2.朝 ~mezame~
クラリス。
この名前は、花の女神の名が由来なのだと、誰かが言った。
いつでも明るく微笑むその笑顔は花のようだし、おっとりふわふわとした空気が可愛らしいと、近所のおばさんたちによく褒められたことがある。
だけど意外と強気に出ることもあるし、包み隠さずきっぱり言い切るその性格は、〝やはりキレイなものには刺がある〟という格言が真実なのだと、近所のおじさんたちを確信させていた。
今でも花売り娘という仕事をしているあたり、花との縁はとても深い。
まるで春の陽気が服を着たような子、とよく言われたものだ。
かと言って、今クラリスが眠っているのは春の陽気とは全く関係なかったりする。
「……んー……」
重いまぶたを開けて、クラリス・リベルテは目を覚ます。
容赦なく降り注ぐ朝日の光が目に入って、思わずまぶたを閉じてしまった。
再び開けて目に入ったのは、自分の左手。
変な夢見たなぁ、なんてぼやきながらのそのそとベッドから起き上がる。低血圧というわけではないが体が重い。騎士を勤めている姉は朝どころか三時間しか寝ていなくてもきびきび動いているというのに、どうしてこうも違うのだろう。
目覚めが悪くて、気持ち悪い……。
ポットを沸かしておいて、その間に洗面台へと脚を運ぶ。
「…………」
鏡に映る、自分の顔。
クセのない桃色のロングヘアに、エメラルドのような青緑の瞳。
寝起きだからか表情が薄く、可愛らしいというよりも、どこか大人びた印象を与える。
それは姉のアイリスに瓜二つで、そしてあの人――母親にそっくりだった。
クラリスは表情を緩め、微笑んでみせた。大人びた印象は消え、16歳の少女の顔になる。
それから顔を洗って歯を磨いて、着替えを済ませると、沸かしておいたポットを手にお湯をカップに注ぐ。自家栽培している薬草で作ったハーブティーだ。
ハーブの香りを堪能しながら口に含む。少し熱い。さすがに風の月――6月の意――にもなると熱湯は舌に優しくないかもしれない。そろそろアイスティーに切り変える頃合いか。それにそろそろ部屋の模様替えをするのもいいかもしれない。窓際に机を置いて、窓の向こうから見える青い海を眺めながら――
と、そこへノックの音がしてクラリスの思考は中断された。
こんな朝早くに誰だろう。そんなことを思いながらクラリスは扉を開ける。
「……わ」
相手の顔を見て、クラリスは思わずそんな声が出た。
久しぶりに見る顔だった。そして――〝ついさっき〟見たばかりの顔でもだった。
夢で見た少女。赤い傘をさしてくれた友達。
「ミナーヴァ……」
夢と全く同じセリフをクラリスはつぶやく。友達の名前を。
「久しぶり。クラリス」
ハスキーボイスに言の葉を乗せて、友達が手を振ってきた。
クラリスは、笑わなかった。
静かにゆっくりと扉を閉めていく。
ぱたん。がちゃ。
「え、ちょ、待って? クラリス? なんで扉閉めちゃうのクラリス? なんで鍵かけてるのクラリス? クラリスぅっ?」
沈みかけの潜水艦においてけぼりにされたような悲壮な声を上げて、ミナーヴァがドアを叩き始める。しかし強く叩けていないあたり、彼女の人の良さを垣間見せていた。
なおも叩かれているドア越しに、クラリスが告げる。
「ごめん、知らない人には近づかないでって、死んだ大婆様が言ってたから」
「大婆様生きてるよ!? こないだゲートボールしてたよ!?」
「すみません私いま留守なんで近づかないでくれますか」
「やめてー。拒絶しないでー。クラリスー。開けて! 開けてくださいぃぃっ!」
おろおろとミナーヴァがうろたえているのがドア越しでもわかる。これでクラリスより背が高く、腕力や喧嘩もずっと強い人なのだから不思議なものだ。
(……まぁ、このくらいでいっか)
気が済んだのか、クラリスはドアを開ける。ミナーヴァが、ありがと、とつぶやく。
「近所迷惑だよ、ミナーヴァ」
いけしゃあしゃあと言い放つクラリスに対して、ミナーヴァはしゅんとしたようにうなだれる。
「……ごめん」
強気に出れないところも相変わらずだ。懐かしい掛け合いに、クラリスはふっと笑う。
目覚めの悪さは、もうすっかり消えていた。