0.始 ~hajimari~
本作品には過激な表現が含まれており、読者様によっては不快に感じる場合もございます。
あらかじめご了承くださいませ。
私は妖精。名前は――ノーバディ。
私は闇の中にいる。何も見えない。何も聞こえない。ただ闇と、意識だけがある。
永遠の時間の流転。それは死にも――あるいは世に生まれる直前にも似た感覚だった。
きっと後者なのだと、私は確信していた。どうして分かるのかは分からない。だけどなぜか――そうなるものなのだと知っていたのだ。
私はもうすぐ誕生する。
私は考える。考えるだけの時間がたくさんあったから。
妖精とは、みんなの役に立つために存在するのだそうだ。空をつかさどる妖精。海をつかさどる妖精。月をつかさどる妖精。
ここはそういう世界。様々なものに神が宿る。
妖精が空を描き、ドラゴンがその空を舞い、ヒトがドラゴンを狩り、戦利品を海で運んで町に届ける。そんな世界。夢いっぱいの世界。
そして妖精は、誰かの願いを叶えることが出来る。本来は“精霊”と呼ばれるものの役目なのだけれど、妖精もその力があるのだという。
“契約”というものをすることで、人の役に立てるのだ。
私は考える。自分は、誰の役に立てるのだろうと。
男の子だといいな。いつだって楽しいことを好んでいるから。
女の子だといいな。いつだって幸せなものを願っているから。
私は誰に出会えるのだろう。どんな夢を叶えるのだろう。
子供かな?
大人かな?
母親かな?
父親かな?
勇者かな?
王様かな?
闇の中で、今日も私は夢を見る――
――しばらくして、私は具体的な夢を考え始めていた。 一体どんな願いを叶えてあげようかと。
最初に考えたのは、世界中の富を与えようというものだった。ヒトはいつだって、幸せを望んでいるから。
その次に考えたのが、永遠の若さを授けるというものだった。ヒトはいつだって、青春を望んでいるから。
その次に考えたのは、最高の名誉を叶えるというものだった。ヒトはいつだって、栄光を望んでいるから。
みんな喜んでくれるかな。幸せだって笑ってくれるかな。
そんなことを考えながら、今日も私は夢を見る――
――さらに時が流れて、私の中で疑念が湧き上がり始める。
私は夢を叶えられるのだろうか?
私は本当にそんな力があるのだろうか?
私は何も出来ないのではないだろうか?
私はすぐにその不安を振り払う。だけど一度浮かんだ水を吸った綿みたいに重くなって、じわじわと私にのしかかってくるのだ。
闇の中で、私の夢が木霊する。お前に出来るのかと問いながら、私の心を掻き毟る。
どうしよう。
どうしよう。
泣きたい気持ちをこらえながら、私は考える。ただひたすらに、がむしゃらに。
今日は夢を見なかった。
――どれだけの時が流れたのだろう。
私の意識に光が灯る。
ついにこのときがやってきた。
私がこの世に生まれる瞬間が。
どうしよう。私にやれるかな?
ずっと悩んできた。たくさんの時間があったけど、ついに答えは出なかった。
だからやるしかない。全力を出すしかない。たとえ不完全でもいい。行動しなくちゃ何もならないのだから。
不安な気持ちを勇気で隠して、私はこの世で最初の一歩を踏み込んだ。
まず目に付いたのは、ランダムに咲き誇る花々だった。色とりどりの花。秋の花も春の花も一緒になって真夏の光を吸って笑顔を振りまいている。
綺麗、と思えたのはほんの一瞬だった。
肌を刺すような痛みが私に食いついたのだ。花畑を転がって必死にあえぐ。
痛みは私の内側から溢れていた。痛い、辛い、苦しい。
上手く息が出来ない。のどがチリチリする。目の奥が熱くてたまらない。
手がボロボロと崩れ落ちていく。まるで泥の人形みたいに。海のさざ波で消える砂の城みたいに。
――私、死ぬの?
