268話目 信者逃亡
「はぁ……はぁ……ッ!!」
ギリガンは肺が爆発するのではないかというほどに息を吸い込んでひた走る。
食物庫マイニルゲンでの敗戦の後、ギリガン率いる六万の軍勢は聖オルビスタ王国へと帰還せんと行軍していた。誰もが意気消沈していた。
あれほどの化け物相手に、一介の兵士が勝てるはずがなかったのだ。そう思わざるを得ない程のトラウマを植え付けられた。
だが、そんな六万の命が一瞬で消え去る出来事が起きたのだ。
野営をしていた時、ふと月が光ったと兵士が思った瞬間、痛みすら感じることなく天へと召された。
ギリガンは何が起こったかを把握する前に走り出していた。スキルを発動し、自分を五人に増やし、本体は透明化させ、バラバラの方向へと走り逃げた。把握しなくとも、脳と本能が『逃走』を選択させたのだ。
敵の姿が見えなくても分かる。
「また逃げるのか? ギリガン?」
「ひぃっ!!」
目の前に現れたのは少し背丈の低い男性。子供のように見えるその姿だが、ギリガンはそれが本当の若さではない事を知っている。
ギリガンに似た聖職者の服装。
「なぜ、今更になった現れたッ!! わ、わた、私をどうするつもりだッ!!」
ギリガン足を震わせながら相手に問う。
確かに、ギリガンが敵の攻撃を受けた瞬間に、敵に対してスキルを発動させ、幻影を五体生み出し、自身の姿を透明化させた。失敗したという反応はなく、確かに相手に対してスキルによる幻惑は成功した。
順当に行けば、それぞれの距離は二キロ程。それだけの距離をうまく稼げたはずだ。
考えられるとすれば、他の幻影が倒されてなお追いつかれたという説。
「ん? そりゃ決まってるでしょ。俺達が崇拝する神じゃなくて、まさかのまさか。邪神に寝返った奴を許すわけないだろ?」
「神は今でも私の心の中にいらっしゃるッ!! だがッ!! 邪神様も共に我が心の中で、神意を我に伝えてくださっているのだッ!!」
ギリガンが吠えているのを青年は耳を塞ぎながら、露骨に嫌な表情をして見せた。
「今まで俺達三大天使がお前の、気持ち悪い趣味を見逃してやっていたのは、お前がさぞ熱心に我らが神を崇めていたから。そして、お前にスキル『神の見えざる手』が発現したからだ。崇拝系スキルを習得する人間は少なくとも、神の御加護のあられる人だからな。それを……お前は裏切ったよな。あの、薄汚い邪神教に身を寄せたな?」
「邪神様は私に対して恩恵をくださったッ!!」
「あぁ、自分の醜い姿を惑わすスキルだろ? 神に抗う冒涜者の烙印を押されないように逃げ回るだけの存在に成り下がれと、邪神は言っている。それをお前は神託だと勘違いし、本当の信託をないがしろにした。むしろ、踏みにじった。神が、今、こうして復活の時を迎えようとしているというのにだ」
「神が……お目覚めに……」
「あぁ、その刻は近い」
ギリガンは涙を流す。
「また、神の御姿を拝見できるなど……」
「んなわけねぇだろッ!!」
「ッ!!」
唖然としてしまうギリガン。
「お前は我らが信仰をないがしろにして、邪神なんていう邪な道を歩んだ。歩んだだけで大罪だ。分かるだろ? お前は、俺達を裏切った」
「ま、まてッ!! 私の信仰は一切変わっていない。た、確かに邪神教に組みはしたが、それは我らが信ずる神を思っての事ッ!!」
「ぎゃんぎゃん騒ぐな」
「――――――ッ!!」
ギリガンの喉元に突きつけられたのは鋭刃。それが喉元に突き立てられ、ゆっくりと赤い筋を描く。
「お前が生きる理由、意義、存在、すべてが無駄だ。神の御神託により、お前は虚無となって、現世に二度と現出する事はない。浄化という救いは、訪れない」
「ま、待って、邪神教の情報を――――――ッ!!」
ギリガンがしゃべり終わる前に、ゴロンと首が落ちる音がする。
「薄汚い信者の血だ……」
青年がそういって剣を布で拭う。
「終わったわね、ケルビム」
「あぁ。今まで邪魔していたゴミは廃棄しておいた」
ケルビムと呼ばれた青年は、地面に転がる赤い液体を垂れ流すゴミを見つめながら、嫌悪の表情を浮かべる。
そんなケルビムを見るのは、身長の高い女性であった。ケルビム同様に聖職者の服を纏っている。
「こいつが神の御身に近づきたいというたから、入信させてやったのに、裏切りとは……ふざけてやがる」
「処理はできたでしょう? それで今日は帰りましょう」
「そうだな。邪神教の奴らに遅れを取るわけにはいかない」
