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ワルツを踊れ  作者: 脱獄王
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ユーテロの揺籠#5

 息を吸う事すら忘れるほどの恐怖に、身体は動くという機能すら崩壊させたらしい。

 腕も脚も、自分の行きたい方向とはあべこべに反応し、身体は浮遊したように掴み所がない。まるで、自分の体ではないような気分だった。

 冷房は身体が冷たくなるくらいの温度に設定している。身体が冷え切ったところで、漸く温度を適正に戻すのが彼女の習慣だった。だが、身体は冷えるどころか、益々熱を帯び、身体中から滲み出すように汗が一切止まらない。毎日時間を掛けて施している化粧も、目当ての男に見せ付けるには台無しだ。瞼に貼り付けた自慢の付けまつ毛が半分以上剥がれてしまっている。アイシャドウも汗で溶け出しているようで、黒い涙が両目から溢れ出しているように見えた。だが、今の彼女は自分の顔が酷い有様になっているのにさえ気付いていない。自分の命が危険に曝されている。それだけが彼女の胸の内を満たしていた。

「お願いっ!殺さないでぇ!!」

 彼女は目の前に立つ者に向かい、必死に訴えっていた。命乞いと言えば聞こえはいいが、実際はそのような生温いものではない。形振り構っていられない。屈辱的な姿を曝け出したとしても助かりたい。地べたに這い蹲って足の指一本一本を舐めてでも助かりたいと願うほど、彼女は自分の危機を致命的と直感していた。

 背後には部屋の壁が迫りもう逃げ場はない。

 不思議な事に、助けを呼ぼうと何度も大声を出しても、壊れるほど壁を叩いても、一切周囲からの反応はない。まるで、『音が何かに包まれている』かのように反響するのだ。自分の頭の中だけに音が何重にも広がっていく感覚に、彼女は頭がおかしくなりそうだった。

「安心して。貴女の罪は貴女の死を以て償わせてあげるから」

 冷ややかな声だった。彼女の前に広がる黒い影にとって、彼女の命乞いは無価値だ。人を殺めるという行為は、黒い影にとっては食事をするのと変わりない。当たり前の習慣で、生活の一部として成り立っている。彼女の大声などただの雑音と同義だ。

 黒い影は彼女に一層迫り告げる。

「貴女の罪は『そこ』にある」

 それは神託だった。

 その直後、彼女は自分の体に違和感を持った。

 彼女が初めに感じたのは、溶岩を腹の内へ注がれたような熱だった。その熱は雷鳴のように体内を劈き、全身を痛みで震わせる。声に成らない声が腹の底で渦巻き、痛みを超克し体内を砕いていく。

 綯い交ぜに体内を蹂躙しているのは何か?

 腕だ。

 黒い影から伸びる腕がまるで底無し沼に深く入り込むように彼女の腹の中に沈んでいる。

 腕の先で何が起きているか?

 彼女には知る由もない。

 腕の先は絶えず何かを弄るように動き続けている。

 彼女は死に至るほどの痛みを感じていた。が、その痛みは、腕の動きと共に不思議と和らいでいった。寧ろ痛みとは逆に、体は弛緩し、まるで男に盛大にイカされれた後のような気分だった。

 黒い影はその様子を眺めながら、彼女の目をしかと見据えた。

「貴女は知っている?『痛み』というものは与え続ければやがてその感覚が麻痺し鈍感になっていく。激しい痛みも軈ては『痛み』ですらなくなるの。---------痛みに鮮度がある。じゃあ、最も痛みを感じる瞬間はどんな時だと思う?」

 影は腕の動きをぴたりと止めた。

 彼女は涙と唾液でぐしゃぐしゃになった顔を覗き込まれた。

 最早身体の感覚はないに等しかった。痺れるという感覚すらなくなり、初めから腕や脚が欠落している錯覚さえ覚えた。恐怖と痛みで失禁した際の気持ちの悪い温かみも、下半身は正直に訴える機能すら忘れている。唯一動く唇でさえ、声をあげる事すらままならないのだ。目の前で問い質す者に対する答えなど生まれる筈もない。

「分からないなら教えてあげる・・・・」

 その瞬間、今までとは異なる感覚が腹に刺さっている腕の先に集約した。

 彼女は咽喉を絞り上げられるように息を吸い込む。

 そして、断罪の刻は幕を開けた。

「痛みを忘れた時だ!!」

 黒い影は荒げるような声を上げ、腕を勢いよく彼女の腹から引き抜いた。

「あっああぁぁぁああぁああああああぁああぁあぁあああ・・・・・・」

 声にならない声が、壊れた目覚まし時計のように部屋中に鳴り響いた。

 彼女は白目を剥き、神に縋るように口を天井に向けていた。だらしなく開き切った口からは唾液に交じり、赤黒い血が湧き水のように溢れ出している。

 黒い影によって与えられた痛みは、彼女の命を瞬く間に奪い去った。

 腕が引き抜かれた腹の穴からは、ミキサーでぐちゃぐちゃに刻まれた臓器のペーストが、皿に注がれるスープのように流れ出している。

「『これ』は、貴女には相応しくない」

 黒い影は月光を浴びながら、彼女の体内から引き抜かれた『何か』を、愛おしい人に恋い焦がれるように見詰めていた。

 絶命した彼女は、最早ただの道路脇に放置された生塵でしかない。

 黒い影にとって最も大切なのは、既に掌の中に大切に収まっているのだから。

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