01 精霊キッス
01 精霊キッス
俺は知らなかった。
かつての上司だった人物が、今まさにその地位を奪われただけでなく、住む家も追われ、妻と子供に捨てられてしまったことを。
そのときの俺はトランスの馬車に乗り、海の上にいた。
水の精霊の力を取り戻したトランスは、まるで水を得た魚のように水面をスイスイと走る。
どこまでも広がる水平線。
空はカラッと晴れわたり、気持ちいい潮風が頬を撫でていく。
両隣に座っていた精霊姫たちは、すっかりはしゃいでいた。
「うわあっ、すごいすごい、すごーいっ! 海の上を走るのって、こんなに気持ちいいんだーっ!
ガタガタした震動がなくて、まるで氷の上を滑ってるみたーいっ!」
御者席から立ち上がり、前に身を乗り出すティフォン。
隣でお行儀よく座っていたイズミは、眼鏡ごしの瞳をパチパチ瞬かせていた。
「わたくしは、馬車に乗せていただいたのは初めてなのですが、こんなに速い乗り物だったのですね!」
ティフォンはギョッとした様子で振り返る。
「えっ、イズミちゃん、馬車に乗ったことなかったの!?」
「はい。わたくしは幼い頃、ほとんど外に出ることができませんでしたので」
「でも『精女』には通学してるよね?」
『精女』というのは『精霊女学院』と呼ばれる精霊たちが通う女子校のことだ。
精霊のなかでも上位、いわゆるお嬢様が通う高校らしい。
ティフォンとイズミは、その『精女』で知り合い、仲良くなったそうだ。
同級生のティフォンの問いに、イズミははにかんだ様子で眼鏡に手を添え、位置を正しながら答える。
「お恥ずかしながら、『精女』への通学は、地下水脈を使わせていただいております」
風を受けたティフォンの長い髪が翻り、頭上でハテナマークを作ったように見えた。
「地下水脈? なんでそれを使うのが恥ずかしいの?」
イズミは答えにくそうにしていたので、俺が助け船を出す。
「地下水脈は地属性の精霊のテリトリーでもあるからな。
ティフォンで例えるなら、火山の上昇気流を使って空に飛ばしてもらうようなもんだ」
するとティフォンは理解してくれたようで、「ええーっ!?」と驚き混じりの悲鳴をあげた。
「イズミちゃん、そんなのを毎日やってるの!? それは大変だねぇ!」
このやりとりは正直、人間は理解できない価値観だろう。
人間で例えるなら、仲の悪い親戚が出しているバスに同乗させてもらって、学校まで送り迎えしてもらうようなものだろうか。
しかもバスの中にいる乗客は全員、その仲の悪い親戚の一族ばっかりとなると、居づらさはハンパない。
しかしそれでもイズミは嬉しそうだった。
「でも、いままでずっと水の精霊の国に閉じこもっていたわたくしにとっては、他の精霊様たちと交流できるのは、たいへん嬉しいことです。
これもなにもかも、ユニバス様のおかげです」
ポッと頬を染めながら、俺を見つめるイズミ。
「えっ、それってどういうこと?」とさっそくティフォンが食いついてくる。
「はい、実はわたくしは、幼い頃からとても目が悪かったのです。
そのおかげで、わたくしの世界はお城の中だけでした。
でも勇者様のパーティとしてコンコントワレにお越しくださったユニバス様が、この水眼鏡を作ってくださったのです」
ティフォンは「ミズメガネ……?」とイズミの顔を覗き込む。
「あっ!? この眼鏡のレンズ、よく見たら水の膜が張ってある!?」
「その通り」と俺が引き継ぐ。
「水の精霊は目が悪い者が多いんだ。
水中で暮らしている分にはそれでもなんの問題もないんだが、イズミは精霊姫だからそうもいかない。
だから陸上でも視力を矯正できる方法はないかと思って、試しに作ってみたんだ」
「あの節は本当に、お世話になりました。
この水眼鏡がコンコントワレじゅうに広まったおかげで、目の悪い方がひとりもいなくなったのです。
国力がさらに上昇したと、父も大変喜んでおりました」
「なるほどぉ、どうりでユニバスくんがコンコントワレであんなに大歓迎されてたわけだ」
「はい、左様でございます。ユニバス様は、コンコントワレの英雄で……」
と、話の途中でイズミがハンカチを取りだし、俺の額にあてがう。
どうやら、俺の額に浮かんだ汗が気になったらしい。
「ありがとう。イズミのハンカチは、ひんやりしてて気持ちいいな」
「でしょでしょ!? イズミちゃんってひやっこくて気持ちいいんだよね~っ!」
ティフォンがイズミにガバッと抱きつく。
どうやらその行為は『精女』でおなじみの行動らしく、いきなり抱きつかれてもイズミはそれほど驚いた様子はなかった。
「なんだかだんだん暑くなってきたね! もしかして、『ヒートアイランド』まで、もうすぐ!?」
俺たちの次の目的地は、火の精霊の国『ヒートアイランド』。
『アイランド』と付いてはいるが、島ではなく内陸にある。
「いや、ヒートアイランドまではまだまだだ。
そしてここからは、常夏の国『トコナッツ』の海域に入ったから、ますます暑くなるぞ」
「うわー、これ以上暑くなるの!? あっ、そうだ! ならイズミちゃん、ちょっと耳を貸して!」
ティフォンはイズミに抱きついたまま「ごにょごにょ」となにやら囁きかけていた。
やがてふたりは揃って俺の方を向くと、唇をすぼめて、
……ふぅ……!
と息を吹きかけてきた。
風の精霊ティフォンの吐息と、水の精霊イズミの吐息。
そのふたつの甘やかな息が混ざり合い、ひんやりした風となって俺に届く。
「ありがとう、涼しいよ。水と風の精霊を合わせると冷たい風が作れるのは、魔導空調装置と同じ原理だな」
ふたりは「ふーふー」と俺に息を吹きかけてくる。
おかげで俺はカンカン照りでも汗ひとつかくことなく、馬車を操ることができた。
そして気がつくと、ティフォンとイズミの顔が、俺のすぐそばで近づいてきていた。
なぜかふたりとも顔が紅潮していて、瞼を目を閉じ、アヒルのように唇を尖らせている。
……これはまさか、キス顔……!?
しかし気付いた時にはもう遅く、俺の頬にはふたりの唇が重なっていた。
……チュッ!
そのあとの反応は、ティフォンとイズミで正反対だった。
しかしふたりとも、瞳孔が開ききるくらい大興奮。
「やったーっ! ユニバスくんにチューできたーっ! 大成功~っ!」
「す、すみません、ユニバス様!
いまのは『チューゲーム』と申しまして、『精女』で流行している遊びなのでございます!」
「普段は女の子どうしでやってるんだけど、男の子にするのは初めてだったから、緊張したぁ!」
「本当にすみません、ユニバス様!
まさか受け入れてくださるとは、夢にも思いませんでした!」
「でも思い切ってやってよかったーっ! ユニバスくんと初キッスだよぉぉぉぉーーーーっ!!」
「やっぱりお嫌でしたよね!? すぐに拭き取らせていただきます!」
諸手を挙げて海に向かって叫ぶティフォンと、アセアセとハンカチで俺の頬を拭うイズミ。
……精霊姫がふたりが一緒になると、まさかこんな女子校パワーが発揮されるとは思ってもみなかった。
新章開始に伴い、タイトルのほう変更させていただきました!