浮き草
くすんだ蒼の空に浮かぶ雲。その雲が日暮れを灯しているのを見て、もう夕刻かと興味なく思う。
誂えたばかりの畳。編み込まれたイグサの床に広がる、長くたゆたう漆黒の髪。濡れたような質感は白い艶を流し、しっとりと黒に馴染む。朝日の明るい日差しは淡い紫や深い藍の筋を髪に差し込めるのに、赤らみつつある陽光は散り広がったそれを縁取るだけだ。面白みがない、と男は胸中で毒づく。
それでも横たわる肢体と横を向く容貌はいつ見ても飽きが来ないほど瑞々しくあでやかで、キッと薄紅で引き締められた目尻に暗い瞳が寄ると、再び男の獣じみた情がそそられるのであった。そうでなくとも、あられもなくさらされた細い首のくぼみといい、触れると凍えてしまいそうな恐怖が走る、白く透き抜けた肌といい、勝気に整った繊細な目鼻立ちをよく引き立てている。
潤いを含んだ黒に埋もれる、真っ白い輪郭。そこに浮かぶ二つの瞳。上気を帯びて色めく頬の紅い熱。唇にたっぷりと乗せた紅から漏れる色香。
白、黒、赤。男の喉が大きく上下する。
押さえつけた本能がまた芽生える前に男は退いた。我が物顔で座敷に胡坐をかく。その傍らで身なりを戻し上体を起こす、遊郭一の『華』。さっきまでの濃い戯れは嘘みたいに、澄ました表情で床に転がったビードロを拾う。丸く膨らんだガラスの部分が、紅く燃え立つ空の輝きを返し強い煌めきを弾いた。突然の眩しさに男は片目をつぶる。
咄嗟に顔が、格子の間に広がる眼下の町を見た。
「見晴らしが良いねえ。相変わらずこの場所は」
特に意味はない、ただの独り言を男は呟いた。
聞こえてはいるけれどたいして気のきいた言葉も思い浮かばす、ただ細い掌でビードロをもてあそぶ。
「儚いねえ。すぐ終わっちまうんだ」
男の視線のずっと向こう。どん底の影がうっすらと夕闇を呑み込みつつある。どうせ夜は訪れるのに、悪あがきをしているみたいにこうして陽の光はひときわの眩さを絞り出して果てるのだ。
「なあ。鴉」
さも愉快げに男が振る。『鴉』は男が勝手につけた名だ。
何も答えず、いつものように横目でちらりと流すにとどめて、ビードロに息を添える。ぽ、とガラスのふくらみが張り詰め、口を離すとぺん、とへこんだ。それを一回ずつだらだらと、いっそ惰性なくらい丁寧に繰り返す。
煙管は嫌いだ。くゆらぐ浅紫混じりのもや。ざらざらした埃っぽい煙の味に、むせそうになる。
「綺麗だねえ」
男の手が伸びる。乾燥した掌はシワが刻まれマメだらけで、とても身を預ける気になれない。
でも抵抗するのもおっくうで、したいようにさせておいた。長い黒髪を手一杯に掬い、ゆっくり落とす感覚。ほう、と男がため息をついた。
「いつ見ても上質だ。絹みてえ。知ってるか。あんたの髪、うっすい紫の艶したり藍が流れたりするんだぜ」
ま、こんなあっかい夕暮れじゃお目にかかれねぇが。男は笑いさざめき、ふいと皮肉そうに口の端をひん曲げる。
「まだ待ってんのかい、あの男を」
返ってくるのは沈黙。そこへぽっぺん、ぽっぺんと軽やかな音が鳴る。
「やめときな。約束なんておざなりだよ。結んでもコトが終わればほどけるもんだ。遊女なら分かるだろ?」
身を潤しに来るだけの客のくせに、哀れみをにじませた声で気遣ってくる。いつものように関係のないふりをして、無言を貫く。
「なあ太夫のお前さん。同じ太夫でもあんたは夕霧じゃないんだ。歌舞伎の主役になれるわけでなし。金持ち息子の伊左衛門は遊女に身をやつした女を嫁にしない」
歌舞伎座では人気の高い『廓文章』の内容が、脳裏をかすめる。といっても、客から聞いた限りの知識しかない。
