176話目 息を吹き返し覚悟を決める
ギラファは重たい瞼を何とか開きながら眼前に広がる光景を見る。
目の前に力無く横たわる同じギルドに所属する守りたい自分の仲間、レシア。そして、圧倒的な力を以てして自分とレシアを下した海の暴れん坊であるクラーケン。
相変わらずクラーケンは自身の傷など存在しないと思わせるように、巨大な触腕を振り回し、敵を屠った事を誇るように咆哮を上げる。
味方は倒れ、背後にいる冒険者ではクラーケンに一撃とも加えられるかわからない程に未熟。だからこそ立ち上がりたいのに、腕を動かそうとするとポロリポロリと罅の入っ甲殻が粉のようになって落ちていくばかり。力が全く入らない。
「がはっ!!」
閉じかけていた意識がその声を聞いて急に覚醒する。
「レシア……様……」
「生きてる……ギラファ……」
レシアは顔を地面に埋めるようにして寝ながら、声を上げる。綺麗な白髪の髪は泥にまみれ、海水に当たり汗も混じり毛羽立っている。そんな髪を振り乱しながら倒れこむレシアは何度か咽る。
「意識……飛んでた……。危ない」
先ほどまで意識不明だったと明言したレシア。戦闘中に意識が飛ぶなどそれは死を意味する。そこから意識が完全に飛んでしまえは死に直結する。
レシアはもぞもぞと動くと自身の体の痛む箇所を確認する。
氷龍の鱗から作られた防具は切断系の攻撃に関しては強い耐性を持ち、衝撃を吸収してくれる、この世で類を見ないような素晴らしい防具だが、その攻撃を打ち消してくれるわけではない。
触腕をもろに食らった事により、肋骨が折れているのだろう。息をするたびに左の胸が焼けるように痛い。そして、足も恐らくは折れている。視界を動かして確認したいのは山々だが、もはや首を動かすのも億劫になってしまうほどに、全身が痛い。
体で負傷している部位は、脚と胸の骨折が大きいだろう。他は恐らく無事だが、半身を覆うような巨大な痣ができているだろうことは簡単に予想できる。それほどまでに、クラーケンの何気ない一撃はレシア達によっては脅威になりえた。
レシアは、何とか右腕を動かし腰へと伸ばす。
腰にかかるポーチに手を当てる。上級冒険者へと昇格したときに、蒼に買ってもらったポーチ。四万ペリカという破格の値段のポーチで、Sランクの魔物であるカプリコルヌスという羊に似た魔物の毛皮を鞣して作られた物で、その強度は折り紙付き。レシアが手に触れても、その形状はちゃんと長方形を保っており、中身も無事だった。
ポーチから一本の小瓶を握ると、ギラファの声のするほうへと投げる。
カランという音をして小瓶が転がる。その中身を見てギラファは驚愕の表情を浮かべた。
「使って……」
「しかしレシア様……」
レシアが投げた小瓶の中身は、ポーションの中でも最上位の効果を発揮する『精霊の霊薬』と呼ばれるポーション。ありとあらゆる身体の傷を癒し、魔力も回復させるという文字通り破格の効力を持ったポーションである。
ここへと来る前、リヴァイアが渡してくれた物だ。使わない事をリヴァイアは願っていたが、この傷に対して使わないという選択肢はできない。
投げられた精霊の霊薬をギラファが使用するのを渋っているのは、レシアの分があるのかという事だろう。それを察してレシアはポーチに手を伸ばす。
「大丈夫……もう一本あるから」
「かしこまり……ました」
ギラファは投げられた薬瓶の口を開けると自身の体へとかける。鮮血のように真っ赤な液体がギラファの甲殻へと垂れる。そして甲殻に染み込むようにして液体が消えると、ギラファの甲殻は修復を開始する。
まるで体の内側から結晶が現れるようにしてギラファの傷が再生する。
それを見届けたレシアはポーチからハイポーションを三本取り出すと、口へと含む。
ハイポーションは通常のポーションよりも回復力はあるが、精霊の霊薬に比べるとその効力は圧倒的に劣る。一本で回復できる量はせめて大きな傷口を回復させるか、罅の入った骨を修復する程度。レシアのように肋骨の半分と、脚の骨折すべてが回復させられる治癒力は持たない。
一本で無理なら三本で、という考えになるがそれでも、精霊の霊薬には劣る。
レシアの脚の骨がようやくくっつき、肋骨がある程度修復され、打ち身も大分引くが完全回復とは言えない。
