12.姫 ~Tiia~
「どうしたの? 怖い顔して」
強張ったクラリスの顔を見ながら、“彼女”はおっかなびっくり呟いた。予想外の反応をされたことに半分驚き、半分心配している様子。
「…………」
クラリスはホッと胸を撫で下ろした。相手がよく見知った人物――友達であると分かったからだ。
「おどかさないでよ。ティーア」
「おどろいたのはこっちよ。……何かあったの?」
気遣う口調でティーアと呼ばれた少女は眉をひそめた。
クラリスは慌ててかぶりを振って否定する。まさか変な視線を感じてましたなんて言えない。
「ううん。なんでもないの。だいじょうぶ」
「そう? なら良かった」
ティーアの外見は藍色の髪をまとめて後ろに束ね、動きやすさを優先した軽装スタイル。あどけなさを残したその顔は、活発的な服装に見合った快活な笑顔がよく似合っている。
そんな彼女が差し出してきたのは、一枚の封筒。
「はい、これ」
「何これ?」
「ティル・ナ・ノーグじゃね、手紙って呼ばれてるの」
「知ってる」
苦笑いしながら、クラリスは封筒を受け取った。
ティーアの仕事は郵便配達。知人や家族から、あるいは海の向こうからやってくるお手紙を送り届けるメッセンジャーなのだ。
クラリスは、真新しい封筒を指先でくるりと回して、手紙の住所を目で追っていく。相手の住所は――
「キルシュブリューテ……ミーナからだ」
「ミーナ――ってミナーヴァ・キス?」
「うん」
ミーナことミナーヴァは、今は訳あって里帰り中なのだ。――友達の葬式で。
ちゃんと届けたよ、とティーアは一歩後ろに下がる。メッセンジャーにはまだ仕事があるのだ。
「じゃあね」
ひらひらと手を振ってティーアは背中を向ける。その先はアリの入る隙間もない人ごみで、今も天馬騎士団が人を集めている最中だ。喧騒でやかましいことこの上ない大通りを抜けるのは至難の業だろう。
クラリスがそんなことを思っていると、背中を向けているティーアは走り出すかのようにトントンとつま先を叩いた。
だけど彼女は、走らなかった。
彼女の萌黄色の瞳がゆっくりと開く。空の青を吸いこむかのように。
次の瞬間、クラリスは言葉を失った。
地面を蹴る。
まるでピアノの鍵盤を叩くみたいに。
ハ長音ラ音のような澄んだ音が聞こえた気がした。
そうだ。喧騒が消えている。
あれだけやかましかった音が聞こえない。
そして彼女から、重力が消えた。
ふわふわり。
ティーアの体が空を泳ぐ。
壁に触れ、ほんの少し一押しするだけでさらに空へ空へと昇っていく。まるで彼女の周りだけ“落ちる”という概念が忘れられているかのような、そんな錯覚さえ抱かせる。
羽のように緩やかに、魚のように軽やかに。
まるで天女か人魚のように、彼女の体が宙を踊る。
魔法などではない。彼女のしなやかな筋肉から生み出される跳躍力が、まるで飛んでいるかのような錯覚を与えているのだ。
元々は曲芸師をしてたと聞いていたが、あの様子だと“かなり出来る”曲芸師だったのだろう。
ある名の売れたスポーツマンが繰り出すジャンプは空を“飛ぶ”のではなく空を“歩く”ものなのだと聞いたことがある。今からでも技を磨けば、その手の業界にティーアは名を残せるかもしれない。もっとも、彼女にその気は無いだろうが。
クラリスがそんなことを考えているのも知らず、ティーアは屋根から屋根へとひょいひょい飛び回っており、やがて見えなくなってしまう。
「わたしも飛べたらなぁ」
そんなことをつぶやきながら、クラリスは封筒をくるくると回しながら、手近なカフェテラスに向かった。
嫌な目線がまだ遠くから投げかけられていることに、クラリスはまだ気づいていなかった。
Special Thanks
ティーア・ヘンティネン(Tiia Hentinen)
考案・デザイン――相良マミさん