「そうね。私達の信仰が正しいという事を証明しなくては」
「セラ。私達の心は御身の元に」
「えぇ。私達の心は御身の元に」
ケルビムとセラはギリガンの下に火を放つと、ゴミが焼ける悪臭に怒りの表情を浮かべながらその場を離れる。
「邪神復活に必要になりそうなものは何がある」
「そうね……。思いつくとしたら、パンドラの箱と、黄金の林檎かしら」
ケルビムの頭の中に思い浮かんだ場所は森精種の国サスティエナ。
◆◇◇ ◇◇◆
薄暗い洞窟の中でネロは静かに椅子に座っていた。
「ネロ、ギリガンがやられたって本当か?」
薄目を開いてネロが声の主を確認すると、ベルフェゴールであった。
「えぇ、そうね」
「奴らが動き出したのか?」
「……」
ネロは神妙な面持ちで頷いてみせた。
「正教会。まさかとは思っていたけど……こんなにも復活が早いなんて」
「俺達も急がなくてはいけない」
「そうね。邪神様復活こそ、私達人類が生き残る道だもの」
ネロが大きく息を吸い込みながら、深淵を見つめる。
「奴には話しておくか?」
「ん? 桃太郎の事?」
「あぁ。一応、あいつも俺達と同じくらいの力はある。それに、下手な動きをされては困る」
「そうね……、あれの扱いは難しいから、適当に泳がせておく位が丁度良いのかもしれないけど、難しい所ね」
「俺は、お前に任せる」
「あら、ずいぶんと信頼してくれているじゃない」
「正教会がはっきりと俺達に敵意を向けて動き出したんだ。俺達もぐずぐずしてはいられない」
「御方の復活のために、急いで残りの素材を集めなくてはいけないわね」
「残りは二つ」
ネロは卓上に置かれた二つの駒を見る。
「パンドラの箱、黄金の林檎」
「この二つさえそろえば、俺達の信仰は」
「実を結ぶ」
ネロが口に発した『パンドラの箱』と『黄金の林檎』どちらも御伽噺に登場する魔法道具である。
「だが、その二つどちらもサスティエナか……」
「最後の山場ってところね。玉手箱が想像と全然違う効力だったし、贋作を掴まされたし、この二つに賭けるしかないわ。もし、この二つでだめなら、私達人類はいよいよ終わりよ」
ネロが復活のために要求したパンドラの箱。
御伽噺、世界創世記時代からの伝説である。
神という存在が居た時代、とある女神は神から「開けてはいけない」と言われながらも箱を受け取る。女神は興味から箱を開けてしまう。その箱の中から溢れ出てきたのは、悲劇だと言われている。悲劇に何が含まれるかは、様々な歴史学者の中で様々意見が分かれる。疫病、飢饉、大災害、様々な憶測が飛び交った。
だが、一人の歴史学者はそのパンドラの箱の悲劇を、こう言い表した。
『新時代への新しい可能性』。
箱の中から溢れ出てきた悲劇だが、その箱の下に残ったのは『希望』であったと言われる。言葉の意味なのかもしれないが、悲劇の先にあるのは人々の希望である。その希望は、悲劇を乗り切った後、すべてが瓦解した世界で導き出された新時代、その可能性。それを人々は希望と呼ぶのだと。
歴史学者は締めくくった。
だが、実際の所パンドラの箱の中に何が入っているのかは誰も知らない。
そして、黄金の林檎。
それは森精種の国サスティエナに存在する街を構成する巨大樹にできると言われている果実である。その林檎は実在することが確認されており、今現在実っていることが確認されている。その実は巨大樹が蓄えた膨大な栄養分が蓄積され、万病の薬とも言われている。伝説では、不老不死の霊薬ともいわれている。
しかし、それを口にした者は存在しない。
百年に一度実る果実は、祭典で収穫された後、サスティエナで燃やされ、灰にして、不作となっている土地に撒く。すると、その灰を撒かれた土地は次の百年まで肥沃な土地となる。
それは実際に行われている祭典であり、果実の収穫があるのが今年。
「おそらく正教会の奴もそろそろ察しているんじゃないか。俺達が今、本当に欲している物が」
「えぇ。サスティエナ襲撃だけでも大変なのに、正教会まで出てきたら手に負えないわ」
だがネロは笑って見せた。
「でも、そのためのマイニルゲン襲撃だもの。大丈夫よ」
「?」
ギリガンにはネロがこの時期に、わざわざ大規模なマイニルゲン襲撃を企んだ理由は分からないが、それでも何かしらの意図があったのだろうとベルフェゴールは理解する。
「桃太郎には何も言わず、サスティエナは私とベルフェゴール、それとあれを使うわよ




