「その奇跡は、誰かに傷を移すだけです」偽聖女として追放された私は、王家の傷を押しつけられた騎士と教会の嘘を暴く
「その奇跡は、誰かに傷を移すだけです」
聖女認定の最終試験で、私は祈りを拒んだ。
その一言で、十三年を捧げた教会は私を偽聖女にした。
けれど、私を辺境へ捨てればすべて終わると思った彼らは知らなかった。
追放先には、王家の奇跡の代価を押しつけられた四十一人がいたことを。そして、教会が隠した契約を読めるのは、偽聖女と呼ばれた私だけだったことを。
もっとも、そのときの私は、まだ自分の力の名さえ知らなかった。
白い礼拝堂の中央では、レオニス王太子殿下が右腕を差し出している。儀礼用の短剣でつけた、指の長さほどの傷。深くはない。それでも血は白い袖を赤く汚していた。
「どうした、ノエラ。祈りなさい」
オルデン大司教の声が背後から落ちてくる。
私は王太子の腕に手をかざしたまま、動けなかった。
傷から、一本の黒い糸が伸びていたからだ。
糸は礼拝堂の壁を抜け、王都を越え、はるか北へ続いている。意識を向けた瞬間、雪の積もる古い建物と、粗末な寝台で眠る少年が見えた。
まだ十歳ほどだろう。細い右腕に、王太子と同じ形の赤い筋が浮かびかけている。
王太子の傷が淡くなるほど、少年の皮膚が裂けていく。
「何を言っている?」
王太子は眉を寄せた。試験を待つ貴族たちの間から、失笑が漏れた。
「傷は消えていません。遠くにいる子どもへ移されます。これを治癒とは呼べません」
「妄言だ」
オルデン大司教は迷いなく言い切った。
「聖女の奇跡は神の慈悲。代価を求めるような俗悪な術ではない」
「ですが、見えます。今も――」
「力を発現できぬ者ほど、奇妙な言い訳をするものだ」
大司教が杖を一度鳴らすと、控えていた教会騎士が私の両脇に立った。
十三年間、私はこの日のためだけに生きてきた。
七歳で教会に引き取られてから、祈りも礼法も薬草学も、眠る時間を削って覚えた。聖女になれば、拾ってもらった恩を返せる。役に立たなければ、私には何も残らないと思っていた。
それでも、もう一度祈ることはできなかった。
「私は、その子を傷つけません」
礼拝堂が静まり返った。
オルデン大司教の目から、最後の温度が消えた。
「候補生ノエラには、聖女の資質なし。虚言によって神聖な試験を妨げた偽聖女と認定する」
私の胸から、銀の候補章がむしり取られた。
「エステル。試験を続けなさい」
列の端にいた少女が、びくりと肩を揺らした。
淡い金髪のエステルは、候補生の中で最も強い治癒の光を持っていた。彼女は私と王太子を交互に見たあと、おそるおそる前へ出る。
「ノエラ、本当に……誰かが?」
「祈ってはいけません」
「惑わされるな」
大司教が命じた。
エステルは唇を噛み、王太子の腕へ両手をかざした。
白い光が満ちる。
傷が閉じた。
同時に、黒い糸が北へ弾けるように走った。寝台の少年が跳ね起き、右腕を押さえて叫ぶ。白い寝間着へ血が広がった。
「やめて!」
私はエステルの手を払おうとした。騎士に腕をねじ上げられ、石床へ膝をつく。
王太子の腕は、跡形もなく治っていた。
礼拝堂に拍手が起きた。
その音の向こうで、私は少年の泣き声を聞いていた。
悔しかった。十三年を一言で捨てられたことも、真実を告げた私が嘘つきにされたことも。
けれど、それ以上に許せなかった。
誰かの血が流れた瞬間を、奇跡だと称えて拍手する、この礼拝堂が。
私は石床へ押さえつけられながら、その拍手を決して忘れないと決めた。
◇
その日のうちに、私の名は聖籍から削られた。
白い候補生服も取り上げられ、与えられたのは灰色の作業着と、北辺境への片道の馬車だけだった。
「偽りを口にした罰として、辺境聖痕院で生涯奉仕しなさい」
出発前、オルデン大司教はそう告げた。
「あの子がいる場所を、最初から知っていたのですか」
私が尋ねると、大司教は否定しなかった。
「国家を支える奇跡の仕組みを、候補生が知る必要はない」
