第一話 とある少年の夏
――真っ暗な空間。
身体がふわふわとしていて、頭がぼんやりする。視界が霞む。
目前にぽわりと浮かんだ映像をじっと見つめる。どうやら、自分のホームビデオのようだ。
こんなもの、撮られた記憶も撮った記憶もないが、一体なんだ。
とりあえずすることもないので見てみることにする。
……ああ、これ小学校の時か……やがて記憶が蘇り始める――。
* * *
小学六年生。夏休みを翌日に控えた俺、青岬海斗十一歳は待ちに待った大型連休に心が躍っているのか、突拍子もないことをやらかした。
「あ、あの……おれ、すき…………だっ」
「…………」
「その…………すきっ」
二回言った。……このときは確か一学期最後の帰りの会(HR)を終えて人気のない六年三組の教室前だった。今思えば場所のチョイスももうちょっとなんとかならなかったのかね、君。
相手は黙り込んでしまった。それもそのはず、俺は当時から対面している女子と特に接点は持っていなかったのだから。
彼女の名前は赤城椎名。学校で一番の美少女で、赤栗色のロングヘアーがよく似合っていて、毛先の癖毛がとても可愛らしい。整った目鼻立ちに、ぱっちり二重瞼。大きくて吸い込まれそうな茶色い瞳。清楚でありつつ可愛らしい赤と緑のプリーツスカートの下からは、白く細い脚が伸びている。
「え、えっと……その」
椎名は顔を林檎のように赤く染め上げてふるふると唇を震わせている。白い指先を胸の前で交差させる彼女の、茶色の瞳は少し潤んでいるようにも見える。そんな表情もグッド。
「……それで?」
困った表情で、彼女は指先を弄くりながら潤んだ瞳に俺を写した。
「え!? えっと……」
俺は重大な点に気がついていなかった。……そう、この告白には到達点がない。好きだから付き合ってくれとか、好きという言葉が意味する最終到達点を椎名に伝えていない。
……だが、当時の俺は照れくさそうにそれで? と返してくる椎名に対して「なに言ってんだろうこの子」程度にしか頭を働かせることが出来なかった。
沈黙したまま緊張状態は続いた。なにかを期待して待っていた俺は、麻痺してきた足を動かせないまま、椎名の背後にある廊下の階段を降りてきた担任教師の存在に目を疑った。にやにやと笑みを浮かべながら子供の真剣な恋心を弄ぶような表情でこちらに向かってくる。
予想外出来事に驚愕した俺は、ある行動に出た。……そう、なにを隠そう逃走したのである。
決して振り返ることはなかった。もし振り返ったなら情けなさに格好悪さを二乗させたサイテー野郎になってしまう。……こうして俺の初恋はあっけなく幕を閉じたのだ。
これでも俺は頑張った方だと思う。小学生の男子なんて好きな女子の一人いるものだが、その大半が声をかけられずに終わるか、ちょっとイジワルして終わりなんてのが関の山だろう。
はっきりした目的のある告白ができるほど大人じゃない。みんなそんなことよりも鬼ごっこやテレビゲームに夢中だ。そういった意味では、失敗はしてしまったが、素直に気持ちを伝えられた俺は、周りと比べると少し大人びていたのかもしれない。
とぼとぼとした足取りで、何度も縫い直した人気アニメの給食袋と、流行っていたおみくじのキーホルダーを揺らしながら、定価九八〇円のマジックテープ運動靴で帰路につく。
短く切られた黒髪は汗で少し尖っている。そういえばこの頃はツンツン頭だった。
太陽は、俺の気持ちとは対照的に明るく微笑んでいる。下ばかり見ていて気付かなかったが、校舎を出たところで何者かにランドセルの金具のロックを解除される。
「よお、どうだったんだよ」
「……なんだよ、涼介」
見慣れた顔だ。太い黒縁フレームの眼鏡をかけた少年。緑谷涼介。子供のくせに垢抜けた髪型で一部を明るく染めている。幼稚園に入る前からの幼なじみで親友。
この時代にはまだ言葉がなかったが、後の『イケメン』と言われる部類の顔だ。
「……にやにやマン二号」
「にやにやマン二号? なにそれ」
