ひと目だけでも
「こんにちは。わざわざ持って来てくれてありがとう。直くんね、丁度さっき眠ったところなんだ。」
直之の兄というこの男は、穏やかな優しい笑みを浮かべ百子に声をかける。
(三井くんと似てる?のかな?)
「あっ、いえ。三井くん、具合はどうですか?」
「午前中は熱があったけど、午後から下がってきて今は良くなってきてるよ。
心配してくれてありがとう。」
自分よりも年上の、それこそ若い社会人位の年齢の男と接する機会のない百子は妙に落ち着かない。
ましてや、この人は自分の好きな人の兄なのだ。
なんと言ってこの場を切り抜けようか。プリントを渡してあわ良くば直之に会えるかもしれない―。
そんな淡い期待は直之が眠ったという事実でかき消された。
ここで長居するのも変だし、かと言ってなんと言って帰っていいのか分からない。
―やはり、ひと目会いたいのだ。
下を向いた百子に特段気にした風のない直之の兄は話しかける。
「りんごジュース飲める?届けてくれたお礼にもし良かったらどうぞ。
直くんといつも仲良くしてくれてありがとう。
直くんが起きたら届けてくれたこと伝えておくからお名前教えてもらってもいい?」
百子はハッと顔をあげた。
「百子ですッ!本田百子!あっ、ありがとうございます!」
これで直之と距離が縮まるかもしれない。兄からの言葉に百子は目を輝かせ勢いづく気持ちのまま答えた。
「百子ちゃん。かわいい名前だね。お家はどの辺り?送ろうか?」
“かわいい”と言われて百子は頬を染める。
無口な直之とは違い兄は穏やかな口調でサラッと気の利く事を言ってのける。
「あっ、いえ。大丈夫です。すみません。お邪魔しました!」
直之の兄からジュースを貰い、百子は急いで踵を返し帰って行った。