6.家 ~shiawase~
それは、ある日のおはなし。
朝の日差しを浴びて、クラリス・リベルテは目を覚ます。
上体を起こして、まぶたをこすっていると、双子の姉であるアイリスが既に着替えを終えていた。天馬騎士団である彼女の朝は早い。
きびきびと階段を下りていくアイリスとは真逆に、クラリスは寝巻きのままあとをゆっくりとついていく。眠い。
おはよう、と部屋の向こうでアイリスが元気な声で話しかけていた。
誰に?
返ってくる、おはようの声。柔らかい女性の声だった。
そしてこの声を、クラリスは知っている。
だからクラリスも、部屋に入ってからこう言った。
「おはよう、お母さん」
母は台所で朝食の支度をしているところだった。いつものように。
テーブルにはパンとサラダ。温かい紅茶が並べられている。
すでにアイリスは座っていて、トーストをかじっている父と一緒に話をしていた。同じ天馬騎士団の一員だ。話すことならいくらでもあるのだろう。とても楽しそうだ。
平凡な朝。暖かい日常。どこの家庭にでもある、ごく普通の一日の始まり。
だ か ら お か し い 。
なにかがおかしい。そんな違和感が拭えない。
どうしてなのだろう。こんなに幸せなのに。
「クラリス。顔くらい洗ってきたら?」
母が穏やかな声でそう話しかけてくる。
「はーい」
クラリスはとぼとぼとお風呂場に歩いていく。
ふと、何かを感じて右肩に触れる。
傷 一 つ な い 右 肩 に 。
そのままクラリスは洗面台で顔を洗う。
顔はさっぱりしたけれど、心はいっこうに晴れない。
何かがおかしいのだ。何か。そう、何かが。
顔を上げて鏡を見る。
違和感が、“そこ”にあった。
鏡の向こうでクラリスが笑っている。クラリス自身は笑ってもいないのに。
鏡の向こうのクラリスは血にまみれていて、それでも彼女は笑っている。
何よりクラリスの目を奪ったのは、右肩を覆い尽くす“もの”だった。
木の根のようなものが、右肩から肩甲骨――そして首筋まで伸びていて、肌は樹皮のようなものに変異してしまっている。
それが何かをクラリスは、よく知っていた。
りらりらりらりら。
木の根のようなものが足元から生えてきていることにクラリスは気づく。足元だけじゃない。洗面台の排水口から、天井の隙間から、めくれた壁紙から――ありとあらゆるところから木の根が伸びてきているのだ。
ひっ、と声にならない悲鳴がクラリスの喉を通る。
見渡せば、既にその場所はクラリスが見知った我が家ではなくなっていた。
生命を与えられたかのように脈打っている木の根。薄気味の悪い光は仄暗く、どこからともなく漂う生ぬるい大気が、クラリスの首筋を舐め取っていた。気持ち悪い。
やがて木の根が、クラリスの足元にまでまとわりついていく。何百万匹もの蟻が這いずってくるような嫌な感触に、クラリスの理性は完全に焼ききれてしまっていた。
りらりらりらりら。
お父さん、お母さん! と、クラリスは救いを求める。だけど誰も来ない。クラリス自身も呼ぶのはおかしいと思っていたし知っていた。だ っ て も う こ の 世 に い な い 人 な の に 。
血にまみれた“わたし”がニタリと微笑む。
……ああ、そうか。そういうことなのか。
木の根に侵食されながら、クラリスは気づく。
これはよくある平凡でありがちなごく普通の――
ただの夢だ。