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奴隷と呼んだ彼女に捧ぐ

あなたが私を地獄に堕とす

作者: 小林晴幸
掲載日:2013/10/27

今回は「主」の正妻のお話。

やっぱりなんだか暗くなりました。

でも夫と息子よりはマシかも…。

 その(ひと)は儚げで美しく、この世のモノではない様に思えた。

 そして事実、彼女の心はきっともう、この世には無いのだろう。

 心を死なせてしまった女性。

 何の柵も無ければ…そうすれば、素直に哀れむこともできただろうに。

 

 彼女が、私の夫の心を奪った相手でさえ、なければ。



 初めて会った時は、憎いばかりだった。

 子供まで成した、たった一人の夫。

 今まで一度だって裏切られたことはなかったのに。

 どうして最初の一度が、遊びではなく本気だったの?

 私の立場は、子供達の存在は、何だったというの?


 夫を奪った女が、夫が、私の心をじりじりと焼き焦がす。

 

 だけどすぐに、私の心はもっと複雑な苦悩に呑まれた。


 見て、しまったから。

 女の深く激しい、絶望を。その嘆きを。


 嫉妬から、私は離れに閉じこもるあの女の元へ行った。

 厳重に私達が一同に会すことを嫌った夫の、留守に忍んで。

 そこで、見て、しまった…。


 女は、あまりにも哀れだった。

 

 そしてその哀れが他ならぬ夫の手によると、嫌でも突きつけられる。


 憎悪の念は消えた訳じゃない。

 だけど、不意に哀れんでしまったから。

 彼女があまりに可哀想だったから。

 私は何もできず、無言で引き返した。

 他に何をすればいいのかも、解らなかったから。

 私の矜持など問題にならぬ位、彼女が憂き目にあると突きつけられたから。

 私は、どうすればいいのか解らなくなった。

 …本当は、あの女を殺しに行ったはずだったのに。



 私の夫は、きっと地獄に堕ちるだろう。

 たった一人の女の為に、誰より激しく狂い、狂わせた。

 大勢を傷つけ、一人を絶望に落とし、不幸をばらまき人を沢山死なせた。

 だからきっと、彼は地獄に堕ちるだろう。


 私は長い時間、不遇を感じながらいつしか思う様になる。

 であれば、その時は…

 

 ………その時は、私が彼の供を努めようと。

 彼に付き従い、共に地獄まで堕ちようと。


 彼の為じゃない。

 私の為に。


 だってきっと、彼に従う者は多くない。

 地獄に堕ちるとなれば、殊更に。

 底へ、底へと堕ちていくほどに、彼はきっと一人になっていく。

 だから。

 だから、私は彼についていく。

 彼が一人になるまで。


 彼が一人きりになったなら、きっと。

 他に誰もいなくなったなら、きっと。

 その時は再び、私を見てくれるんじゃないか。

 私にも、嘗ての様な目を向けてくれるんじゃないか。

 何の希望も保証もないけれど。

 ただ、自分に思いこませる様にそう思った。


 最後まで、そう最期まで。

 私一人が見棄てずにいれば、彼を取り戻すことができるのではないかと。

 

 それをただの幸福な妄想と判じるかどうかは人次第。

 それでも、そう信じなければ死んでしまいそうだった。



 あの人が死んだら、私はあの人を追って地獄に堕ちる。

 あなたが、私を地獄に堕とす。


 そう信じ、貫くこと。

 そのことだけが私の希望であり、一縷の望み。

 死後に貴方を取り戻せると願い信じることが、私の唯一の幸福となった。





 結婚したとはいえ、所詮は政略結婚。

 でも数多の許嫁候補の中から私を選んだのは、他ならない夫自身。

 幼い頃から側にいた私を、あの人が選んでくれた。

 その知らせを受けた時、私は嬉しくてみっともなくも泣いてしまった。


 私とあの人の出会いは、私がまだ歩くこともままならないくらいに幼かった頃。

 当然ながら、私にはその記憶はない。

 だけど私より僅か年上だったあの人は覚えていた。

 楽しそうに笑いながら、どんな出会いだったのか語ってくれたことを思い出す。

 今は、あの頃の様に安らかな時間など持てないから、余計懐かしく悲しい気持ちと共に。


 私は、夫との初顔合わせの時、夫の顔を見るなり全力で泣き出したのだという。

 夫は、今までに覚えがないほど慌てたとか。

 顔を見るなり泣かれたのは、初めての経験だったのでしょう。

 王家の生まれであれば、そのような無礼を受けたことなど無かったはず。

 普通であれば相手が赤児であっても無礼と断じ、罰してもおかしくはない。

 顔を蒼白にする両親を尻目に、夫の反応は予想を超えた。

 

