ユーテロの揺籠#18
祥子との出会いは幼等部の頃だった。
名家や富裕層の人間が多く集まる星宮付属学校は、幼等部でさえも初めから格差が存在し、序列が決まっていた。それは、文字通りのピラミッド型の階層で、現代のカースト制度と言ってもいい。私は二条家の娘という事もあり、ピラミッドの中でも上位に位置し、そのグループに属していた。一方、祥子は肩書きのないごく一般的な家庭の出身だった。そういった人達は、自然とピラミッドの下位、精々中位に属する者が殆どだ。子は親の背中を見ながら成長するとは良く言ったもので、上位層はその下の生徒達を差別し、蔑視していた。
それは幼い子供でさえも充分に理解していて、クラスの中では明確に線が引かれていた。表立っての差別とは異なる区別が存在し、その線を越えるような者はいてはいけなかった。私はそんな友人関係や環境が嫌いで、仲の良い振りをしながらも、一人でいる事が多かった。
でも、祥子はそんな中でも一人だけ違っていた。
祥子が私に初めて話し掛けて来たのは、お絵かきの時間だ。各々が先生から出されたお題について絵を描く。一見すると、ただの楽しい時間かもしれないけれど、実際は、児童とその親の評価に関わる重要な課題に据えられている。感受性や芸術性がいかに高いかを判断し、それを評価の俎上に上げる。児童達は予め親から厳しく指導され、必死に絵を上手く描こうとする。誰も子供らしい楽しさなんて求めず、ただ親の言いなりになって、その小さな手を動かし続けていた。とても下らない大人達の子供遊びに私は辟易し、一人グループから離れて絵を描いていた。だから、祥子がそんな状況の中で私に話し掛けてきた時は、正直お絵描きをしている手を止めた。
初めにあったのは驚きだった。名家の子供でない人間はそうである子供には話し掛けない。これは暗黙のルールだ。話し掛けるのは名家の子供からだけで、それも親から命令される時だけだ。例外はない。でも、祥子にはそんな下らない大人のルールは関係なかったらしい。祥子は屈託のない笑顔で、だた「一緒にお絵描きしよう」と私を誘ってきただけだった。初めはただの莫迦な子とも思った。でも、祥子はそんな下らない事さえも考えてもいなかった。私は「どうして私と一緒に絵を描きたいの?」と理由を聞いた。すると、祥子は「一緒にお絵描きすると楽しいよ」とただ純粋なな想いを私に伝えてきただけだった。
私はその時、幼いながら『何か』が吹っ切れた気がした。
大人の顔色を窺い、先生の顔色を窺い、そして、同じクラスの友人さえの顔色を窺う。お互いに忖度し合い、牽制し合い、最後には貶し合いが始まる。それは、とても莫迦らしい事だ。こんな分かりきったものを、祥子は私に分からせてくれた。
それから、私は祥子と初めての『友達』になり、今では『親友』として付き合っている。
祥子は泣き虫で少し天然だけど、誰にも負けない芯の強さと真っ直ぐさを持っている。だから、私は泣いていた祥子にあの言葉を伝えた。励ましたつもりだったけど、結局はあれは自分に対する戒めだったと、今になって漸く分かった気がした。
私は祥子の世界を見てみたかった。
私の濁り切った汚い眼には映らない人の素晴らしさを見てみたかった。
人間がただの汚い害虫にしか見えない私には、祥子は太陽のように眩し過ぎたのかもしれない。
こんな醜い私には、こんな姿がお似合いだよね、祥子・・・・?