それで十分だった。
彼は私に力がないと思ったのではない。見てはいけないものを見たから、口の届かない場所へ捨てるのだ。
辺境聖痕院は、戦傷者や重い病を負った者を保護する教会の慈善院だと教えられていた。王都から馬車で十二日。訪ねてくる貴族も、外へ戻れた患者もほとんどいない。
私を遠ざけるには、都合のいい場所だったのだろう。
北へ進むほど雪は深くなった。
十二日目の夕方、馬車は石壁に囲まれた古い建物の前で止まった。門の上には、半分欠けた聖印が残っている。
御者は私の荷を雪の上へ下ろすと、挨拶もせずに引き返した。
門を叩こうとしたとき、中から子どもが飛び出してきた。
「ダリオ、包帯がまた――」
少年は私を見て立ち止まった。
十歳ほどの、小柄な子だった。右腕へ巻いた包帯に、細長く血がにじんでいる。
あの礼拝堂で見た少年だった。
少年の背後から、長身の男が駆けてきた。
黒に近い焦げ茶の髪。雪の中でも背筋は崩れず、右手だけで少年を軽々と抱き上げる。外套の留め金には、削りかけた近衛騎士の獅子章が残っていた。左腕は厚い革帯で胸元に固定されている。指先まで広がる黒褐色の痣から、数え切れないほどの黒い糸が王都へ伸びていた。
厳しい顔つきなのに、少年を抱く右手は驚くほど優しい。私はなぜか、その手から目を離せなかった。
「トーマ、走るなと言っただろう」
「でも、包帯が濡れたから」
「中で替える。――あなたは?」
男の灰色の目が、私の作業着の胸に残った教会の縫い跡を見た。
「中央教会から来ました。ノエラと申します」
彼は少年を抱いたまま、私と荷物の間へ立った。
「今度は、何を調べに来た」
歓迎されないことだけは、よく分かった。
「調べに来たのではありません。偽聖女として、ここへ追放されました」
「偽聖女?」
「その子の傷を、王太子殿下から移したと言ったからです」
男の目が鋭く細められた。
私はトーマの右腕を指ささず、本人へ尋ねた。
「包帯の下を見せてもらってもいいですか」
トーマは男を見た。男は答えを代わらず、少年を雪の上へ下ろした。
トーマが自分でうなずく。
「いいよ。今日のお昼に、急に切れたんだ。何にも触ってないのに」
ほどいた包帯の下には、儀礼用短剣と同じ長さの傷があった。
男は長いあいだ、その傷を見つめていた。
「俺はダリオ・ヴェルン。この院の管理人だ」
低い声から、疑いは消えていない。
それでも彼は門を開けた。
「入れ。ここで立ち話をして、子どもを凍えさせる気はない」
◇
聖痕院には、四十一人が暮らしていた。
戦で片脚を失った老人、原因の分からない発熱を繰り返す少女、眠ったまま目を覚まさない元兵士。医師は一人、看護人は二人。薬も薪も足りていない。
そして全員の身体から、王都へ黒い糸が伸びていた。
私は到着した日の夜、トーマの傷口を洗う手伝いをした。普通の消毒と縫合しかできない。祈っても傷は閉じない。
「やはり、私は何も治せないのですね」
思わずこぼすと、向かいで包帯を切っていたダリオが顔を上げた。
「医師が縫った傷を押さえ、包帯を巻いている」
「それは誰にでもできます」
「できる者が足りない場所では、十分に仕事だ」
慰める口調ではなかった。ただ事実を置くような声だった。
深夜、院内の鐘が激しく鳴った。
十二歳のミナが高熱を出したのだ。昼まで台所で豆を選っていた少女が、寝台の上で息を荒らげている。
その胸から伸びる黒い糸は、火であぶられたように赤く脈打っていた。
糸へ指を近づける。
文字が、頭の中へ流れ込んだ。
受益者――ルーデン王国第三王女。
代価負担者――北部第十七号。
症状――高熱、悪寒、関節痛。
登録時年齢――五歳。
本人同意――なし。
幼いミナの身体へ、今、王女の病が注ぎ込まれている。
「王都で王女殿下が治療を受けています」
私が言うと、老医師が険しい顔をした。
「どうして分かる」
