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奴隷と呼んだ彼女に捧ぐ

あなたが私を地獄に堕とす

作者: 小林晴幸

今回は「主」の正妻のお話。

やっぱりなんだか暗くなりました。

でも夫と息子よりはマシかも…。

 その(ひと)は儚げで美しく、この世のモノではない様に思えた。

 そして事実、彼女の心はきっともう、この世には無いのだろう。

 心を死なせてしまった女性。

 何の柵も無ければ…そうすれば、素直に哀れむこともできただろうに。

 

 彼女が、私の夫の心を奪った相手でさえ、なければ。



 初めて会った時は、憎いばかりだった。

 子供まで成した、たった一人の夫。

 今まで一度だって裏切られたことはなかったのに。

 どうして最初の一度が、遊びではなく本気だったの?

 私の立場は、子供達の存在は、何だったというの?


 夫を奪った女が、夫が、私の心をじりじりと焼き焦がす。

 

 だけどすぐに、私の心はもっと複雑な苦悩に呑まれた。


 見て、しまったから。

 女の深く激しい、絶望を。その嘆きを。


 嫉妬から、私は離れに閉じこもるあの女の元へ行った。

 厳重に私達が一同に会すことを嫌った夫の、留守に忍んで。

 そこで、見て、しまった…。


 女は、あまりにも哀れだった。

 

 そしてその哀れが他ならぬ夫の手によると、嫌でも突きつけられる。


 憎悪の念は消えた訳じゃない。

 だけど、不意に哀れんでしまったから。

 彼女があまりに可哀想だったから。

 私は何もできず、無言で引き返した。

 他に何をすればいいのかも、解らなかったから。

 私の矜持など問題にならぬ位、彼女が憂き目にあると突きつけられたから。

 私は、どうすればいいのか解らなくなった。

 …本当は、あの女を殺しに行ったはずだったのに。



 私の夫は、きっと地獄に堕ちるだろう。

 たった一人の女の為に、誰より激しく狂い、狂わせた。

 大勢を傷つけ、一人を絶望に落とし、不幸をばらまき人を沢山死なせた。

 だからきっと、彼は地獄に堕ちるだろう。


 私は長い時間、不遇を感じながらいつしか思う様になる。

 であれば、その時は…

 

 ………その時は、私が彼の供を努めようと。

 彼に付き従い、共に地獄まで堕ちようと。


 彼の為じゃない。

 私の為に。


 だってきっと、彼に従う者は多くない。

 地獄に堕ちるとなれば、殊更に。

 底へ、底へと堕ちていくほどに、彼はきっと一人になっていく。

 だから。

 だから、私は彼についていく。

 彼が一人になるまで。


 彼が一人きりになったなら、きっと。

 他に誰もいなくなったなら、きっと。

 その時は再び、私を見てくれるんじゃないか。

 私にも、嘗ての様な目を向けてくれるんじゃないか。

 何の希望も保証もないけれど。

 ただ、自分に思いこませる様にそう思った。


 最後まで、そう最期まで。

 私一人が見棄てずにいれば、彼を取り戻すことができるのではないかと。

 

 それをただの幸福な妄想と判じるかどうかは人次第。

 それでも、そう信じなければ死んでしまいそうだった。



 あの人が死んだら、私はあの人を追って地獄に堕ちる。

 あなたが、私を地獄に堕とす。


 そう信じ、貫くこと。

 そのことだけが私の希望であり、一縷の望み。

 死後に貴方を取り戻せると願い信じることが、私の唯一の幸福となった。





 結婚したとはいえ、所詮は政略結婚。

 でも数多の許嫁候補の中から私を選んだのは、他ならない夫自身。

 幼い頃から側にいた私を、あの人が選んでくれた。

 その知らせを受けた時、私は嬉しくてみっともなくも泣いてしまった。


 私とあの人の出会いは、私がまだ歩くこともままならないくらいに幼かった頃。

 当然ながら、私にはその記憶はない。

 だけど私より僅か年上だったあの人は覚えていた。

 楽しそうに笑いながら、どんな出会いだったのか語ってくれたことを思い出す。

 今は、あの頃の様に安らかな時間など持てないから、余計懐かしく悲しい気持ちと共に。


 私は、夫との初顔合わせの時、夫の顔を見るなり全力で泣き出したのだという。

 夫は、今までに覚えがないほど慌てたとか。

 顔を見るなり泣かれたのは、初めての経験だったのでしょう。

 王家の生まれであれば、そのような無礼を受けたことなど無かったはず。

 普通であれば相手が赤児であっても無礼と断じ、罰してもおかしくはない。

 顔を蒼白にする両親を尻目に、夫の反応は予想を超えた。

 

