第拾話〜契約
最近ちょっと暑くないです?
「―――それで、契約ってどうやってやるんだ?」
ベッドにぼすんと音を立てて座り込みながら遥歩は千尋に問いかける。
人工式の作成については簡単なモノであれば遥歩も陣に手ほどきを受けたことがある。とはいえ陣はあまり式神を使いたがらなかったし、ましてや護法式なんて名門の家にぐらいにしかいないもののはずだったのだから、そんなものとの契約のやり方を知っているわけはない。
「そうですねぇ。今回は『再契約』ですし、私めが主導で儀式をしても問題はないかと」
そう言って千尋は懐から卒業証書大の紙―――和紙だろうか―――を取り出し、その表面を右手で軽く撫でると紙の表面に草書体の文字列が浮かび上がる。そしてその末尾には遥歩と千尋の名前が記されている。これが「契約書」のようなものだろうか。
千尋は腰の脇差を抜くと、左薬指の爪の根のあたりの皮膚をその切っ先で軽く突く。
「―――ッ!」
千尋の指の傷口からはぷっくりと赤い血が玉のようににじみ出る。幼女が自分の指を軽くとはいえ刃物で突くという光景に思わず遥歩は驚きを露わにする。一方の千尋は一切表情を変えずに、その血を左手の親指の腹でつぶして、それを「契約書」の自分の名の下に押し付ける。血判、というわけか。
千尋は懐から取り出した手拭いで、指の血と脇差の刃先の血をふき取る。
「―――血判ってそういう風にやるんだな。てっきり親指を刺すなり切るなりして血を出すんだと思ってた」
静謐な空気に耐え切れず、遥歩は千尋に他愛もない話題を振る。千尋は血をふき取り終わった脇差を鞘に仕舞って、遥歩に手渡しながらそれに答える。
「親指を切ってしまうと、刀が握れませんし治りも遅いですからねぇ。あと痛いですし」
「へえ、そういうものなんだ」
遥歩は千尋から脇差を受け取って、彼女に倣い左薬指の爪の根のあたりを刺す。力の加減が上手くいかず、一回目は血も出ず、二度目は少し強く刺しすぎて痛みに思わず顔をしかめる。しかしそれを何とかこらえ、遥歩は自分の名の下に血判を押す。
「―――これで、いいか?」
「完璧です、遥歩様」
「ここからどうするんだ?」
「これから祝詞の奏上を行い千尋と遥歩様の間に契約を完成させます。契約が成立すると千尋めに呪力が一気に流れ込み、その反動で歩夢さまの体内の霊力が大きく減少。次いで護法を恒常的に厳戒させるための経路を呪力で構成するのでさらに大幅減少。そうするとぉ―――」
「そうすると―――?」
「遥歩様は死にかけてしまいます‥‥‥です」
「あ、死にかけるのは確定、なんだ‥‥‥」
容赦ない断定に遥歩は生唾を飲み込む。つまりそれほどまでにこの契約は生半可なものじゃあない、ということだ。覚悟はしていた、だが改めてそれをはっきりと認識すると怖気が背を走る。
「申し訳ありません……もはや千尋の呪力は底をついており、自己生成できる呪力もほとんど最低限の存在維持に使っている状態ですのでぇ……」
肩をすぼめる千尋。後ろめたさ、申し訳なさ、情けなさをブレンドしたような表情。唇を噛みしめ、膝に置いた拳は強く、血が滲みそうなほどに握りしめられていた。
それを見て改めて思う。死にかけるくらいなんだ、目の前の彼女は自分が助けなければ本当に消えてしまうのだ。ならばここで躊躇う訳にはいかないだろう。
「大丈夫。俺は千尋の主人なんだから———俺に任せて」
虚勢、言ってしまえばこれはそういう類のものだろう。きっと千尋にも分かっているだろう。
でも、それを貫かなきゃいけない、そんな時もあるのだ。じっと千尋を見つめる遥歩。
「———分かりましたです。では、準備を……ちょっとだけ、失礼しますです」
そういうと、千尋はいそいそと準備を始める。窓際に備え付けの文机を。その上に塩と米を盛った皿、水を入れたコップを並べていく。コップの水面には空いた窓から吹き込む風に揺らぐ月影が映っている。それを眺めながら遥歩はどこかぼんやりとした風に口を開く。
「―――祭壇、か?」
「そうです。本来はもっと格式あるやり方があるんですけど、パスのつなぎ直しの面が強いのでこれくらいで大丈夫なのです」
そう言うと、千尋は文机の前に正座し、隣に座るよう遥歩に促す。それに従って遥歩は彼女の隣に正座して千尋を見つめる。
すうと息を吸い目の高さにまで契約書を掲げると、目を閉じて千尋は朗々と詠唱を始める。
「―――『掛巻くも畏き稲荷大神の御前に畏み畏み申し上げる。此方はこれなる陰陽師 倉稲歩夢の式神なり。幾星霜の時の間に隔たりし我らが縁、手繰り手繰りて結び給へと畏み畏み申し上げる』」