遥は空に掌を掲げその先に映るものを朧げな紅い瞳で眺めていた。フェルヌスの空に映るのは、砕かれた鏡の欠片が散りばめられた虚空の星々だ。周囲はただの瓦礫の山々が延々と続き、生命の痕跡すら存在しない。
こんな眼になっても何も見えないのは変らないか・・・・・・
残念そうに腕を降ろす。自身の視界に映り込む赤黒く染まった左腕。それは、まるで別の生き物のように見える。人間の道を外れた人外の形。誰かを殺す為だけに進化した憎悪の象徴。大切な親友を慰める事はもう出来ない。
「ハルカ、貴女の願いは叶ったの?」
遥の正面に腰掛けているアルカが尋ねる。
「分かってる癖に・・・・・でも、何かもういいかなって思ってきちゃったかも・・・・」
「・・・・どうして?」
遥は自身の左の掌をまじまじと見つめる。
「殺しても・・・殺しても・・・・・何も変わらないのよ。初めて人を殺した時は、人殺しってこんなものなのかって拍子抜けしたわ。次に殺した時もそうだった。彼女達は私に赦しを乞いたけれど、最後まで自分の子に対して懺悔なんてしなかった。誰もがそうで・・それが堪らなく悔しくて・・・堪らなく憎かった。私がどんなに望んでも手に入れられない身体を持っているのに・・・」
アルカはその言葉に淡々と回答する。
「だから、貴女は私に願った。『子供を産める身体』になりたい・・・と。その為に、私は貴女に与えた。それを可能にする力とその条件を・・・」
遥は自虐的に微笑む。
「あと九十三人も殺さなきゃならないんだからまだ道のりは長いわね」
「でも、貴女が願った事。それが契約。契約を破棄すれば・・・・・」
「私の命を奪う、でしょ?」
「・・・・・そう。分かっているのなら、こんな所にいるべきじゃない。『私達』はヒトとは馴れ合わない」
アルカの言葉を遥は呆れたように笑い飛ばす。
「ふふ・・・そんな事言ってるけど、貴女って神永くんを随分と気に入ってるみたいじゃない?」
遥は皮肉のつもりで言ったつもりだった。だが、アルカは素直に頷いた。
「ヒカリは特別・・・・ヒカリはヒトとは『違う』から。今はヒトの側に居るけど、きっともうすぐ『私達』の傍に来る。貴女とは違う」
「『違う』ってどういう意味?神永くんだって普通の人間で----------------」
「来る・・・」
アルカは突然立ち上がり、遥が座っている方向とは真逆に視線を送る。アルカの変化に追従するように、遥も同じ方向に目を遣る。すると、視線の先には、光理と祥子が立っていた。二人は此方に向かって来ているようだ。
「どうして、あの二人が?」
遥が疑問を持つと、
「フェアレータがヒカリに手を貸した。ヒカリには未だあちら側から『扉』を開く力はない」
アルカはぼそぼそと一人呟くと、遥に視線を移す。
「・・・・憎しみが薄れた貴女にもう用はない。けど、私は手を下さない。--------きっと、ヒカリが貴女を殺してくれるから」
アルカはそう言い残し、霧のように消えていった。あっさりと引いたアルカに遥は不思議な安堵感を得ていた。
私はもう用済みって事ね・・・・
一方、光理はアルカが消えるのを視認しつつも、敢えて追うような真似はしなかった。今は目の前にやらなければならない事がある。
遥は向かって来た二人に向き合う。
「神永くん。私は貴方だけを此方に招待したつもりだけど、どうして祥子までいるの?」
「私がお願いしたの。遥に会って話がしたいからって」
光理の正面に祥子が立ち、遥と向かい合う。
「その眼・・随分とまた泣いたみたいじゃない?」
赤く腫れぼったい眼を祥子は掌の甲で擦ると、
「そう!一杯泣いてスッキリしたよ。お陰でよく分かった。遥が一人で『莫迦』な事考えてるって事が!!」
「何ですって!?」
祥子の一言に遥は思わず怒号を上げる。
「だって、そうでしょ?私には他の人の目を借りてもっと人の事を知れって言ってた癖に、自分は誰の目も借りていないどころか、全部一人で背負いこんでるなんてどういうつもりなわけ!?」
「誰に言ったって分かる筈ないからよ!!-------祥子だって聞いたんでしょ?私の身体は最初から子供なんて産めないのよ・・・・」
「聞いたよ。でも、それが人を殺していい理由なんかにはならない。それにね、本当はそれが『理由』じゃないでしょ?」
祥子の指摘に遥は口を噤む。背後に立っている光理も思わぬ言葉に驚きを隠せない。