しかめっ面の俺をよそに涼介は興味津々な顔で横に並ぶ。
「すきって言ったの?」
「……言ったよ」
「それで?」
椎名と同じことを言いやがった涼介に腹が立って、俺は頬を膨らませて歩幅を大きくした。
「おい海斗ー、……おごってやるから金銀屋よってこうぜ」
「行く」
帰り道にある駄菓子屋に寄ることになった。元々は酒屋らしいが、子供好きのおばちゃんが趣味で駄菓子屋を始めたらしく、小学校の児童には好評の店だ。
剥がれ駆けた店名が記されてある自動扉が開くと、汗で蒸れるシャツの隙間に冷気が入ってくる。先客がいた。レジの前でお菓子を決めかねているのか、三人組がたむろしていたのだ。
違うクラスだったが、俺はその中の一人をよく覚えていた。名前は藍染空。
昔、しょうもないことで涼介と殴り合いの喧嘩をしたのだ。そのときは俺が止めに入ったが、完全に涼介が悪かった。
涼しげな顔とは裏腹に涼介はかなり熱しやすいため、俺はよく仲裁に入ることがあった。
にやにやガムを噛みながら、空の背後にいた不良二人が俺たちに近づいてくる。……といっても、小学生なんて可愛いもんだが。
「なあ、金貸してよ、五〇〇円でいいからさ」
「なんでだよ」
涼介は特に表情も変えずそう返事した。
「おい空、こいつなんかナマイキじゃね?」
「お前らが千円貸してくれるんならいいよ、そしたら五〇〇円貸してやるよ」
「はあ? なんだと」
涼介は挑発するような態度で相手をおちょくり始めた。
「涼介、やめときなよ」と俺。
「だってこいつから言ってきたんだぜ? なにが悪いんだよ」
「おい空、こいつむかつくぞ」
お互いの仲間に愚痴を垂れながら狭い売り場で抗争を繰り広げる。入り口の硝子扉越しに、低学年の子供たちが不安げにこちらの様子を覗いている。駄菓子を買いたいのだろう。
俺がそんなことを思っていたとき、レジの向こう側の母屋からおばちゃんが登場した。
「あらまあ、海斗ちゃんに涼介ちゃんじゃない、明日から夏休みねえ」
「あ、おばちゃん。うん、明日からなんだー」
俺は二人の間に入るようにして、おばちゃんと会話をすることにした。
「ふふふ、それはよかったわねえ、いっぱい遊べるといいわねえ……あ、空ちゃんたちはもう決まったの? お会計するからカゴ渡してね」
流石はおばちゃん。状況判断を一瞬にしてやってのけた。
空は長い睫毛を瞬かせ、小さな駄菓子専用のカラーバスケットをレジに乗せた。
「お前らも早く買いなよ」
空は少し長めの髪にかかった切れ長な瞳で、子分二人に催促する。自分たちが原因で迷惑をかけてしまうことを気にしているように見えた。「ちっ」と、子分Aが舌打ちする。
「なんだよ、五〇〇円くん」
「あ?」
「やめい涼介!」俺は涼介の後頭部をぽかりと叩いてやった。
俺は涼介のおこづかいで駄菓子を選んで、店の表で二人で食べる。元々酒ビンが入っていたであろうケースをひっくり返した酒屋ならではの仮ベンチ。
「お前って大人だよなあ」
「なに急に、まだ十一歳なんだけど」
「はは、そういう話じゃねーよ、中身の話。本当に変なやつだよな、お前って」
「よくわかんないけど、まあ涼介よりは大人かもね」
「おー? 言ったねー、本当のおれを知らないな、青岬くん」
「本当の大人は眉間にしわ寄せながら五〇〇円くんなんて言わないよ」
「うっ……そ、そうだよなあー、おれすぐプチってなっちゃうんだよなあ……」
涼介は肩をしゅんとさせて目を閉じる。その隙を俺は見逃さない。彼の手元の小さなドーナッツをひょいっと一つ頂いた。……もぐもぐ。
「あっ、てめなにやってんだよ!」
「ほらプチってなりなよ早く」
「……ったく、お前はずるいやつだ!」
「だいじょーぶだよ、涼介がプチってなってもぜったいおれが止めてあげるから」
「……それもそうだな、さんきゅな、海斗」
「――というわけでもう一個~!」
「あっ、てめ、半分も食いやがったな! ふざけんな! お前のばくだんアイスよこせ」
駄菓子を食べ終わった後は、俺の家で涼介といつものレースゲームをした。