60話目 氷龍の咆哮
約四百年ぶりになるだろうか。この氷窟より這い出るのは。
外の光景は、最後に見たときと相変わらず雪に一面覆われた森。木々がまばらに生え、極寒の冬を超えて、来る春に向けて寒さに耐えている。
そして、白銀の世界にひときは目を引く黒のボロ布に身を包んだ男。
体格はどちらかといえば、先日見た冒険者の蒼によく似ているだろうか。どこか痩せ型だが、体格とは違う秘められたる力がちらりちらりと視界に移る。
「俺様は邪神教四賢者の一人、ベルフェゴール。おめぇが氷龍か?」
ボロ布の男が声を上げる。
若くは無いが、老人というほどでも無い。人間の年齢でいう四十歳ほどであろうか。
「その通り。我が名は氷龍エクスキュース。龍種の氷を司るものである。名乗りを上げるなど、なかなか礼儀のなっている敵ではないか?」
「小細工などは俺は好まねぇからな。真正面から叩き潰す」
「ふっ。戯言を。だが、その態度気に入ったぞ?」
「龍種に認められるとは、俺様も大きくなったものだな」
苦味の走ったいい男だし、なかなか度胸もある。見込みのある男ではあるが、私のかつて愛した男に比べれば全く矮小な存在でしかない。あの男の汚ならしい笑みの前では、この男の不敵に笑う笑みなどよほど汚らしい。
「ふっ、全く人の世というのは楽しい」
こんなときにさえ、私はあの人を想っている。いや、死んでしまって今居ないから思い出してしまうのだろうか。それほどまでのあの人に会いたがっているこの心の寂しさ。
そんな人間味のあふれる感情を得たのもあの人のおかげ。ならば、その人間味のあふれた感情が囁く、娘を守りたいという感情を持って、男を退けようではないか。
「氷龍、一つ聞こう」
「ん? なんだ?」
「その胸の傷は誰にやられた?」
ボロ布の男がわざわざ聞いてくる。
「それを問うてどうするつもりだ? わざわざ敵の心配でもしているわけではあるまい?」
「いや、氷龍にそれほどの一撃を喰らわせた者の名が知りたいと思ってな」
氷龍を心配しているわけでは無いようだ。強者を求む目。それが証拠だ。
「鬼族だ。名を『酒呑童子』と言ったか」
「なるほど」
たわいも無い話というのを出来るだけの時間があるだけ、驚きだが私からしたらこれが延命であるように感じられた。
そして、龍としての本能が囁く。戦を求める本能が燻る。
それを感じ取ったのか、ベルフェゴールが構える。武器があるようには見えない。剣や槍などは使わず、龍種と拳で戦おうというのだろうか。
面白い。
「いくぞぉッ!!」
「蹴散らしてくれるッ!!」
初動、ベルフェゴールのほうが早かった。
地面を蹴り上げ、私の胸元まで急接近。そして、右拳を振り上げる。
その前に、氷龍は右鍵爪で応戦。龍種の暴力的な筋力を持ってしても、ベルフェゴールの腰の入った右拳と同等の威力。筋力は落ちているかもしれないが、人間に劣るようなものではない。それに、ベルフェゴールは【攻撃強化】や【物理防御強化】と言った魔法を唱えていない。それなのにこの威力。
邪神教の四賢者とは、龍種と拳で殴りあえるだけの実力者であるということ。
それに加え、氷龍のスキル『氷鱗』の効果が全く発揮されない。
もし効果が発動していれば、ベルフェゴールの拳は今頃凍結して、細胞が壊死し崩壊していてもおかしく無いはずだが、ベルフェゴールの拳は寒さで赤くなっているだけで、全くと言っていいほどスキルの効果が見えない。
ベルフェゴールはスキルを無効化させるスキルでも会得しているのだろうか。
だが、もともと氷龍に備わっている攻撃系のスキルというのはあまり無い。
戦闘で役に立つのは『逆鱗』『天燐』『暴虐者』『自動防護』『氷鎧』だが、これら全ては補助系のスキルである。自身のステータスアップが主な役割。
例えば『暴虐者』であれば、氷龍の攻撃力や筋力と言ったステータスを上げる。
『天燐』であれば、飛行速度や滞空性能や回避性能が上がったりするのだ。
相手に何か影響を与える者よりも、自身のスペックを上げるものがほとんど。相手がスキル無効で『氷鱗』を封じたところで、どうせ拳で殴りあう戦い。差し支えは無い。
ベルフェゴールは武器の無い利点である、素早さにモノを言わせた素早いフットワークで氷龍に拳を打って来る。だが、エクスキュースはそれを鉤爪を器用に駆使し攻撃を弾いていく。
ベルフェゴールは素早いだけで、さほど破壊力のある攻撃は打とうとはしない。
違う、どれほど破壊力のある攻撃を打っても効かないのだ。
氷龍は龍種の中でも防御に特化した種族。他の龍種に比べて鱗の硬度がずば抜けて高い。オリハルコンにも負けない硬度の鱗を持つ。そして、スキル『氷鎧』は自身の防御力を上げるもの。氷龍を討つには、一撃一撃地を割るほどの威力がなければ難しい。いうなれば、龍種の持ちうる力でなければ、英雄級の力が必要なのだ。