「・・・・私には分かるよ。遥が本当に言いたくない時は、言いたくない事を全部隠さずに、ほんの少しだけ言う癖がある。だから、大概の人はそれが遥の言いたい事の全てだって思い込む。------でも、私は違う。私には分かる。私は遥の親友だから!」
遥の瞳には明らかに動揺が垣間見えていた。
この真っ直ぐな瞳。この瞳には逆らえない。本物の強い意志は邪な心を簡単に打ち払ってしまう・・・私は・・・・祥子には嘘をつけない・・・・・・
遥は崩れるようにその場に膝を付き頭を垂れた。
「私は『私』でいたかった・・・・両親や親族の期待に応えて、二条家の長女として家を継ぐ責任を全うするつもりだった。-------でもね、二条家にはもう私は必要ないのよ・・・・」
顔を上げた遥の瞳からは血のような紅の涙が溢れていた。
「祥子も知っているでしょ?私には二つ年下の妹がいるって」
二条茉奈。今年から高等部の一年生になっていたのは聞いていた。
「茉奈はね、何の問題もなかったの。私と違ってね・・・・・子供が産めないってだけで私は二条家の中でただの『お荷物』よ?-------私は一瞬で二条家から弾き出された。私の今までの努力なんて関係ない。ただその一点に於いて私は欠陥品の烙印を押された」
「そんな・・・」
祥子も二条家の厳格な家庭環境を幾つかは聞いていた。遥はそれを毛嫌いする素振りを見せる事はあっても、二条家の人間として矜持と尊厳を常に重んじていた。それはとても美しく、凛とした姿は祥子の憧れでもあった。
「私は私の身体の事は理解していたの。でもね、それで私自身が否定される事はなかった。茉奈さえいなければね・・・」
光理は荒れ狂うように心の淵を晒す遥に一つの疑念を抱く。
「もし二条さんの憎しみが妹さんに向いているなら、その憎しみの対象は妹さんだけの筈だ。他の人を巻き込む必要はないでしょう?」
「茉奈は最後に殺さないと意味がない。だから、手を出していないだけよ」
遥は赤黒く濁った左腕を肩の高さまでだらりと吊り上げる。
「私の願いは、子供の産める身体に生まれ変わる事。その為の条件は、中絶を経験した女性を九十九人殺し、最後に依り代となる茉奈を殺す事。---------何故中絶した女性を殺す必要があるか分かる?彼女達には『あの子達の声』を聞いて懺悔しなければならないからよ!!」
赤黒い左腕から鉄と鉄を高速で削り合わせるような摩擦音が鳴り始める。
ギリリ・・・ギリリ・・・とその音は徐々に大きくなっていく。
その音に併せて、次第に腕の周囲の空気が陽炎のように歪んでいく。
「貴方達も聞くといいわ。これが産まれる事さえ叶わなかった子供達の叫びよ!!」
突然、腕から発せられていた音がしんと消失する。
その直後、脳の奥を鋸で幾度も斬り付けるような断末魔が二人の頭の中に響き渡る。
何だ・・これは・・・!?
光理はこの世のものとは思えない叫び声に耐え切れず膝を付く。頭の中に何千本もの針が突き刺されるような感覚に苦悶の表情を浮かべる。祥子も同様にその叫び声に苦しむように頭を抱え唇を噛み締めている。幼さと狂気を綯い交ぜにした叫び声は、一人ではない。何十、何百、何千とその声は無限に膨れ上がり、頭の中を埋め尽くしていく。
「私はその子達の憎しみを糧にして力を行使しているのよ」
遥の声に断末魔は一瞬で掻き消された。
「アルカは言っていたわ。才能の無い者が『VIS』を行使する為には『Halos』を依り代として、憎しみを同期させる必要がある、と。-------まあ、神永くんにこんな事を言っても仕様がないわね。その代償がこの身体だって気付いてるみたいだし」
光理は痛みが頭の中に残る痛みを振り払うように立ち上がると、
「貴女の憎しみと痛みは分かりました・・・・でも、祥子さんが言ったように、それが人を殺していい理由にはならない。どんなに辛い状況に陥ったとしても、絶対にその痛みを自分以外の人間に向けてはいけないんだ・・・・!!」
拳を握り、その腕を真っ直ぐに伸ばすと遥へと向ける。その拳は光理の意志に共鳴するように黄金の輝きを纏っていく。
「俺の『VIS』は『GLORIA』。どんな憎しみも痛みも浄化する能力です」
光理は『敢えて』、己の能力を遥に明かした。
「その力で私を浄化するって言いたいの?」
「・・・そうです」
「手遅れよ。私はもうただの殺人鬼。ただの日常には戻れない」