 大泣きされたからこそ、夫は私を泣きやませよう、嗤わせようと必死になった。

 泣かれたままにすることができなかった。


 あんなに力を尽くしたのは、勉強以外では初めてだったと、長じた夫が苦笑する。

 幼い頃の美しい思い出で、胸の中を温めながら。


 何がそんなに嫌だったのか、会う度に泣いていた私。

 そんな私が初めて泣きやみ、嗤ってくれた時の顔が忘れられないのだと。

 夫は確かに、穏やかな顔でそう言ったのに。

 

 今となっては、その記憶を覚えているかどうかすら、私には解らない。

 覚えていないでしょうね、と何気なく考えるほどに、私の心は諦めていた。




 あの儚い女が、子供を産んだ。

 誰の子か定かとは言えない、微妙な時期に。

 夫はこの誕生を手放しで喜び、自分をこそ父だと信じて見える。

 ふわふわと柔らかな笑みを浮かべる様になった女は、それでも目が虚ろで。

 自分の腕に抱く赤児に向けた時のみ、目に温かな生気が宿る。

 だけどそれもすぐ、夫の姿を目にした時にすっと冷えて消えてしまう。

 まるで、見たくないものを目にして現実を思い出したかのよう。

 そうしてそれは、事実そうなのでしょう。

 彼女は、生まれたばかりの我が子を目にした時のみ、狂気がなりを潜める様だった。


 母親からの惜しみない愛情を受けて、子供は育つ。

 だけれど自分を取り巻く異常な環境を、幼心に感じ取ったのでしょう。

 母と、父かもしれない男から愛された子供は、幼さに見合わぬ冷たい目の子供に育った。

 それを見て、嘗て母親の方に感じたのと同じ哀れみを覚えた。

 無垢なはずの幼子がする顔ではありませんでした。

 自分の母親を相手にしてなら、年相応の顔がのぞくこともある。

 父かもしれぬ相手――夫に対しては、特に鋭く冷たい視線。

 ああ、あの子は、小さな彼女は。

 自分を取り巻くすべての事情と、夫がどんな悪行を母親に強いているのか。

 その全てを幼心に理解しているのだと、見ただけで理解させるもので。

 感情と狂気に支配されて盲目となっている者を除いて、大人に痛ましさを感じさせる。

 ああ、私達はなんと罪深いのでしょう。

 惜しみない愛情を受け取りながらも、あんな目をする彼女。

 あんな、悲しい子供にさせてしまった。

 その責任の多くは、夫にあるのでしょう。

 ですが、私達にも…彼女の育った環境を作った私達にも、きっとその責任はある。

 年経るごとに瞳を凍らせていく子供。

 私は彼女の成長過程を遠目に見ながら、年々膨れ上がっていく自責と後悔に苛まれる。

 悔恨を懺悔するわけではないけれど、彼女は私の罪悪感の化身とも思えた。

 私はきっと、いつかこの胸の内の重いものを晴らす為、彼女に報いることになるでしょう。

 それがどんな時、どんな形で現れるのかはわからないけれど。

 だけど、きっとそうせずにいられない時がくる。

 彼女に報い、償うべき時が。

 彼女の為に、私が何かをできる時が。

 その時が本当に来るかどうか、断言はできない。

 けれど、いつか来る予感は確かで。

 彼女が私に何かを頼む時が来るとは思えなかったけれど。

 もしも何か頼まれる時が、本当に来たのなら………




 私の夫は本物の外道なのでしょうか。

 ずっと、繰り返し自分の中で自問自答が続く。

 傍目に見ても、答えは明らかなように思えるけれど。

 少なからず残った、夫を信じたい気持ちも時とともに萎んでいく。

 これが私に対して行われたことなら、全て許して受け入れることもできる。

 だけど別人にされたことなら…私は。

 (ないがし)ろにされたと、黙って耐えるべきでしょうか。

 一番の被害者が別にいて、私よりも苦痛の中にいるのに。

 その人を救うこともできず、私はただ待っている。

 底の底まで堕ちていく、あの人。

 これ以上はない程に堕ちきったあの人を、この手で受け止める日を。

 誰も手を伸ばせない程に離れてしまった、あの人。

 あの人の周りに、私しかいなくなるその時を。

 そうしたらきっと、他に誰もいなくなればきっと。

 その時、あの人は私を再び見てくれると信じながら。

 信じることしか、できないから。




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[良い点] 人類最前線シリーズから一気読みして初めて感想を書かせていただきます。 私的な解釈ですが…生まれた時から奴隷と呼ばれた少女が、最後に親子3人となれた事のうらに、この女性の助力があった気がしま…
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