくる胸の感触が、思った以上にふくよかというか何というか。
見たところクロエの身長はそこまで伸びていないようだが、その分胸が見違えるほど成長していることに気づいてしまったルーシアは、ひっそりと敗北感を噛み締める。
「あたしねっ! 聖剣に選ばれてっ! 勇者になっちゃったんだよっ!」
「うん。知ってる」
「それでねっ! でねっ!」
と、泣き叫びながら近況報告する友達の頭を、愛おしげに撫でる。
衛兵が来た後はどうしようとか、クロエが床に転がっている死体に気づいたらさらに大騒ぎになるかもしれないとか、この後自分がどうなるかは全くわからないけれど。
ただ一つだけ、はっきりとわかっていることがある。
――わたしは、勇者を殺せない。
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