ユーテロの揺籠#4
時刻は夜の八時を廻り、店の片付けも一通り終了した。
結論として、光理は祥子の申し出を受ける事となった。詳細はまた後日という事で、祥子はほっとしたように方舟を後にした。
一方で、光理の心中は少し複雑だった。
文化祭の計画表を持参し詳細を話したいという彼女の申し出を、光理は快く快諾したという訳ではなかった。勿論、表面上は司の勧めもあって了承した。が、『文化祭』というワードは光理にとって余り触れたく無いものなのだ。
光理は『ある事情で』高校を一年の夏に中退している。それからは、意識的に『学校』という存在から距離を置いているのだ。況して、祥子の依頼は名門女子校の文化祭の手伝いの依頼だ。光理からは幾光年遥か先の星の出来事のように思えてならない。そういったものから自分を遠ざける為に、髪を金髪にしたりもした。それが、小さな反抗だとしても、そうせずにはいられなかった。
光理は洗い物を終え、布巾で掌の雫を拭う。その正面には、明らかに不機嫌そうに口を尖らせている鈴香が未だに帰宅せず大石のように座っている。
「・・・何か言いたいんだったら言ったらどうだ?」
見るに見兼ね、光理は自ら薮蛇を掴みにいく。
「べっつにぃ~」
鈴香はあからさまに光理に噛み付く。
「私にはぜーんぜん関係ないからいいけどさ。まさか、ひかりがあんなに簡単にあの子のお願いを聞くと思わなかったなぁと、ふと考えただけだよ。私のお願いはぜ・ん・ぜ・ん聞いてくれないのに、可愛いお嬢様のお願いならあっさり聞くんだなぁ~って」
分かり易過ぎる不平不満に、光理は思わず耳に交通規制をかけたくなる。不機嫌な時の鈴香には何を言っても無駄なのは幼少の事からよく知っている。光理は諦め、これ以上決して迂闊な発言をするまいと固く口を閉じた。そのまま黙ってカウンターから逃げるのが得策だ。戦略撤退と言っても良い。
その絶妙な瞬間だった。
「それで、光理くん。彼女とは今度いつ会う予定なの?」
意外な伏兵に、光理の身体はカチッと音が鳴るように固まった。
「彼女からもう連絡来てるんじゃないの?返事はきっちり迅速にしないと駄目だよ」
追い打ちを掛けるように、司は満面の笑みでつらつらと光理にアドバイスをする。司にあれよあれよと言い包められ、光理は祥子と連絡先の交換をしたのだ。鈴香はそれを横で聞きながら益々不機嫌になっていく。
これはどうにも旗色が悪い・・・・・
光理はいっそ開き直り、司に質問する。
「どうして俺に彼女の手伝いを勧めたんですか?」
「それは私も是非聞きたいです!」
好機と言わんばかりに、鈴香は光理の質問に手を挙げ賛同する。
そもそも光理は祥子の申し出を断ろうとしたのだ。だからこそ、司に話を通したのだが、話は光理の意図しない方向にすっかり向かってしまった。司は光理とは全く真逆の考えを持っていたらしい。司は少しだけ考えるように腕を組むと、
「そうだな・・・単純に、光理くんにも『青春』を味わって欲しいと思ったからかな」
司は何かを伝えようと光理の肩に掌をぽんと置く。
「光理くんの『事情』は理解しているつもりだけど、それでもやっぱり高校生活っていうのは一生に一度しかないものだからね。折角機会があるんだから、青春の一頁くらい大いに楽しんでもバチは当たらないよ。青春は味わってこそ、その味わいが分かるものさ」
意味深な言葉を残すと、司は帰り支度をする為に二階へ上がってしまった。
その言葉に、光理は咽喉まで出掛かった言葉をそのまま呑み込んだ。司の折角の心意気に水を差すのは無性に憚られたからだ。司に見透かされる自分の汚い意地を態々曝け出すのは、自分が惨めになるだけだ。
「・・・青春の味ね」
そんなものは苦くて口に入れるのも嫌になるだけだ。少なくとも今までの生活ではそう思っている。
「今回は司さんの顔に免じて許してあげる」
鈴香はボストンバックを肩に担ぎ、澄まし顔をする。
光理はそれに呆れたように反論する。
「元々、お前に許されるも何もないだろうが」
「私はおばさんにひかりの『素行』をチェックするように云われてるの。だから、私にはひかりの行動を注意する権利があるのです!」
鈴香はふんすと鼻を鳴らし胸を張る。
母さんめ・・余計な事云いやがって・・・
光理は高校を中退し家を出たきり一度も自宅へ戻っていない。正月もお盆も一切顔を出していない。厳格な父は光理の起こした『暴力事件』を未だ許しておらず、家の敷居を跨がせるつもりはないらしい。光理もそれを弁えている。だからこそ、家に寄り付かないのだ。一方、母と少し歳の離れた妹は、時折『方舟』にやって来ては光理の元気な姿に安心している。
だが、光理自身は父が許そうが許すまいが、もう家に戻る気はない。
鈴香も知らない『戻れない理由』があるからだ。
「権利があろうが何だろうが、俺のプライベートに口を出される義理はない」
「またそんな事言って!単に、可愛い女の子と遊んでるのを私に知られたくないんでしょ!」
やけに突っ掛かって来る鈴香に、光理は項垂れる。
「別に遊ぶ訳じゃないのはお前も知ってるだろ?--------文化祭の手伝いはあくまでも仕事だよ。司さんが引き受けた以上、俺はきちんとそれをこなすだけだよ」
鈴香は光理の顔を糸のような目でじりっと睨み付けると、
「・・・・・あの子に『変な事』したら大変なんだからね!!」
と、捨て台詞を残し店を出て行った。
鈴香が言葉を濁した意図が分からない光理では無い。その阿呆な発想に光理は頭を抱える。
「どうしてそうなるんだよ・・・」
鈴香が出て行った扉から温い風が入道雲のように漂ってくる。それを全身で受けると、夏の始まりをまた改めて感じる。茹だる様な熱帯夜がまた今年も変わらずにやって来るのだ。その熱を感じるとふと頭にあの日の出来事が過る。
もう一年になるのか。俺が『アイツ』と出逢ってから・・・・・
忘れたくても忘れられない身体の熱は、きっとこの暑さの所為だけではない。
光理は扉のカーテンをそっと閉じ、鍵を締めた。




