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俺の精神安定剤

金曜日、声が出ないため、仕事を休んだ。


体が悪いわけじゃない。声が出ないだけ。それなのに会社を休んでしまった。


まだ入社して二週間なのに。自分が情けない。

病弱な男だ。百子を守れる存在になりたいのに…。


兄貴は仕事。貴将は大学。午後になりキヨさんは買い物に出かけた。




昨日はあの後、兄貴とタクシーで帰った。俺の声が出ないからか、兄貴はあれから口を割らず、家に帰ってからはいつものように、貴将の相手をしていた。


俺は声が出ないのを貴将に知られたくなくて、貴将とは顔を合わせていない。


どうしていいか…分からない。




暇だから家の中を歩き回る。さながら徘徊だ。


(兄貴とは本当に血が繋がっていないんだろうか…)


もう一度書斎に入ってアルバムを探す。


(兄貴が家族である証拠を…)


大丈夫。兄貴は絶対嘘を言ってる。





「直くん、動いてて大丈夫?」


後ろから家にいないはずの兄貴の声が聞こえて驚きで物凄く肩が震えた。


「…そんなに驚かせるつもりじゃなかったんだけど。」


(…仕事は?)


「直くん声出ない?病院に行く?」


病院には行かない意思を示すため首を横に振る。声が出ない。分かってる、失語症だ。両親を亡くしたときと同じ症状だ。


その時も、兄貴がひどく心配して病院に連れて行ってもらった。ショック症状だったらしい。入院もした。


「直くん、大丈夫?」


…いつもの兄貴だ。両親が亡くなってすぐも、こんな事があった。小学四年生のとき。風邪をひいて学校を休むと兄貴が会社から抜けて帰って来て、俺の看病をしてくれてた。

兄貴はどんなときも俺と貴将を一番に考えて、思ってくれた。



失語症になって、風邪ひいて、俺は今も昔も病弱だ。


「…貴将には、いつ言おうか?」


(え?)


「直くんももう知ってるんだし、貴将にも早く言った方がいい。このまま貴将が気づくまで黙っておくのは今度は直くんに嘘を強いる事になるから。」


…兄貴はこれまで、ずっと一人で抱えてきたんだ。誰にも言えない秘密を。…キヨさんは知っていたのか。あの余所余所しかったここ最近の様子が腑に落ちる。


「直くん…。沢山嫌な思いさせたね。ごめんね。」


兄貴が昨日とは打って変わって寂しそうに笑って言う。


穏やかな兄貴が実は色んな顔を持っていて、色々と使い分けていた事を知った。


「本当はもっと早く言うつもりだったんだ。高校卒業したら…とか、成人したら…大学卒業したら…って言えないままで…」



きっと、確定なんだ。兄貴とは血が繋がっていない。

これは…変えられない事実なんだ。



「ごめんね…お兄ちゃん、ずっと嘘をついてた…。嘘をついたらいけない二人に…一番重要な事を…隠してた。」


一日たって冷静さを取り戻したのか、昨日の冷酷な表情はない。


「…ずっと恐かったんだ。だから言えなかった。」


(何を?)


「この家に養子に貰われて、お父さんもお母さんも本当の家族のように接してくれてたのに…俺はそれを受け入れてなかった。〝どうせ他人のくせに〟っていつも思ってた。」


(…。)


「自分がずっとそんな思いを抱えて生きてきたから、恐かったんだ。」


珍しく兄貴は話を伸ばす。いつも簡潔に分かりやすく話すのに…


「直と貴が、この事実を知ったときに…〝本当の兄貴じゃないくせに〟って言われるのが…ずっと恐かった…」


(そんな…)


「だから…言えなかった…。」


そんな事思うわけないじゃないか。今だって、なんとかして兄貴が養子じゃない証拠を見つけようとしていたのに。


「ごめんね。直くんと貴ちゃんが慕ってくれてたのは、幻想なんだよ。兄という仮面を被った赤の他人なんだ。」


赤の他人…


そんなに…血の繋がりって大事なのか?


兄貴はこれまでもずっと俺と貴将の兄だったのに…。


「貴将には明日の夜にでも話すよ。明日大きな試合があるから、それが終わってから。」


親代わりに、貴将のラグビーをずっとサポートしてきたのに…


「直くん、ずっと次男で育ってきたのにごめんね。直くんと貴将が正真正銘のお父さんとお母さんの子供で、この家の子供なんだ。だからこの家のこと直くんと貴将とで話し合って、どうするか決めてほしい。」


兄貴は他人なのか…


「仕事も…どんな経済の波が来てもビクともしない会社にするから、そしたら直くんが会社を守っていってほしい。」


聞きたい事が山ほどある。なのに声が出ない。


〝100年続く企業に〟兄貴の夢は俺が安心して社長に就任出来るようにするためのプランだったんだ。


やっぱり、兄貴は、優しい。




この前兄貴の口から出た俺と百子の子供を養子に、という話はきっと兄貴の実体験だったんだ。


生命を…物のように…。兄貴はきっと物のようにこの家に連れて来られたんだ。


〝五歳の時に貰われて来た〟俺と兄貴は10歳離れている。

…もしかして、お父さんとお母さんに子供が出来なかった…から?――もし、俺が産まれなかったら…。



「勘違いの無いように言っておくけど、直くんが産まれたときは嬉しかったんだよ。直くんが主体じゃないけど、俺を受け入れてくれた両親が喜んでいたから、嬉しかった。」


…。兄貴はお見通しだ。


「まぁ、俺もこの家に貰われるまでは色々とあって、まさかこんなに良くしてくれる人に貰われると思ってなかったから。」


その、色々は答えたくないんだろうな。

兄貴の支えになりたい、ずっと思っていた。


今の俺に…兄貴の為に何が出来るんだろう。

たとえ血が繋がってなくても、兄貴は兄貴で。お父さんとお母さんの子供で。家族で。



――そう、血なんか関係ない。兄貴は家族だ。




「日曜日には荷物をまとめて、ここを出ていくから。」


え?


「赤の他人と分かった以上、兄弟関係を続けてはいけないよ。ご本家の子息と養子が一緒にいたって悪影響にしかならない。生活費は今まで通り、キヨさんに渡すから、直くんと貴ちゃんは変わらず生活出来るからね。」


いや、何を言ってるんだよ。兄貴は。


あー、もう!声が出ない!!


「病院、行かなくていいなら、お兄ちゃんそろそろ仕事に戻らないと。ゆっくり休んでおいてね。」


兄貴が遠ざかる。声をかけられない…

あまりに衝撃的で、どうしたらいいか分からない。





パッと、百子の顔が浮かんだ。俺の精神安定剤だ。


こんな弱ってる情けない所を見られたくないけど、百子に会いたい。


矛盾してる。


だけど…百子に会いたい。


会って、力いっぱい抱きしめて、思いっきり息を吸いたい。


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