千尋はそこまで詠み切るとふわりと契約書から手を放す。すると契約書は風にさらわれるかのように浮かび上がり、次の瞬間、契約書は青白い狐火の様な炎に包まれ灰となって、窓の外、月の彼方へと消えていく。
「―――ッ!?」
それをどこか現実離れした気分で見送った遥歩の身体を違和感が襲う。そしてそれは痛みへ、苦痛へ、そして虚無へと変転していく。
全身の臓器が震え、血管が戦慄く。魂が、生命が全身の毛穴から外へと引きずり出されていくような感覚。
目の前の景色がぐるりぐるりと回り出し、攪拌され、世界と自分の境界すら曖昧になっていく。
自分というものが何処か遠くへ打ち捨てられていくような感覚が遥歩を襲う。
「‥‥‥カフッ!?」
喉奥から込み上げるものを咄嗟に右手で受け止める。
その手は赤黒い血に染まっていたが今の遥歩にはそれすら分からない。ただ温かいぬるりとした感覚が辛うじて皮膚を通じて伝わってくるだけ。
視界に入るもの、その色が各々の輪郭を突き破り、混じり合う―――そして全ては黒へと変わっていった。
♦
「―――あ」
目の前が唐突に白む。身体の節々が痛む、五感のすべてに靄がかかり、手足や首はまるで蜘蛛の糸にでも絡めとられたかのような気分だ。
―――なにが、あったんだっけ‥‥‥
徐々に体の感覚が戻ってくるがやはり体が鉛のように重く動けない。しかしぼんやりとしていた視界は徐々に色を、そして物体の輪郭が徐々に認識できるようになっていく。身体の触覚も戻ってきている。柔らかく冷たく、それでいて乾いたモノを手足で感じる―――ベッド、だろうか。しかし、後頭部から伝わる感覚はどうにも違うように感じる。柔らかいのだが、ふかふか、というより張りがあり、じんわりと暖かい。
「―――う、ああ」
声を出そうとするも、喉の奥が張り付いたかのようでこすれるような音しか出てこない。しかし、その声にもならない声に反応して視界に動きが生じる。
「あ、遥歩様―――お目覚めですか!? お目覚めですか!?」
鈴のなるような声が響く。ああ、この声は―――千尋か。
しかしその瞬間、違和感を覚える
―――声が、近すぎやしないか?
眼球に呪力を流すよう意識し、視界の回復を急ぐ。
次の瞬間、見えたのは天井ではなく、不安げな幼女の顔。彼女は遥歩の目が開き、意識が戻ったのをみとめると花の咲くような眩しい笑顔を見せる。
一方の遥歩は状況証拠と後頭部越しの感覚を併せて勘案して出した、口に出しがたい想像を口元をひくつかせながら文字通り目前の幼女に片言気味に尋ねる。
「―――アノゥ、千尋ォサン? アナタ、何シテラッシャルノ?」
「はい! ひざまくらでございます! お目覚めになられて本当に良かったですぅ!!」
無邪気で弾けるような千尋の笑顔と、正直分かりきっていたその答えに歩夢は一瞬意識が遠のき、また身体からふらっと魂が抜けてくような感覚に陥る。幼女に膝枕‥‥‥どんな羞恥プレイ!?
「~~~ッ!?」
「ちょ、遥歩様!? どうなさったんですかぁ!? お、御髪がすれてくすぐったいですぅ!」
寝返りを打って逃げようとするも、五体の感覚がいまだに戻らず彼女の膝の上で悶えるだけの様な形になる。どんな変態だ? こんなザマ、誰かに見られたら死ぬ。恥ずか死ぬ。
自室で契約したのは不幸中の幸いか―――そう思ったときだった。
「さすがに幼女で式神の生膝に頭擦り付けるのは引くなあ‥‥‥遥歩」
「―――え」
「いやあ、まあ可愛い女の子の膝枕を堪能したい気持ち、理解はできるけどね」
「―――え、え」
「とはいえ、幼馴染の友人がこんな性癖があるとは、衝撃の事実だなぁ。僕ショックぅ」
「―――え、え、え」
なんとか動く首を、錆びたネジを回すかのようなぎこちなさで声のする方に視線を向ける。すさまじく聞き覚えのある声、もっともこの状況で聞きたくない、いて欲しくない人物の声。
「―――ま、まさか‥‥‥まさか‥‥‥」
「や、遥歩」
そこにいたのはスマホを構えてこちらを壁にもたれかかる最悪の幼馴染だった。馨は手をひらひらと振りながらへにゃっとした笑顔でこちらを見ている。次の瞬間、彼のスマホからティロン、という動画撮影終了を知らせる機械音が虚無感と共に遥歩の部屋に響く。
「―――とりあえず死ねェッ!!?」
喉の限界を超えた絶叫が響き渡った。
血判の仕方については以下のサイトの記述を参考とさせていただきました。サイト主様におかれましてはこの場を借りてお礼申し上げます。
『Yoshimasa Iiyamaのブログ』より、「血判の作法」,最終閲覧日:2020年3月13日
https://ameblo.jp/o-deco-3/entry-11928623867.html