第壱話〜道
都心から離れた郊外の街。
川沿いの土手の桜並木は、薄紅色の花々が所狭しと咲き乱れ、溢れんばかりになっている。
そんな土手道から少し降りて、車がなんとかすれ違えるかという細い道を行った先にその家はある。
どれもこれも似たり寄ったりな作りの洋風の建売住宅が並ぶ中で一軒だけ、青々とした生垣に囲まれた二階建ての日本家屋が建っている。
時代を感じさせる姿形であるが、一方で汚さや古臭さとは無縁で清潔感のある武家屋敷か何かを改築したような上品さと小綺麗さを感じさせる家だ。
そんな家の一室、薄いグリーンのカーテンを通して朝日の光が柔らかく照らす部屋の中、一人の少年が姿見の前で立っていた。
「うん、悪くないな……むしろいい!」
彼の名は倉稲遥歩。この春、地元の中学校を卒業して今日から晴れて高校生となる15歳の少年だ。
制服に袖を通し、鏡の前でくるりくるりと回りながらおかしな所が無いかと腕を伸ばしたり曲げたりしながら見回す。男子にしては長めな肩に届くかどうかの黒髪を靡かせるその様はまるで、
「——女子かッ!」
遥歩の様を見かねたように、彼の背後から高く澄んだ声が響く。途端、歩夢は電流でも流れたようにビクンと飛び上がる。
「ゆ、優果ぁ!? い、居るなら声かけてくれないかなぁ! 変な声出ちゃったじゃんか! てかノック!」
「襖ノックなんかしたら傷んじゃうでしょ?」
そう言って遥歩の部屋に入って来たのは車椅子の少女。
遥歩の妹、倉稲優果だ。艶めくストレートの黒髪を腰のあたりまで伸ばし、それを揺らしながら部屋の中を見渡す。
「随分とすっきりしちゃったわね」
「まぁな。もう荷物はほとんど送っちゃったし」
部屋に残って居るのはカーテンと本棚、長く親しんだ勉強机にちゃぶ台、締め切られたカーテン。そして押入れの中の先ほどまで寝ていた布団だけ。生活感はさっぱりと拭い去られ、元を知っている人間からすれば殺風景な部屋になってしまった。
すこししんみりとしてしまった空気を紛らわすように優果は手をパンと鳴らして遥歩に笑いかける。
「さ、早く行きましょ。せっかくの朝ご飯が冷めちゃう。しばらくこの家での食事も食べ納めなんだし、ちゃんと美味しいのを食べてってもらわないとね!」
そう言って優果は車椅子を器用に操り、くるりと回って部屋を出て行く。
そんな彼女の後ろ姿を見て遥歩はその背に駆け寄り、車椅子の手押しハンドルを掴む。
「……きゃ! 急に何するのよぉ、兄さん!」
「う、ごめん。脅かす気は無かったんだけど……いや、しばらく戻る機会もないかもだし、ちょっとくらい孝行しときたいな……なんて」
咄嗟の自分の行為を口に出してセンテンスにする事で、無性に恥ずかしくなり、遥歩は少し視線を外して頬を掻く。
そんな兄の様子を見て、優果はぽかんと口を開け、そして不意に笑い出した。
「……優果さん? 結構恥ずかしいんだからトドメ刺さないでくれない?」
「あはは、ごめんごめん。でもそうね、確かに長年この家の家事を担ってきた私に、少しくらい孝行してくれても良いかもね」
そう言って優果は車椅子のハンドリムから手を離して膝の上に置き、悪戯っぽい瞳で遥歩の方を見る。