 大泣きされたからこそ、夫は私を泣きやませよう、嗤わせようと必死になった。

 泣かれたままにすることができなかった。


 あんなに力を尽くしたのは、勉強以外では初めてだったと、長じた夫が苦笑する。

 幼い頃の美しい思い出で、胸の中を温めながら。


 何がそんなに嫌だったのか、会う度に泣いていた私。

 そんな私が初めて泣きやみ、嗤ってくれた時の顔が忘れられないのだと。

 夫は確かに、穏やかな顔でそう言ったのに。

 

 今となっては、その記憶を覚えているかどうかすら、私には解らない。

 覚えていないでしょうね、と何気なく考えるほどに、私の心は諦めていた。




 あの儚い女が、子供を産んだ。

 誰の子か定かとは言えない、微妙な時期に。

 夫はこの誕生を手放しで喜び、自分をこそ父だと信じて見える。

 ふわふわと柔らかな笑みを浮かべる様になった女は、それでも目が虚ろで。

 自分の腕に抱く赤児に向けた時のみ、目に温かな生気が宿る。

 だけどそれもすぐ、夫の姿を目にした時にすっと冷えて消えてしまう。

 まるで、見たくないものを目にして現実を思い出したかのよう。

 そうしてそれは、事実そうなのでしょう。

 彼女は、生まれたばかりの我が子を目にした時のみ、狂気がなりを潜める様だった。


 母親からの惜しみない愛情を受けて、子供は育つ。

 だけれど自分を取り巻く異常な環境を、幼心に感じ取ったのでしょう。

 母と、父かもしれない男から愛された子供は、幼さに見合わぬ冷たい目の子供に育った。

 それを見て、嘗て母親の方に感じたのと同じ哀れみを覚えた。

 無垢なはずの幼子がする顔ではありませんでした。

 自分の母親を相手にしてなら、年相応の顔がのぞくこともある。

 父かもしれぬ相手――夫に対しては、特に鋭く冷たい視線。

 ああ、あの子は、小さな彼女は。

 自分を取り巻くすべての事情と、夫がどんな悪行を母親に強いているのか。

 その全てを幼心に理解しているのだと、見ただけで理解させるもので。

 感情と狂気に支配されて盲目となっている者を除いて、大人に痛ましさを感じさせる。

 ああ、私達はなんと罪深いのでしょう。

 惜しみない愛情を受け取りながらも、あんな目をする彼女。

 あんな、悲しい子供にさせてしまった。

 その責任の多くは、夫にあるのでしょう。

 ですが、私達にも…彼女の育った環境を作った私達にも、きっとその責任はある。

 年経るごとに瞳を凍らせていく子供。

 私は彼女の成長過程を遠目に見ながら、年々膨れ上がっていく自責と後悔に苛まれる。

 悔恨を懺悔するわけではないけれど、彼女は私の罪悪感の化身とも思えた。

 私はきっと、いつかこの胸の内の重いものを晴らす為、彼女に報いることになるでしょう。

 それがどんな時、どんな形で現れるのかはわからないけれど。

 だけど、きっとそうせずにいられない時がくる。

 彼女に報い、償うべき時が。

 彼女の為に、私が何かをできる時が。

 その時が本当に来るかどうか、断言はできない。

 けれど、いつか来る予感は確かで。

 彼女が私に何かを頼む時が来るとは思えなかったけれど。

 もしも何か頼まれる時が、本当に来たのなら………




 私の夫は本物の外道なのでしょうか。

 ずっと、繰り返し自分の中で自問自答が続く。

 傍目に見ても、答えは明らかなように思えるけれど。

 少なからず残った、夫を信じたい気持ちも時とともに萎んでいく。

 これが私に対して行われたことなら、全て許して受け入れることもできる。

 だけど別人にされたことなら…私は。

 (ないがし)ろにされたと、黙って耐えるべきでしょうか。

 一番の被害者が別にいて、私よりも苦痛の中にいるのに。

 その人を救うこともできず、私はただ待っている。

 底の底まで堕ちていく、あの人。

 これ以上はない程に堕ちきったあの人を、この手で受け止める日を。

 誰も手を伸ばせない程に離れてしまった、あの人。

 あの人の周りに、私しかいなくなるその時を。

 そうしたらきっと、他に誰もいなくなればきっと。

 その時、あの人は私を再び見てくれると信じながら。

 信じることしか、できないから。




読んでくれてありがとうございます!

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[良い点] 人類最前線シリーズから一気読みして初めて感想を書かせていただきます。 私的な解釈ですが…生まれた時から奴隷と呼ばれた少女が、最後に親子3人となれた事のうらに、この女性の助力があった気がしま…
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