動ける程度には回復したが、立ち上がろうとすると全身が軋むような音を立てて痛みを訴えかける。
「レシア様……なぜ……」
ギラファはレシアの嘘に唖然としてしまった。
ギラファはもう一本精霊の霊薬があるから、自分は迷う事なく精霊の霊薬を使用したというのに、レシアが使用したのはハイポーション。立ち上がったレシアは辛そうな表情をしている。なぜ、もう一本あるなんて嘘をついたのか、その意味が分からなかった。
「ギラファ……落ち着いて聞いて」
レシアは落ちた自分の爪であるナイフを拾い上げながら、強敵であるクラーケンを睨んだのち、どこか優しい視線をギラファへと送る。
その目つきは覚悟を決めた後、諦めを含んだ表情だった。
「クラーケンは、私達の力じゃ倒せない。頑張っても、難しい」
勝機を見出す事が出来たが、それをつかみ取るのは蜘蛛の糸を一本ずつ解くかのように難しい。
レシアのナイフで切り傷を入れたとしても、数秒のうちに修復が開始し、瞬きをしたと思えば回復している。そんな回復力に対抗するためにギラファの雷撃が存在するが、それでも一撃入れた後にギラファが追撃できるような瞬間は数少ない。その地道な攻撃を積み重ねられるほどレシア達の体力は無いし、一撃も攻撃を喰らう事なく、こちらの攻撃を通せる自信も存在しない。
「きっと……私達がどれだけ頑張っても……勝てない」
レシアは悔しそうに、名言した。
「でも、勝たなきゃ、みんなが死んじゃう。それは嫌だ。だから勝つ」
レシアは覚悟を決めて、名言した。
勝てない相手だが勝つと明言した。
しかしギラファはなぜ『勝つ』と明言したのに、一瞬、諦めの表情を浮かべ、自分に対して今までにない優しげな表情を浮かべたのか。その理由が分からなかった。
「今からいう事、ちゃんと、聞いて」
レシアは自分達の力で勝てないと察した時、他の要因を考えた。勝てるために、自分たちが勝利を収めるために、何か他の要因を取り入れる事は出来ないかと考えた。
今あるもので、何か自分たちに勝機を収めるための突破口となるものはないかと考えた。
そして、脳裏をよぎったのは、大海都市レイサンへ来る際に聞いた船長の話。
船上に佇む巨大な大砲のような装置。雷属性の魔法が使える魔術師が十人いないと使えない装置。あの海神と呼ばれた英雄が作った代物。細かい敵は狙えないが、当たれが塵と化すほどの威力を誇る事。
『神雷の審判』
「ギラファは、神雷の審判を使って。私は……時間を稼ぐ」
その発言を聞いた時、ギラファはようやくレシアと同じ思考へ辿り着く。
雷属性が使える魔術師でしか扱えない代物であるという点ではギラファは適切であるし、その魔力量からしても使用に関しては問題だろう。もしろ適正があるといってもいい。
そして、浦島が制作したという点では、その威力は保証してもいいだろう。傍から見れば酒飲み爺だが、一度対峙して分かった強さは偽りではなかった。
しかし、ギラファの懸念する点は、細かい敵が狙えないという事。
その威力故に、制御するのが難しく小さな敵が狙えないのか、拡散するようにして打ち出される一撃は周囲を巻き込むために一体だけを狙い撃つのが難しいと意味なのか。
その推測は、レシアの覚悟の理由でもあった。
「レシア様……犠牲になるおつもりですか……」
「うん」
レシアははっきりと頷いた。
「ここで、やらなきゃ、みんな死んじゃう。私達がやらなきゃ、みんな死んじゃう。だから、やる」
レシアは不器用だから。難しい事を考えるのは苦手だ。それに慣れていない人と話すのも苦手だ。苦手な分野を自分が達成するためには誰かに頼るしかない。自分にできない事は、誰かにやってもらうしかない。レシアは不器用だから。
神雷の審判を使用するには雷属性が使用できる者が必要だ。だからレシアには扱えない。後ろで戦っている魔術師に声をかけて放つのもいいが、威力の問題で不安が残る。その点、天災級の魔物であり、雷属性に関しては他の追随を許さないギラファであれば、威力に関しては問題など存在しない。
レシアがもし雷属性が使えたなら自分が放つだろう。だが、それは不可能。
レシアがもしもっと強力な氷魔法が使えるのなら、クラーケンを数分でも動けなくなるように氷漬けにして動きを止めたかった。だが、あの怪力を前にしてそれは不可能。