「この子と王都を結ぶものが見えます。止められるかもしれません。ただ、治せるわけではありません。流れ込む熱を止めるだけです」
「なら止めろ」
ダリオが即答した。
「簡単ではありません。契約を無理に切れば、王女殿下にもミナにも反動が出ます。契約の手順を探す必要があります」
「何が要る」
「台帳と、この院の印章です」
ダリオは腰から鍵束を外した。
「中央から来る人間には、書庫を開けないことにしていた」
「私はまだ信用されていないと思っていました」
「信用はしていない。だが、ミナに残された時間は、俺の疑いが晴れるまで待ってくれない」
彼は最も古い鍵を私へ渡した。
「必要なものを見つけろ。俺が隣で見ている」
書庫は礼拝堂の地下にあった。
湿気た棚には二冊一組の帳簿が並んでいた。片方は受益者の名と治癒の日付、もう片方は番号と発症日だけ。氏名が切り離されているため、普通に読めば誰の傷が誰へ移ったのか分からない。
だが、私が頁へ触れると、インクの下から黒い線が浮かんだ。
三日前に落馬した侯爵と、肋骨を折った元兵士。
出産後に衰弱した伯爵夫人と、原因不明の出血を起こした女中。
何十年分もの奇跡の請求書が、二冊の間に隠されていた。
総覧によれば、王国で受苦者を登録しているのは、この聖痕院だけだった。王家と中央教会が起こした奇跡の代価は、すべてここへ集められている。
「これを、教会はずっと……」
ダリオが左手を押さえた。黒い痣が、革帯の下でかすかに動いた。
問いかける前に、奥の棚から古い木箱を見つけた。中には欠けた地方管理印と、薄い手引書が入っている。
表紙にあった職名は削られていた。
指でなぞると、消された文字が黒く浮かび上がる。
――呪約師。
治癒を行う聖女とは別に、誰が利益を受け、誰が代価を払うかを監査する者。
最後の呪約師が記録から消えたのは、八十二年前だった。その後、地方管理印を起動できた者はいない。
手引書の末尾に、一つだけ生きている条項があった。
受苦者の同意に不備が疑われる場合、地方管理印は当該転送を三日間停止できる。
「止められます」
私は印章を持ってミナの部屋へ戻った。
寝台脇で、本人の名を確かめる。
「ミナ。この熱を、これからも代わりに引き受けたいですか」
「いや……」
乾いた唇が、はっきり動いた。
「もう、いや」
「分かりました」
地方印を帳簿の第十七号へ押し、私は隠された文を読み上げた。
「代価負担者ミナ・ロウ。登録時五歳。説明記録なし、本人署名なし。呪約師の監査権により、この転送を三日間停止します」
印章の亀裂から、青白い光が走った。
ミナの胸から伸びていた黒い糸が、弓弦のように張り詰めた。
それまで私にしか見えなかった糸が、寝台の上へ黒々と浮かび上がる。糸の表面が裂け、隠されていた文字が青い炎となって宙へ並んだ。
受益者――第三王女。
代価負担者――ミナ・ロウ。
本人同意――なし。
老医師が息を呑み、ダリオが目を見開いた。
熱と痛みが腕を伝い、私の頭へ流れ込んだ。王女の苦しさ。ミナが七年間に受けた熱。息ができず、膝が崩れそうになる。
「ノエラ」
ダリオの右腕が、私の背へ回りかけて止まった。
「触れるぞ」
「……はい」
答えた直後、身体を支えられた。
黒い糸から黒い皮膜が砕け散り、害のない灰色へ変わる。宙に浮かんだ契約文字へ、赤い「監査停止」の印が打ち込まれた。
ミナの熱はすぐには消えなかった。それでも上がり続けていた体温が止まり、老医師の薬と冷たい布が、ようやく追いつき始めた。
翌朝、王都から緊急の伝書鳥が届いた。
『奇跡により快癒した第三王女へ、発熱が再発。辺境の管理印に異常を確認。直ちに報告せよ』
ダリオは紙を読み、静かに息を吐いた。
「八十二年、誰にも動かせなかった印だ」
彼は割れた地方印と、まだ熱の残る私の手を見比べた。
「中央教会が消した仕事を、あなたは一晩で取り戻した」
「あなたの言ったとおりだった」
「私は奇跡を起こせません。止めただけです」
「違う」