「それじゃあよろしく。兄さん」
「喜んで」
日本家屋特有のざらついた土壁を横目に遥歩と優果は長い板張りの廊下を車椅子で軋ませながら行く。
ふと、渋い抹茶色の土壁に右手で擦れるように触れてみる。一つ一つ違う凹凸のざらつき具合がどこか寂しく感じられて、遥歩は何にでもセンチメンタルになるような自分に思わず自嘲的な笑みを浮かべる。
「ちょっと」
ふと気づくと優果がこちらを冷めた目で見ていた。
「片手押しなんて随分と余裕じゃない? お陰で私は不安諤々なんですけど?」
どう見たって不安諤々の人間には見えない、憮然とした優果の膨れっ面に遥歩は頭を掻き、悪い悪いと苦笑いで返した。全く彼女には敵わない。
長い廊下の突き当たり、くすんだ色味の背景に山景を描いた襖の奥からはテレビの音といつもと変わらない朝食の香りが漏れ出てくる。
「おお、遅かったな。緊張で寝つけず寝不足、なんてのを想像してたが案外平気そうだな」
襖を開けた先にいたのは青い浴衣を着た男性が座椅子に座って寛いでいる。
ボサボサに伸びた黒い髪に顎の輪郭に沿って生えた無精髭、目元のシワのせいで壮年期の男性のように見えるが、声の張りには秘められた若々しさを感じさせる。実際彼はまだ齢四十にも行っていないおじさんとお兄さんの瀬戸際世代(自称)だ。
全体的にだらし無さげな雰囲気の彼は座椅子の背もたれを思い切り背中で押し倒してのけぞりながら二人を見て笑う。
「おはよう陣さん。それはそうとしてアンタの中での俺の精神年齢に対する認識に物凄くモノ申したいんだけど」
「ったくお前のせいで俺ァ飯を目の前にもう十分近くお預け食らってんだぜィ? 犬のしつけよりも残酷じゃねーか優果よォ?」
遥歩の不服の言葉を気にもとめずに自分の不満を子供っぽく並べる陣と呼ばれた男。
そんな彼の言葉を苦笑を浮かべながら流して二人は食卓に着く。
食卓に並ぶのは漆塗りの木茶碗によそられた出汁の香る豆腐とわかめの味噌汁、ふっくらと焼き上げられたシャケの切り身に塩気と複雑な旨味香る漬物とふわふわの卵焼き、そして一粒一粒がツヤツヤと輝くご飯。
なんという事はない、昔ながらの和風の朝食。しかしそう言った素朴なものほど身体に沁み入ることを遥歩はよく知っている。
「そいじゃ、頂きますかィ」
先ほどまで不平をたらたらと言っていた陣だが、食卓に皆が揃うと行儀よく手を合わせる。
そしていつもの通り、いただきますの声を揃えて3人で揃って食べる最後の朝食が始まる。
いつもの優果の作ってくれる朝食。細やかな味付けとまだ肌寒い春の朝に震える体にじんわりと広がる熱。いつにもましてそれらが強く感じられて、遥歩も自然、料理をよく味わって文字通り強く深く噛みしめる。
「荷物はほとんど送ったんだよなァ、遥歩」
「ああ、諸々寮の部屋に昨日のうちに送ったよ。きっと今日の午後くらいには部屋に届いてると思う」
「あそこの寮は一つ一つの部屋が広めだからなァ。俺の方でも倉稲の家のモンも少し送っておいたぜィ。なんかしら役に立つモンもあるだろうよォ」
「とか言って、収納スペースの確保が目的でしょ?
