ティッシュの怪
ティッシュ。
人々の生活には不可欠な一品だ。
もはや用途は今更説明する必要もないが、ここで一度ティッシュの使い道を振り返ってみよう。
鼻をかむ時、何かを拭く時、何か素手で取りたくない物を取る時、人によってはもっと沢山の事に使うかもしれない。
とにかく、一家に一箱はあるであろうティッシュ。
だが、そのティッシュに何かおぞましいものが憑いていたら、あなたは果たしてこれからもティッシュを使い続けられるだろうか?
「あーこぼしちまった、ティッシュティッシュ」
五郎は黒いボサボサな頭を撫でながら目をつぶる。
グータラする時はよく漫画を読んでジュースを飲む彼は、頻繁にジュースをこぼす。
床に広がったオレンジジュースを見て、五郎は手慣れた様子で対処を始めた。
まず、当然ながらティッシュを用意する。
緑の箱にふんわりした質感のティッシュは彼の家では定番の品だ。
これ以外のティッシュはしばらく買っていないし、ポケットティッシュもこのティッシュと同じ会社の物が中心だった。
普段何の変哲もないティッシュ。その為、彼はティッシュへのありがたみを忘れかけていた。
「さーて拭くかー」
ティッシュを三枚ほど取りだし、床に敷く。
すぐに拭き取っては逆に広げてしまう為、まずはいくつかのティッシュを敷いてある程度吸い取るのが大切だ。
吸い取るまでの時間は結構長めに感じる事が多い。
まあよくこぼすので、ここまでの手順もしっかり慣れていた。
素早く迅速な対応…というと大袈裟だが。
「そろそろか」
五郎が、濡れたティッシュが破れないようにそっとつまんで持ち上げる。
ジュースで薄いオレンジ色に染まったティッシュからは水滴が垂れ落ち、床に僅かな爪痕を残す。
「やべ」
このままでは折角拭いた床がまた濡れてしまうと五郎は三枚のティッシュを丸め、そのままゴミ箱に捨てる。
「よし、これでOKだな」
床には三枚のティッシュのおかげでだいぶ薄くなったオレンジジュースが、天井の電気の光を反射して輝いていた。
雑巾等で拭いても大丈夫なのだが、やはり捨てられるティッシュで拭くのが一番手っ取り早い。
親に見つかれば面倒だと、先程のように素早く対応しようとした。
その時だ。不可解な出来事が起きたのは。
「…え?」
五郎は、目をこすりたくなるような気持ちになる。
目の前で突然起こり始めた信じられない出来事を前に、すぐには恐怖は感じなかった。
緑の箱から突きだしたティッシュ紙…いつもは白くてフワフワしているのに、今目の前にあるティッシュはどうだ。
少しずつ、少しずつ…下の部分から赤くなっていくのだ。
まるで、流れたての血のような色、だが重力に逆らうように上へ上へとのぼるように白い紙は赤くなっていく。
「…え?え?は…?」
もはや、それしか言えない。
ティッシュの血と共に、徐々に上がっていく恐怖心。
血はついにティッシュ全体を覆い尽くし、真っ赤な紙が出来上がった。
机の上で、得体の知れない現象がゆっくり、ゆっくりと進行していき、尻餅をつく五郎。
その時、彼の耳にははっきりと声が聞こえた。
助けて、と。
老婆のようにかすれた、高い声がはっきりと。
五郎は、パニックになった。
目の前の緑のティッシュ箱から、赤い血が滲み出てきたのだ!
箱の底から湧き出してくるように、どんどん広がっていく血。
部屋に生臭い臭いが充満し、この謎の出来事を彩っていた。
あまりの恐ろしさに、部屋から抜け出す五郎。
悲鳴すらあげず、ただただ息を切らしていた。
「はあっ…はあっ…」
両手を広げてドアに背中を張り付け、目を見開く。
いつも何気なく使っている物にこんな怪異が起こるとは誰が思っただろうか。
とにかく今はこうして立ちすくむしかない。
何かが出てくると感じたのか、足に血が集中したらしく、やたら足が熱く、顔は青ざめていた。
未知の出来事が起きると、人は命の危機を感じるものだ。
「…!!」
時々息を呑みながら、彼は必死に恐怖と戦い続けた。
「…」
五郎は足元を見た。
血がドアの下から出てきたのではないかと心配していたが、その気配はない。
背中につけたドアも、特に何か変わったような様子は見られない。
震えもだいぶおさまり、僅かに恐怖心はあったが、彼はまだパニックの中に冷静さが残っていた。
ゆっくり、ゆっくりと振り返り、ドアを見る。
やはり、見た目も特に変わったところは見られない。
「…」
三十秒間ほど深呼吸をした後、ドアノブを握りしめた。
手の甲には、冷や汗が光っていた。
ドアを引き、部屋の中に目を通す。
「…え?」
五郎は、自分が今どんな世界にいるかも分からなかった。
あれだけの信じられない出来事があったとは思えない部屋だった。
血など一滴もなく、ただ溢したジュースが僅かにあるだけだった。
恐る恐る足を進めていき、いつも過ごしている部屋を歩いていく。
机にタンス、本棚にポスター…特に何の変哲もない一般男児の部屋だった。
「…どういう事なんだ」
あのティッシュも、いつも通りだった。
血どころか、赤い部分すら一つもなかった。
それから彼は、長い時間の後、覚悟を決めてティッシュ箱を解体する事にした。
何かが現れた時の為に、片手に包丁を握りしめながら、冷や汗まみれの手で…。
そして、信じられない光景を目の当たりにした。
「な、何でだよ…」
解体したティッシュ箱は、いつもと同じ全く普通のティッシュ箱だった。
何の変哲もなく、ただただ白く、説明するのも馬鹿馬鹿しい程に、普通のティッシュ。
しかし、あの血は本物だった。
その証拠に、彼の部屋にはまだ血生臭い異臭が残っている。
…結局、あの出来事が何だったのかは分からない。
これからも、知る事はないだろう。