「戻しますよ。絶対に・・・」
引き下がらない光理に遥は苛立つように腕を振るう。
「もう私の事は放っておいて!どうせ、私は必要なんてないんだから!」
「ばか―――っ!!」
光理はその大声に振り返る。
声の主は祥子だ。祥子は肩で息を切らして涙を浮かべながらも遥を睨み付けている。
「勝手に自分が必要無いなんて決めつけないで!!」
祥子はもう一度叫ぶと、脚を鳴らしてずんずんと遥へと近付いていき、たちまち遥の正面へと達すると、腕を大きく広げ遥を抱き締めた。
「もう自分を傷付けるのはやめてよ!本当は分かってるんでしょ?こんな事したって自分が何度も傷付くだけだって!私はもうそんな遥の姿なんてもう見たくないよ・・・」
祥子の真っ直ぐな瞳が遥を捉える。
「一緒に帰ろう。私はずっと遥と一緒にいたいよ。一緒にいたい・・・」
遥は崩れるようにその場に座り込んだ。祥子は遥を抱きとめたまま同じように座り込む。遥は全身の力が抜けたように茫然自失してしまったいた。伝わるのは、ただ祥子の暖かな温もりだ。その熱は凍てついた遥の心を少しずつ溶かしていく。
「ほんと・・莫迦みたいね。こんなに近くに私を必要としてくれる大切な人がいたのに。今更気付くなんてさ・・・」
「・・・・ほんとだよ」
遥の力の律動は少しずつ沈静化していっている。この分であれば、光理自身の力を然程使用しなくとも充分に遥は『人』に還れる。
「未だ殺してないの、ヒカリ?」
光理はその声に即座に反応し、上空を見上げる。
三人を見下すように、アルカが再び空中へと現れたのだ。
「俺は最初から殺すつもりなんてない」
「それはダメ」
アルカは遥に向かい掌を翳す。
「貴女の憎しみは去った。でも、『あの子達』の憎しみは癒える事はない」
遥の身体の中で消え去っていた『もの』が溢れ出していく。
「やめてぇっ!!もうやめてぇえええええええ!!」
遥は祥子を無理矢理自分から引き離すと、全身を腕で囲むように覆い、何とか内から溢れ出す断末魔を掻き消そうとする。
それを垣間見た刹那、光理の中で何かが弾けた。
「アルカぁああああああああああああああああああ!!」
光理は咆哮を上げると、一目散にアルカに向かい飛び上がった。拳には今までにない黄金の光が凝縮し、まるで太陽のように光輝いている。光理は全力でその拳をアルカへと叩き込む。
アルカは光理の行動を先読みしていた。予めもう片方の掌の盾を展開し、難なくそれを受け止める。力が拮抗した瞬間、明滅するように火花が勢いを猛り狂った。その衝撃にアルカは一切動じない。
「前と同じ。今のヒカリの力じゃ私は・・・・」
アルカは拳を受け止めて数秒、不思議な違和感を持った。
違う・・・今のヒカリじゃこんな力は・・・・・
出せない筈だった。アルカの予想では今の光理の最高出力を以ってしても自分の盾は破れない。
だが、押されている。現に、腕が痛みに軋み、徐々に拳の力に押され始めている。アルカは光理の予想外の大幅な力の上昇に戸惑いながらも、冷静にもう片方の手を重ね防御を固める。だが、一向に光理の腕を押し返す事が出来ない。それどころか、光理の力は更に増していく。
知らない・・・・こんなヒカリの力は知らない・・・・・・
「はぁあああああああああああああああああああああああ!!」
渾身の力を込めた一撃はアルカの盾を砕き、両腕の防御を打ち上げた。アルカの身体は無防備に晒される。
「貰ったぁああああああああああ!!」
光理の勢いは更に増す。その咆哮は、振りかぶった拳に確かに込められている。煌々と燃え上がる黄金の拳は、アルカの鳩尾に向かい容赦なく一撃を叩き込んだ。
「あっ・・がっ・・・・・!?」
アルカの肋骨が悲鳴を上げ、身体が拳の勢いに押し出される。口からは嗚咽と共に黒い血が飛び散った。だが、光理の攻撃はそこで終わらない。間髪入れず、痛みに耐え切れず腹を抑えるアルカの頬へと更に一撃を叩き込んだ。
「がぁっ・・・・・!!」
アルカは拳の威力によって廃墟の山の中へと吹き飛ばされた。
光理は地面に着地すると、大きく肩で息を切らしながら、アルカが吹き飛んだ方向を見据える。
今までにないくらいの手応えがあった。このままいけば勝てる・・・・
勝利への確信が光理には芽生え始めていた。
一方、瓦礫の山から這い出たアルカは、頬と腹から伝わる鈍い痛みに戸惑いを覚えていた。
これが私の『痛み』なの・・・・?
