50 水の精霊王の問い
俺は泡に包まれたまま、島亀の長く伸びた首の横を通り過ぎる。
お役御免となった、古びた木造の魔導列車を撫でるかのように。
そして俺は気付いていた。
俺を出迎えてくれた、人の姿をした精霊王は影武者だということに。
水の精霊王は、この島亀だということに。
精霊王というのは、精霊姫の精婚式、つまり自分の娘の結婚式であっても参列しない。
表向きは、人間の王が精霊王を捕らえ、その大いなる力を利用することを防ぐためという理由からだ。
しかし本当の理由はそうじゃない。
精霊王は巨大すぎるあまり、参列ができないんだ。
気付くと、俺を包む泡は島亀の頬を撫で、顔の正面に回り込んでいた。
閉じていた瞼が開き、黒い惑星と見紛うほどの瞳が現れる。
俺の頭の中に、海鳴りのような声が響き渡る。
『おお、ユニバスよ、会いたかったぞ……!』
「あなたが本当の、水の精霊王なのですね」
『さよう……! 人間にこの姿を見せるのは、初めてのことだ……!』
「どうして、俺をここに……?」
『礼を言いたかったのじゃよ……!
魔王を退けてくれた、礼をな……!
魔王という存在は、身内の不始末のようなものじゃからな……!
すべての精霊にかわって、礼を言うぞ……!』
精霊王はそう語りかけながら、首をゆったりと上下に動かす。
しかしそのつぶらな瞳が、不意に半眼になった。
『ふむぅ。ワシの身体に、多くの船が近づいておるようじゃな……!』
精霊王が苦々しく言うと、俺の目の前に映像が映し出される。
それはワースワンプ王国から出港し、コンコントワレへと進撃する多数の戦艦だった。
『近づいてはならぬと、あれほど言っておるのに……。やれやれ……』
次の瞬間、映像の海では魔導機雷が炸裂したような水飛沫があがり、戦艦は次々と爆散する。
「あっ!?」となる俺に、精霊王は笑った。
『ふぉふぉふぉ……! 心配はいらん……!
乗っていた人間は、ひとりも死んでおらん……!
あとは海の精霊たちが潮の流れを操って、浜辺まで送り届けてくれるじゃろう……!』
俺は説明しておかねばならないと思い、口を開く。
「あの、精霊王、あの船はきっと、俺を追って来たものだと思います」
『ああ、そうじゃろうなぁ……!
人間の船はああなるのを怖れて、長いこと近寄らなんだ……!
しかしそれでも船を寄越すとは、お前さんのことがよほど「欲しい」ようじゃのう……!
なあに、この島に近づかせはせんから、ゆっくりしていくといい……!』
「いえ、俺は長居するつもりはありません。
トランスの……魔導馬の焼印を消してもらったら、すぐにおいとまします。
魔導馬の修理のために、他にも立ち寄らなくてはならない精霊の国々がありますので」
『急ぐ旅であるのなら、仕方ないのう……!
それでは最後に、これだけ聞かせてはくれぬか……!
そなたはなぜ、ワシら精霊を大切にしてくれるのじゃ……!?
多くの人間は、ワシら精霊を物のように扱う……!
ワシらが与える力も当たり前と思っていて、感謝すらせぬというのに……!』
いきなりの問いであったが、俺は迷うことなく答える。
なぜならばその答えはいつも、俺のなかにあるからだ。
「それは、『親孝行』だと思っているからです」
すると精霊王は『ほほぅ……!』と唸った。
『やはりそなたは、気付いておったのか……!』
「はい。人間は、精霊が作りしものなんですよね?」
『そうじゃ……!
正しくは、女神と精霊によって生まれたもの、それが「人間」……!
そなたはどうやって、その答えにたどり着いたのじゃ……!?』
「人間は、当たり前に与えられるものに感謝しません。
しかし精霊がその気になれば、感謝しない人間に対し力を与えないことなど簡単です。
でも精霊は、決して力を与えることをやめない……。
そんな一方的な関係で成り立っているものは、この世にひとつしかありません」
俺は強い口調で断言する。
「それは、『親子の愛』です……!
子供は、親がいなければ生きていけません。
たとえ子供が、育ててもらった恩を抱かなかったとしても、親は決して子供を見捨てたりはしません。
その結論にたどり着いたとき、俺は気付いたんです。
精霊は便利な物じゃなくて、家族なんだ、って……!」
水の精霊王は、産卵するウミガメのように、瞳に涙を浮かべている。
『お……おおっ……! おおおっ……!
親としては、子供が感謝など抱かなくても、すくすくと育ってくれさえすれば、それでいい……!
そう思っておった……!
女神がもたらす力が、人間にとっての太陽とするならば、我ら精霊がもたらす力は、人間にとっての月……!
太陽のように、広く世界を照らし、崇められなくてもよい……!
人間の行く末を静かに、ひそやかに照らすことさえできればよいと、そう思っておった……!
しかしこうして、我らの愛を理解してくれる人間がいるというのは、こんなにも嬉しいものだったとは……!』
水の精霊王は、孫に接するおじいちゃんのようになっていた。
『ユニバスよ……! ワシのかわいい家族よ……!
どうか、どうかもっと近くに来ておくれ……!
このワシに、その立派な姿を、もっと見せておくれ……!』
俺を包む泡は、精霊王の頬に向かってゆっくりと動き、やがてぴとっと触れる。
俺はその頬に寄り添い、頬ずりをした。
『ユニバスよ……! そなたこそ、人間と精霊の架け橋となれる、唯一の人間……!
ワシは決めたぞ……! この力のすべてを、そなたに捧げることを……!
そなたが望むなら、どんな国でも海の底に沈めてみせよう……!
この惑星ですらも、7日で水の惑星に変えてみせようぞ……!』