陣さんてば、またたっぷりと本とかなんとか仕事関連のを買い込んだのは知ってるんだからね」
「……俺の新天地は倉庫扱いかよ」
「ははは、なんのことやらなァ。あ、優果。醤油取ってくれィ」
取り留めのない会話。
それもしばらくは出来なくなると思うと少し寂しい。通信技術が発達し、電話やメールだけでなくSNSやテレビ電話の類などで離れたところの人間と繋がりやすくなった世の中だが、未だにいくら技術が発展しても物理的な距離という壁は生身の人に息づく温もりを伝えるには厚すぎるのだ。
食事が終わり、優果は皿洗いを、陣と遥歩はテレビを見ながらぼんやりと時間を潰していると、停滞したような空気を切り裂くように玄関のベルが鳴る。
その音に遥歩は微睡みかけた意識を覚醒させる。そしてその時が来たと目を閉じてゆっくりと立ち上がる。
「———そろそろ行くよ」
「ん、もうそんな時間かァ。おい、優果ァ。遥歩そろそろ出るってよォ!」
陣はよく響く低い声で襖の向こうで水仕事に勤しむ優果に呼びかける。
洗い場からは水を止める音、そして「はーい」という鈴のなるような声。
少し痛いくらいに伸びをして、遥歩は傍のバッグを手に取り玄関へと向かう。
曇りガラスの玄関扉の向こうには遥歩と同じくらいの背格好の人影がぼんやりと見える。
「悪い、待たせた」
扉を開けた先にいたのは遥歩と同じ制服を着た少年。
髪は茶髪で所々にどこかおちゃらけたような印象を与えるが、その表情には贔屓目かもしれないがそれを覆して余りある誠実さを感じさせるモノがあるように思える。
「ホントだよ、僕の時間も体力も有限なんだからね?ちゃんと労ってくれなきゃ」
「オイ、様式美的に下手に出てるからって調子乗るなよ?まだ1分も経ってないだろ?」
遥歩と軽口を叩き合う少年は、八雲馨。
遥歩の幼馴染であり、遥歩と同じ高校にこれから入学する仲間でもある。
茶髪に少し垂れた目元、何よりそのどこぞの王子様のようなイケメンぶり。学業運動共に優秀な馨は中学校でもある種アイドル的な存在だった。
それだけに、周りは遥歩と同じ進路を決めた彼に驚いていたのだが。
「おお、カオルかァ。おーおー、よく似合ってるじゃねえかその制服ゥ。サマになるねェ」
よれた浴衣を直しながら、サンダルをつっかけて陣が玄関に現れる。馨はその賛辞ににこやかに笑って返す。
「ありがとうございます、陣さん」
「おい待て。アンタ俺には一言も制服について言わなかったじゃねーか」
一人部屋で、姿見の前でくるくるしてた自分がバカみたいじゃないか。いや、実際バカみたいだったのだが。バカというか女子みたいだったのだが。
「そりゃあ、お前ェ……素材の差ってやつだろうよィ」
「あー、そーでしょーね!そーでしょーさ!ちくしょーめ!」
少し躊躇いながらも残酷なことをしっかりと言ってのける陣に遥歩は地団駄を踏んでいじけてみせる。
自分の中でもこんな子供っぽい面倒な承認欲求があったとは驚きだ。いや、承認欲求というかヤキモチに近いのだろうか。
そんな下らない話をしていると廊下の奥から軋む車輪の音が響く。優果だった。
優果は玄関先に立っている馨に気付くと、ひらひらと手を振る。
「あ、カオルくん久しぶりー! 制服カッコいいねぇ。さっすがぁ〜」
「優果……お前もか……ッ」
思わぬ妹の裏切りに遥歩は新品の制服の膝が汚れるのも気にかけず崩れ落ちる。兄さんすごく辛い。
「あはは、安心してよ。兄さんもとっても似合ってるから」
「うう、もう少し早い段階でそれを聞きたかった……」
「はは、ホントに遥歩はヤキモチ焼きだねぇ」
微笑ましげに遥歩の七転八倒を見ている二人。その生温かい視線はすごく自分が惨めに見えるのでやめてください。
そんな三人のやり取りを側から傍観していた陣が不意に口を開く。
「オイお前らァ、電車の時間は大丈夫なのかァ?」
「———げ」
遥歩と馨の表情が固まる。
玄関の時計の針が示す時間は8時半。入学式は入学式は10時から。時間があるように見えるが学校はここから1時間半弱はかかる。
つまるところ大ピンチである。
「やっば……い、行ってきます!」
「待てよィ」
回れ右して駆け出そうとした矢先、陣がそんな二人を止める。
振り返った先の陣の目はちゃらんぽらんな先ほどまでの彼のそれではない。
峻厳としていながら穏やかで優しい、大人の瞳。彼のそんな顔を見て二人は空気が変わったのを感じる。自然、居住まいを正して彼の目を見つめる。
そんな二人に陣はニカッと笑って二人の頭にポンと手を置く。
「頑張れよォ。バカ弟子どもォ!」
「行ってらっしゃい! 二人とも!」
陣と優果の優しい言葉に、胸の奥から何か一瞬、駆け上がるように込み上げてくる。しかしそれを出すまいと、押さえつけ、そして応える。
「おう! 立派な陰陽師になってみせるから! 見てろよ二人とも!」
そう言って遥歩は新たな道へと駆け出した。
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