瓦礫の山の中でふらりと立ち上がるアルカは、地面に映る己の姿を呆然と眺めていた。頬の肉と唇が溶け、白い骨が剥き出しになってしまっている。腹部は皮膚が爛れたように黒々と染まり、息をすると腹の奥が沸々と痛みを増幅させていった。このままでいれば、確実に自身の存在は消滅する。朧げに揺れる頭の中で、アルカは自己存在の保存を最優先にしなければならないという結論に達した。
「再生を---------」
「させるかっ!!」
アルカは光理の接近に全く気が付いていなかった。光理は拳を振り上げている。アルカの目には、光理の姿がまるで自身の存在を消す鬼のように思えた。アルカはそれを認識した瞬間、全身が凍り付くような感覚に陥った。その感覚は反射的にアルカの身体を防御へと誘った。アルカは全身を守るように腕を正面に構えた。
「此処で決着を付けるっ!!」
光理は直感していた。アルカは明らかに異変を来している。何故かは分からないが、反撃をせず防御一辺倒へと回り、且つ攻撃が『効いている』。アルカの再生速度を超える攻撃を加え続ければ、このまま押し切れる。光理は全身全霊の力を込めて攻勢に出た。
「うらぁあああああああああああああああああ!!」
光理は全身を固定砲台とするかの如く、アルカへと拳の弾幕を浴びせ続ける。拳は更に輝きを増し、アルカの身体はその力の勢いに回復が間に合わない。アルカは少しずつ後退していき、防御している腕は感覚を失っていく。足元でふらつき、視界が段々と狭くなっていく。その中で、アルカの頭の中にふと言葉が浮かぶ。
私はここで死ぬ・・・・?
攻撃を受けるのは最早限界だった。再生能力とて万能ではない。再生力を超える速さで攻撃を加えれれば、攻撃のダメージが蓄積していくだけだ。
このまま死ぬ・・・・?
アルカの腕の感覚は遂に限界を迎えた。腕が腕としての機能を失ったのだ。肌の青白さなどもうとうにない。焼け焦げた炭のような腕はただの飾り当然だ。完全に無防備となったアルカに、光理は最大の攻撃を叩き込むべく、最大限に腕を振り被った。
私は・・・死ぬ・・・・・・・
「最後だ、アルカ!!」
光理が留めの拳を繰り出そうとした瞬間だった。
光理は飛び出した身体を器用に弾機にすると、咄嗟に思い切り背後へと飛び上がった。光理は態勢を崩しながら着地すると、頬が微かに熱を帯びているのに気付く。手の甲でそこを拭うと、頬が切れ血が流れているようだ。
「後もう一歩だったのに・・・」
悔しがる光理の視線の先に立っているのは、アルカを庇うように立ちはだかる遥だった。遥の瞳に生気はなく何処か虚ろに見える。紅い瞳はただの石ころのようだ。
アルカは遥を見上げると、
「・・・・ここはお願い」
光理を見据える。
「ヒカリ・・・・楽しかったよ。また遊ぼうね・・・・」
アルカはそう言い残し霧のようにその場を去って行った。
あの野郎・・・・次こそはってところだけど、どうしたもんか・・・この状況は・・・
「光理くん!」
焦るように祥子が光理へと駆け寄って来る。
「苦しんでたと思ったら急にあんな感じになっちゃって・・私・・・」
祥子はすっかり遥の変化に狼狽しているようだ。
光理は以前にも今の遥と『同じ状態』になった人間を知っている。
「祥子さん、下がってください。二条さんは俺が助けます」
「でも--------」
祥子が光理のシャツの裾を掴んだその時、遥は迷い無く光理へと突っ込んで来る。
くそっ・・・!?