それに加え。人間がどれほど鍛えたとしても、拳で龍種の鱗を割ることは不可能に近い。それどころか鱗より硬度の高い爪であれば破壊することなど不可能なのだ。もし炎龍や雷龍であれば、防御は私よりも薄いので打つことは容易い。一撃でも喰らったら死ぬ可能性が高いが。
ゆえに氷龍は龍種の盾と呼ばれ、一番討ち難い相手とされるのだ。
ベルフェゴールの柔い拳による攻撃では、氷龍の鱗に傷つけることは至難の業だ。
「一門突破ッ!!」
ベルフェゴールが突如声を上げたと思った瞬間、拳の重圧が変わった。鉤爪にくる鈍重な重み。
油断をしているわけではなかった。防御に徹し、相手の攻撃を受け流していたはずなのに、腕まで響く痛みという感覚。
おそらくスキルによる補助。今のベルフェゴールの威力が上がった理由はそれであった。
威力が上がったのと同時に、ベルフェゴールの素早さも先ほどに増して上がっている。脳でしっかりと判断していたものに、今では反射神経を織り交ぜつつ攻撃を避けつつの反撃。
「敵を穿て【氷矢】!!」
ベルフェゴールの攻撃を受け流しながら、詠唱をして魔法を発動させる。
空に浮かび上がる巨大な魔方陣。そして、その魔法陣から生み出させる氷の矢。その数およそ千。矢が雨のように降り注ぐ。
ベルフェゴールが上空の魔方陣の存在に気がつくと、拳に力を込める。
「はぁッ!!」
力強い一声の後、ものすごい風圧が巻き起こったかと思えば、拳を天空に向け突き上げている。そして、空中で放たれていた矢は全て爆散。拳から放たれた風圧により破壊されたのだ。
その一瞬の隙を見計らい、回転力を生かした尻尾での攻撃。鞭のように唸った尻尾がベルフェゴールの腹部に直撃。骨が砕けた感触と共に、ベルフェゴールがぶっ飛ばされる。
雪をクッションにして、何度かバウンドをすると地面に足をつけてブレーキをすることにより体を何とか立て直す。
そして、ベルフェゴールは立ち上がったかと思うと、腹部に手を当て力を込める。そして、口に溜まった血を吐き出すと、つぶれた腹部が再生し始める。
粗治療にも程があるだろう。臓器に刺さった肋骨を無理矢理はずして、臓器の回復を促したのだ。心臓に突き刺さっていれば即死もありえたが、おそらく肺にでも刺さっていたのだろう。心臓ではないと判断した瞬間の冷静さ。
戦闘に慣れているわけではない。死への恐れが少ないと思わざる終えないベルフェゴールの行動に、こちらが恐怖してしまう。
そして、ベルフェゴールは再び声を発す。
「二門突破ッ!!」
その瞬間、ベルフェゴールの額から血管が浮き上がる。それと共に、少しずつ筋肉が隆起し始める。
「それが貴様の隠し種というわけか」
「あぁ、スキル『破門者』の力だ。俺が百発拳を打つたびに、自身の攻撃力と素早さを上げる」
おそらく、一門突破という掛け声の後に拳の重さが鈍重になったのは、このスキルのせいなのだ。だが、それだけではないと氷龍は確信する。
スキル一つの効力で、あれほど威力が上がるわけが無い。実戦経験がそれの裏づけを行っている。おそらく他に奴のステータスの底上げを図っている能力があるはず。
そんな思考を巡らせる暇を与えないといわんばかりに、ベルフェゴールが真正面から突っ込んでくる。そして、氷龍の前で拳を引き絞り正拳突き。
「ぬぐッ!!」
先ほどと同様に氷龍の鉤爪で防いだ瞬間、腕が持っていかれる。驚異的な威力だ。ガードした腕が弾かれるなど。
「面白いッ!!」
久しぶりの痛みというはっきりとした感触。脳が自身が生きていると教える信号。死へと近づいていると教える合図。本能が騒ぐ。
氷龍の右爪でベルフェゴールの攻撃を弾くと同時に、左爪での切り裂き。
ベルフェゴールはそれを回転しながら避けると、瞬時に一歩バックステップを取ると、右手と左手を合わせ引きしぼる。爪でのガードが悪手と思った氷龍は、ベルフェゴールと同様に拳を思いっきり握り締める。
そして邂逅する両者の拳。放たれた拳と拳が打ち合った瞬間、空気が振るえ木々が騒ぎ枝から雪を落とす。衝撃波が周囲の木をなぎ倒す。
それと同時に氷龍の筋肉が悲鳴を上げる。腕の節々から血が吹き上がる。筋肉が相手の拳の一撃に耐え切れず断裂したのだ。しかし、それくらいであれば私の『自動高速回復』の前では意味が無い。すぐさま断裂した箇所が修復。腕の激痛が治まる。
ベルフェゴールにも氷龍の拳と打ち合ったことにより、拳の表面の皮が剥がれ落ち骨が露出する。しかし、それも束の間拳がジュゥと肉が焼けるような音がすると共に、肉が再生し皮が着き元通りの拳に戻る。
両者ともに備える『自動回復』のスキル。だが、再生速度で言えば氷龍のほうが早い。だが、攻撃力で言えばベルフェゴールのほうが少しずつ上回りつつある。
それとともに素早さが高まるベルフェゴール。一発一発を脳で判断ししっかりと回避していたものに、視界に移った瞬間にこちらも反射神経で防御し、感覚で打ち返すことが多くなってきた。
そして、拳と拳が打ち合って居るとき、背後にベルフェゴールの声が聞こえる。
「三門突破ッ!!」
氷龍はそれに対して反応が遅れてしまう。防御が間に合わない。