彼は、机に置いた古い手引書を私へ向けた。
「聖女ではなく、呪約師なのだろう」
失われた職名を、誰かが私のために口にした。
胸の奥で、十三年間閉ざされていた扉が、かすかに開く音がした。
◇
三日の猶予で、私たちは四十一人分の記録を調べ始めた。
帳簿を照合し、本人へ説明し、望みを聞く。
治癒を受けた貴族の名を告げると怒鳴る者もいた。長年の発作に理由があったと知り、声を上げずに泣く者もいた。子どもには医師か看護人に同席してもらい、難しい言葉を使わず、何度でも説明した。
ダリオは私が読み上げた内容を、右手で一件ずつ清書した。
彼の左腕には、この院で最も多くの糸が集まっていた。
王太子の幼い頃の落馬。前王妃の火傷。将軍の折れた鎖骨。近衛騎士たちの剣傷。
糸は肩から指先まで巻きつき、皮膚の下へ食い込んでいる。
「調べてもいいですか」
私は革帯へ手を伸ばす前に尋ねた。
ダリオは意外そうに私を見た。
「許可が必要なのか」
「あなたの腕ですから」
しばらくして、彼は自分で留め具を外した。
「頼む」
袖をまくると、黒褐色の聖痕が肩から手の甲まで重なっていた。古い剣傷の上に火傷が走り、折れた骨の形まで黒く浮いている。左の指はほとんど曲がらない。
私は二本の指で、傷のない場所へそっと触れた。
戦場の光景が流れ込んできた。
血まみれで横たわる十二人の近衛騎士。二十四歳のダリオが教会の書記へ署名を差し出す。
『部下を助けられるなら、俺が受ける』
一度だけの同意だった。
だが、署名の下に別の紙が継ぎ足されていく。今回の戦傷。以後の王家の負担。期間は空欄から「恒久」へ。対象は十二人から「中央教会が指定する受益者」へ。
「署名が流用されています」
私が顔を上げると、ダリオはうなずいた。
「四年前のことだ。最初の負担を引き受けたあとも、傷が増え続けた。おかしいと気づいて報告書を出した」
そこまで話した瞬間、左腕の痣が盛り上がった。
黒い筋が首へ向かって這い、ダリオの呼吸が詰まる。
「もう話さないでください」
「だが――」
「あなたが説明しようとすると発動する、別の契約があります。沈黙を強いる呪約です」
私は手を離した。黒い筋の動きが止まる。
ダリオは荒い息を整えながら、机の引き出しを右手で開けた。奥から、封を切られていない報告書の控えと、辺境への異動命令を出す。
話せなくても、彼は証拠を残していた。
「あなたの契約を最初に止めましょう」
「いや。俺の身体は多くの契約をつなぐ支柱になっている。先に外せば、他の者へ負担が流れるかもしれない。最後でいい」
「最後まで残した結果、あなただけが死ぬ案は認めません」
「俺の身体については、俺が選ぶべきだと、あなたは言ったはずだ」
静かな反論だった。
私はすぐに言葉を返せなかった。
「はい。あなたには選ぶ権利があります。ですが、自分だけを犠牲にして、他の全員の選択を終わらせる権利はありません」
ダリオの眉がわずかに動いた。
「私は、四十一人全員へ説明します。あなたにも、続けるかやめるかを、そのあとでもう一度尋ねます。私が失敗しても、あなた一人を代わりの支払いにはしません」
「頑固だな」
「十三年間、教会に鍛えられました」
初めて、彼の口元にごく薄い笑みが浮かんだ。
その夜、書庫から戻ると、食堂の隅に二人分のスープが残されていた。
「冷める前に食べろ」
ダリオが向かいへ座る。右手だけで切ったらしいパンは、厚さが不揃いだった。
「管理人の仕事に、夜食も含まれるのですか」
「呪約師が帳簿の上で倒れないようにする仕事は、今日増えた」
その職名で呼ばれるたび、胸の奥がまだ落ち着かない。
「どうして、私を信じられるのですか」
「まだ全部は信じていない」
正直な答えに、なぜか安心した。
「だが教会は、俺の身体を王国の備品のように扱った。あなたは、触れる前に許可を求めた」
ダリオは私をまっすぐ見た。
「それに、あなたは聖女になるための十三年を失っても、会ったことのないトーマを傷つけなかった。その判断は信じられる」