だから、自分が体を張ってクラーケンを足止めするしかない。
レシアがやらなくてはいけないのだ。
「他の冒険者が囮ではいけないのですか……。レシア様が犠牲になる理由はありません。他の冒険者を餌にして時間を――――ッ!!」
ギラファの虚空を見るような目をして放つ発言を聞いて、レシアは思いっきりギラファの頬を叩く。レシアの柔らかく小さな手が、ギラファの硬い甲殻を殴り、レシアの手はヒリヒリと痛む。
「それは、言っちゃダメ。私達は、守るために戦う。……でしょ?」
目的を履き違えてはいけない。レシアとギラファの目的は、クラーケンを屠る事ではない。背後にいる冒険者達を守る事であり、その後ろにいるであろうこの島の島民を守る事である。守るべき者を囮にしてはいけない。本末転倒である。
自分たちのギルドの目的はなんだ。
そう胸に問い正す。
「ギラファ……覚悟を決めて」
覚悟。
ギラファはその言葉に揺らぐ。
自分の目的はなんだ。
この命を救ってもらったギルドのために動く事だ。ギルドのために動くという事は、背後にいる冒険者達を守り抜くことだ。だが、その守るものを守った果てにある光景に、自分の守りたいもう一つの命であるレシアはいない。
クラーケンを倒して拍手喝采を浴びる光景に、レシアはいない。
この状況を切り抜けて安堵する冒険者達の視界に、レシアはいない。
自分の守りたい、切磋琢磨し合った仲間はいない。恩人であるレシアはいない。
なぜだろう。こんなに涙が出てくるのは。
自分が非力すぎて、何もできない自分に涙が出てくる。
強くなると誓ったじゃないか。燃え行く家を眺めた光景を忘れたか。弱さ故に犯した過ちを忘れたか。また繰り返すのか。自分は、また仲間に迷惑をかけるのか。
いつ、自分は誰かを助ける立場になれるのだろうか。
いつも自分は非力だ。目の前の敵すら屠れないその実力の無さ。涙が止まらない。
「私は弱いのですね」
「うん。弱い。だから、強くなる」
過去に問いた。
暴虐の獅子に家を焼かれたのち、自棄になって一人で乗り込もうとしたとき、レシアが自分を止めてくれた。拳を振るって止めてくれた。その拳の強さたるや、自分では敵わないと思った。
その拳を見て、自分は弱いのだと痛感した。そして、レシアに言われたのだ。『だからこそ、私達がいる』と。
今、同じ状況で、同じ言葉が返ってこなかった。
この状況を切り抜けた先にレシアは居ないからこそ、同じ言葉は返って来なかった。
ギラファはその仲間の背を見る。いつも、どこかのんびりとした猫のようにすらりと伸びる背中は、いつも追いかけていた自分の指針となってくれていた背中は、今も目の前にある。
その背中がなくなる恐怖にギラファは耐えきれるだろうか。仲間が死ぬ恐怖に耐えられるだろうか。
「ギラファ」
涙ぐむギラファにレシアは声をかける。
潤んだ世界でギラファはレシアに視線を送る。そして、ギラファはレシアの表情を見た。レシアの世界も潤んでいるのだろうと分かった。
レシアも弱いのだと。恐怖には打ち勝てないのだと。恐怖に完全に勝つことはできなくても、立ち向かう事はできる。その潤んだ世界で、レシアは立っているのだと分かった。
ギラファは分かった。そして、覚悟を決めた。
「……楽しかったよ」
レシアが涙ながらに振り向き、クラーケンに向かって走り出す。その足取りに迷いはない。震える刃先はやがて収まる。戦うのだと覚悟を決めた冒険者は、涙を風で振るい落とす。そして、鮮明になりゆく視界で敵を見つめ、自身の行く末を見つめる。
意識が戦いに移行するにつれ、五感が研ぎ澄まされる。
触腕がうねる瞬間に筋線維が放つピキピキという小さな音も、まだ生きている自分の鼓動も。
ギラファはレシア真反対に走り出す。その足取りに迷いはない。震える拳は、強く握りしめられる。別れを告げた仲間との最後に覚悟を決めた冒険者は、涙を風で振るい落とす。そして、鮮明になりゆく視界で目的を見つめ、仲間の最後の姿に背を向けた。
自分の人生において、忘れる事の出来ない存在が胸に存在する事を確かめながら、走る。
迷っている暇はない。
仲間はもう、とっくに覚悟を決めているのだから。