光理は祥子を抱えると、真横に向かい飛び上がり遥からの攻撃を避ける。
遥の腕の周囲の景色が陽炎のように酷く歪んでいる。あの腕に直接触れずとも光理の肌は鋭利な刃物で斬られたように傷付いた。腕自体ではなく、腕の周囲に鎌鼬のような風が収斂しているようにも思えるような攻撃だ。
光理は祥子を瓦礫の上に降ろすと、臨戦態勢へと気持ちを再び切り替える。
遥は機械のように精密な動きで急所を狙って来ている。一撃目が脳、二撃目が心臓だ。寸前で避けたとしても致命傷になる可能性がある攻撃の特性を見極める必要がある。
「やってみるか・・・・・」
光理は祥子から離れるように全速力で走り出す。遥の標的は光理だと知らしめるように、遥は光理に向かって来る。速度はやや光理が勝っているが、光理はアルカと戦闘した際にかなりの消耗を強いられている。『VIS』の力は無限ではない。限界を超えれば、遥のように己の肉体が崩壊を始める。力の酷使は己の死と同義だ。
そろそろか・・・・
光理は充分に祥子から距離を取ったのを確認すると、反転し一気呵成に遥に向かい地面を蹴り上げる。
狙いはたった一点。
遥の腕を『捉える』事だ。
光理は踏ん張る態勢を取り、両手に全ての力を集約していく。光理の『GROLIA』は矛と盾の両方の役割を果たす事が出来る。今は盾としての能力を遺憾なく発揮させる。案の定、遥は腕を振りかぶり、躊躇う事なく脳天から振り抜いた。
腕の軌道を完全に見切った光理は真剣白羽取りの如く攻撃を受け止める。
「ぐっ・・!?」
光理の予測は半分的中していた。
光理は遥の腕を完全に掴む事が出来なかった。遥の周囲にある何かに遮られ、それ以上指先が先に進まない。その何かは風ではない。まるで空間自体をそのまま歪ませているような力場が生じている。その力場が反作用するように触れたもの全てを容赦なく拒絶しているのだ。
歯を食い縛り光理は何とかその力に拮抗しよう試みる。
遥の力の根源は、親の恣意的な理由で産まれる事が出来なかった子供の憎しみ、怒り、悲しみだ。それに加えて、遥の『VIS』の源となっているのは自分自身の憎しみだ。だが、それだけではない。遥は親族の行動によって自己否定をされた。その自己否定が憎悪を更に増長させていき、やがて心の中の憎しみが人としての理性を崩壊させた。その悲痛な叫びは悲しく、人とは凡そ呼べない腕から生まれている。
光理は受け止めていた腕を力尽くで振り払うと、遥とは逆方向に飛び上がった。空中に飛び上がった光理は、腕を伸ばし照準を定めると、掌中に圧縮した力を解放する。
「いっけぇええええぇえええええ!!」
掌から発射された砲弾は一直線に遥に向かっていく。遥は避けようとはせず、砲弾の着弾の瞬間、砲弾に向かい拳を振りかざした。砲弾はその形状を変化させ、まるで遥を分流点にするかのように、四方へと弾き返されていく。光理は地面に着地すると頬を流れる汗を腕拭った。
やっぱり・・・そういう事か・・・・
『VIS』の能力は自身の精神を拠り所としている。それが正のものであるか負のものであるか、それは使用者によって異なる。遥の場合、憎しみの対象を拒絶するために子供達の憎しみの声と自身の声とを同期している。その憎しみを伝えるのは声であり、理解を拒む者を拒絶する力は何者も振り払うあの腕の力に繋がっている。そして、遥は確実にその力で光理の砲撃を相殺した。それは単純な風の乱気流では不可能だ。
あの腕の周囲には強力な波動か振動が凝縮されている。それが空間を激しく振るわせているから、周囲の空気が歪んで見える。俺の一撃を綺麗に受け流したのも、オーラ自体を屈折させる事が出来るからだ・・・とはいえ、これはかなり骨が折れる・・・
能力同士の相性の悪さ。それが、光理の背中に重くのし掛かる。
光理の纏う黄金のオーラは、現象としては光エネルギーに近い。光エネルギーが振動によって波長を歪められれば、使用者は更に緻密な操作を強いられる。同じ波長の振動を受ければ、当然、光エネルギーはその力によって相殺される。故に、砲撃型の攻撃は手段としては使用出来ない。今の光理の遥の力を押し切れるだけの力はない。だからといって、オーラを纏い肉弾戦に持ち込む事も得策ではない。少しでも力を見誤れば、あの腕によって斬り刻まれて殺される。