国を滅ぼすほど艶めかしく品の漂う、絶世の遊女。それに熱を入れ込みついには勘当された豪商の若旦那。病に倒れた太夫を案じ、つましい衣服に太夫からの恋文を貼りつけてまで寒い真冬の道を往く。
そこからどうなったかは知らない。聞かなかった。二人がどうなろうとも廓での生活は変わらず、楼主の言うまま求めるままに客を取る。媚びて、時にいたぶって。誰も夕霧にはなれないのだから。
でも、もしかしたら。茜色の空を支える幾多もの瓦屋根を一望して物思う。なれなくても、と。
「まさかあんた………結ばれるなんて、そんな甘い絵空事を夢見てるわけじゃないな?」
男が背後に回り込み、胸元の袷にスッと手を這わせる。
幾重にも重ねられた目もあやな着物。混じりけのない白が透き通る肌に漆黒の衣。濡れっけをしとらせた髪とは違う、何もかも光すら塗り潰す、黒。
そこに乱れ散る山吹の花弁。ばらまいた大判小判のごとく縫いとめられた黄金色。
どれだけの金を積もうとも、ままならないのが花街の掟。花は散る、金も散る。時が過ぎれば枯れて尽き果てる。たとえ手を取り合って全てのしがらみから逃れようとしたところで、叶わないのだ。
潤うのは誰の懐か。
手をずらすと、くぼんだ鎖骨に触れた。食らいつきたくなる、しなしなと弓なりになった線。そのまま探るように下っていけば、男の身もたちまち溺れていくだろう。
それなのに反応はない。好きに任せているだけ。男は胡散そうな目つきをその横顔にやる。
格子から溢れ込む夕陽が、冷たく白々した頬を橙に浸す。長い睫毛の影がより人形じみた静けさを落とす瞳。黒々とした瞳は、どんな想いも悟らせない。
なだらかに滑る首筋。男を煽るしなやかな曲がり目に、なぜか今は官能を感じない。
夕暮れより真っ赤な、今しがた血を塗ったようにおぼろげに照りつく唇。真紅の紅が口づけるのは、ビードロの吹き先。
ぽっぺん。ぽっぺん。
いつまで不毛なことを続けるのか。男は汚らわしいものを触ったとでも言いたげに手を払い、苛立ちの息を吐きつつ立ち上がった。
「滑稽だねえ。偽の小指を客に渡して誠意を誓うのと、どう違うってんだい」
大げさなまでに足を踏み鳴らし、障子をかたりと開ける。ほのかに煤けた足袋が障子の向こうへ閉ざされていく。
格子戸に貼りつけた薄紙越しに男の帰りを見届け、また視線を外に向ける。いつしか闇が空を覆い始め、あらゆる店や家々に提灯の火がかかっていた。
暗闇に点々と咲く日暮れの名残。
傍に寄ってみたくて、ここから飛び出してみたくって、でもできない。太い格子が邪魔をする。高い楼閣が足をすくませる。ここは牢獄。生きながらの苦界。飢えた身体に花を添え、蜜を注ぎ続けるだけ。
滑稽なのはどちらだろうか。
疲れ果てた身体が囁く。どちらもくだらない。もう充分だ。ならば絶ってしまおうか。
ビードロの吹き口。前にうっかり落としてしまったので、欠けて尖った形になっている。
これを胸に突けば、あるいは。
グッと握って、ふと力を抜く。
こんなことをするくらいなら、と。こんなことをしなくても、と。
待っていれば、いつか姿を見せてくれるのではないか、と。
詮無い期待にすぎないのに。叶わぬ望みと知りながら。
どこかで耐え忍ぶ自分がいる。
しょせん己は籠の鳥。飼い殺されて捨てられる。
それならば。命を絶とうが絶つまいが、行く末が同じなら。
ただ待つくらい、許されるのでは。
巡り巡って変わらぬ思いを夜ごとに持ち直し、ただ一人を待ち望んで今宵も独り、眠りにつく。
瞼を閉ざしたまどろみの中、夢だけは咎めることなく、焦がれてばかりの人影へと辿らせてくれる。