嫌だ。
――何も出来ないまま、死ぬ?
嫌だ。
――このまま消えちゃうの?
嫌だ。
――あの闇の中に。
嫌だあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!
死にたくない! 死にたくないよ!
まだ何も出来てないのに! まだやりたいことたくさんあるのに!
きえちゃうなんてぜったいやだ!
わたしまだ死にたくな――
ここで、気づく。
ふっと顔を上げて。自分に影が差していることに気づいた。
その影が、みるみる大きくなってわたしを飲みこんでいく。
空から、女の子が降ってきた。
ドサッ、と大きな音がした。
わたしの隣に落ちてきたそれを――まだ続く痛みを抑えながら――恐る恐る覗きこむ。
それは、少女だった。
白と赤が混じったショートヘア。細身だけど引き締まった体。それが仰向けになって花畑の海に浮かんでいる。
背中から生えているのは、コウモリのように黒く、だけど蝶のように青みがかった翼。
それがサキュバスと呼ばれる種族であることを、私はのちに知ることとなる。
浅い呼吸を繰り返す彼女の肌は――不気味なくらいの青。
元の肌の色じゃないことは、おびただしい量の血の赤を見れば明らかだった。
まず、身体の部品がいくつか欠如していた。
左腕と右足が無くなっている。腹部が食い千切られたかのように大きく抉れていて、左胸も同様になっていた。骨も神経も血管も脂肪も筋肉も、一切合財関係なく差別なく躊躇なく引き裂かれている。残酷に。それでいて凶暴に。
腹部の傷から覗く腸が、腹圧に耐えかねて血糊と砂と泥にまみれながら飛び出している。抉られた左胸にいたっては、肉の部品が露出して見えていた。どくどくと脈打つ桃色の心臓が、砕けた胸骨の隙間から見えている。
その脈動にあわせて、傷という傷口から血がとめどなく噴き出していて、白い花と葉の緑を赤く汚していた。
息が荒い。今にも消えてしまいそうなほどにか細い声。その青い瞳は今にも輝きを失い、魂がすり抜けてしまいそうだった。
生まれたばかりのわたしにも分かる。感覚で、分かる。
彼女の肉体は死を望んでいるということが。
「…………」
サキュバスが何かをつぶやく。
真っ先に思い至ったのは「殺して」だった。
そんなの嫌だとわたしは思った。そんな残酷な願い、あまりにも悲しすぎる。
だけど彼女はわたしと同じで死にかけてる。何の希望も無いのなら、いっそのこと――
痛みと迷いに震えながら、それでもわたしは今も苦しむサキュバスの喉に手を伸ばす。ごめんね、と謝りながら。
その手を、サキュバスの右手がつかんだ。
死にかけているとは思えないくらいに強く、だけどしっかりと包み込みながら。
それは決して死を望むものの行動なんかじゃなかった。
それを証明するかのように、彼女は言ったのだ。
「たすけろ」
わたしの予想を裏切る言葉。
わたしの迷いを打ち砕く呪文だった。
残った右腕と左足で、彼女は傷ついた体をゆっくりと起こす。
輝きを失いつつある瞳に炎が宿る。消えかけた意識を鎖でつなぎ、抜け落ちつつあった魂をわしづかみにして、この世になおもかじりつく。
この絶望の中で、彼女はいまだ希望を離してなんかいなかった。
「あたしを助けろ」
それが全て。
それが彼女の願い。
私は考える。自分は、誰の役に立てるのだろうと。
ずっとずっと考えてた。その答えがついに見つかった。
わたしはきっと――彼女の役に立つために生まれたのだ。
私は静かに、死にかけているサキュバスの頬に触れる。
命が咲き誇る花畑で、あたしは誓った。
――貴女の夢を叶えます。
それがサキュバスことミナーヴァ・キスと、私――妖精ノーバディの契約の瞬間だった。