光理は掌に刻まれた複数の切り傷を一瞥する。
遥の腕の攻撃を受けた際、光理は自身の掌を覆うように黄金のオーラを纏っていた。それが遥の攻撃によって徐々に剥がされていき、やがて肉体の損傷へと繋がった。
もう俺に力は残っていない・・・・・でも、未だ諦めるわけにはいかない・・・・・・
光理は足首を二、三度回すと、脚部に残りの力を集約させていく。再び、遥が此方に向かい襲ってくる。光理はその姿をまざまざと己が心に刻み付ける。
二条さん。きっと、俺の声は貴女に届かない。それでも、俺は----------------
「・・・・その心に巣食う暴走した憎しみを浄化してみせる」
光理の判断はたった一つだった。
一気に『GROLIA』の力をその心に叩き込む。
たったそれだけだった。
脚部への力を更に高め、一気にその力を解放させる。その瞬間、光理は宙を輝く流星となった。
遥の視界には辛うじて光理の姿が見えた。だが、その速さは今までの比ではない。遥は憎しみに支配され本能的に最も有効な攻撃手段を講じている。それが初めて「防御せよ」と脳内に命令を下したのだ。遥は左腕を起点に全身に防御の膜を形成していく。
その膜に脳幹を揺らす程の威力が激突した。
「ぐぅううう・・・・・・・」
光理の攻撃は殆ど見えていない。だが、本能的に気付いているのだ。これが最後の攻撃である、と。
光理は一撃目の攻撃で軋む身体に苦悶の表情を浮かべる。限界を超えた速さを叩き出す為には、脚部に集約した力を導火線に火をつけるように一気に爆発させなければならない。更にその直後に、その力を全て拳に集めて全身全霊の一撃を加えなければならない。莫大な力が体の中を縦横無尽に駆け抜けるのだ。その反動は全身に悲鳴を上げさせている。戦闘が長引けば、逆に己の破滅を招くのは自明の理だ。
このまま一気に攻め立てる!
光理は空中を蹴り上げ遥に向かい再び突進していく。
遥の防御壁は光理の攻撃を受け止めてはいる。だが、受け止める毎に、その威力によって上体が激しく揺らされるのだ。光理の攻撃は真っ向から一辺倒ではない。まるで蜘蛛の巣を張るようにあらゆる角度から遥へと突進していく。攻撃の瞬間にも拳に纏った黄金のオーラが防御壁を削る。しかし、それは遥の防御壁を砕く為のものではなかった。光理の意図は、攻撃による防御壁の破壊ではない。精神への揺さぶりだ。
光理の予測通り、遥は焦っていた。
攻撃が防御を貫通しているわけではない。だが、自分が少しずつ追い詰められていると思い始めたのだ。光理の間髪入れずに続く攻撃は既に五分以上続いている。その威力は衰える事なく、少しでも防御の隙を緩めれば確実に攻撃を受けてしまう。防御の外でも全身が痺れる程の威力なのだ。一発でも喰らえば一溜まりもない。
―――スキをミツケナイと・・・・・・・
遥は光理の行動パターンを注視しつつ、それを予測する。
四方八方を囲むように攻撃するとはいえ、点と点を結ぶ動きという観点からみれば自ずと的は絞れる。遥は鳥が羽撃く瞬間を銃弾で打ち抜くように狙いを定めていく。
光理の動きが防御壁に接触した瞬間、一瞬だけ動きが鈍った瞬間だった。
ココだっ・・・・!!
遥は防御壁の展開を解除した。光理は空中で態勢を崩している。完全に無防備だ。
「シねぇェエエエエエエエエエええエエええエエええええ!!」
空中で身動きが取れない光理に向かい遥は左腕を繰り出した。だが、光理は一切動じる事なく狙い澄ましたように同じく左腕を向かって来る左腕に翳した。鋭い眼光は何かを狙っている。
「ぐっ・・・・・・!!」
光理は左手で遥の攻撃を敢えて受け止めた。左腕が消し飛びそうな威力に何とか歯を食い縛る。それはほんの数秒だ。だが、これが光理が投じた狙いの真意だった。
遥は垣間見た。
光理の『右』腕に集約されている力。それは掌に帰結し、先程の砲撃とは比較にならない程の威力を叩き出す、と。
攻撃の起点が全て左腕ならその左腕を封じればいい。後は、二条さんを浄化出来るだけの力を稼げるだけの時間があれば良かった・・・・
光理の掌が翳された刹那、遥の視界には目映いばかりの光が広がっていった。
その光はまるで優しく手を差し伸べるように、とても心地良く温かいものだった。