湯気で視界がにじんだ。
泣くほどのことではない。そう思ったのに、スプーンを持つ手が震えた。
「ノエラ」
教会では候補生、偽聖女、役立たずと呼ばれた。
名前を呼ばれただけで、こんなにも息がしやすくなるとは知らなかった。
「はい、ダリオ」
私も、彼の名前を呼んだ。
◇
三日目の朝、王都へ伸びる黒い糸が一斉に震えた。
一本や二本ではない。四十一人の寝台から伸びた糸が、赤黒く染まっていく。これまでで最大の転送が始まろうとしていた。
直後、中央教会から命令が届いた。
『王都東区で熱病が発生。聖女エステルによる大祈祷を実施する。辺境聖痕院は受苦者を全床受け入れ態勢とせよ』
全床。
それは、ここにいる者全員を王都の代わりに病ませるという意味だった。
「地方印で四十一件すべてを個別に止める時間はありません」
私たちは書庫へ走った。
監査手引書をめくる手が震える。個人転送は三日だけ止められる。だが、登録そのものに広範な不正がある場合はどうなるのか。
削られた頁を火へ透かすと、薄い文字が浮かんだ。
――三件以上の無署名登録、または契約権者による記録改変を確認した場合、全系統を中央審査まで停止する。
「ありました」
「証拠は?」
「四十一件あります」
地方印を受苦台帳の表紙へ押す。
古い印章が耐えきれず、中央から二つに割れた。
しかし光は消えなかった。受益者台帳と受苦台帳の間を青い線が走り、別々だった二冊が一つの契約として開く。
「受苦者四十一名のうち、本人署名なし二十六名。説明欠落十二名。期間改変三名。契約全系統を中央審査まで停止します」
院内に、太い鐘の音が響いた。
赤黒く染まっていた糸が、すべて灰色へ変わる。
遠く王都で始まろうとしていた祈りが、行き先を失って止まった。
同時に、門を叩く音がした。
ダリオが剣の柄へ右手を置く。私たちが中庭へ出ると、雪まみれの馬車から白い外套の少女が降りてきた。
「ノエラ!」
エステルだった。
彼女は礼拝堂で王太子の傷を治した翌日、私の言葉が頭から離れず、辺境へ向かったのだという。中央教会には聖痕院の視察と届け出たが、道中で王都へ戻り大祈祷を行うよう命令を受けた。それでも引き返さなかった。
「確かめるまで、もう祈れなかったの」
エステルの頬は寒さで赤く、目の下には深い隈があった。
私は彼女をトーマの部屋へ案内した。
包帯を外した右腕には、まだ新しい傷が残っている。
「この傷は、認定試験の日につきました」
私が告げると、エステルの顔から血の気が引いた。
「私が、殿下を治したから……?」
「あなたが知らされないまま起動した契約が、この子へ移しました」
エステルはトーマの寝台の脇へ膝をついた。
「ごめんなさい」
「エステル様が切ったんじゃないんでしょ?」
「知らなかった。でも、知らないまま力を使ったのは私です」
彼女は泣いて許しを求めなかった。立ち上がると、私たちとともに二冊の台帳を読み始めた。
「王都に戻れば、大司教様は私に祈らせます。私は拒みます」
「王都では、治療を待つ方もいます」
「だから医師と薬を集める。時間はかかっても、誰かを代わりに病ませるよりいい」
エステルは白い聖女章を外し、机へ置いた。
「辞めるためじゃない。聖女の権限で、この審査を要求するために使うわ」
日暮れ前、北部教区の教会騎士が六人到着した。
「偽聖女ノエラを、奇跡妨害および禁呪行使の罪で拘束する。地方管理印と台帳を引き渡せ」
隊長が令状を読み上げる。
ダリオは私の前へ出た。右手の剣は抜かない。けれど六人の騎士は、元近衛隊長の構えを知っているのか、誰もすぐには近づかなかった。
「その令状は無効です」
エステルは机に置いていた聖女章を取り上げ、私たちの隣に立った。
「聖恩呪約の起動権者である私が、監査停止を承認しました。中央審査が終わるまで、証拠となる人、印、台帳の移送を禁じます」
「しかし、大司教猊下の命令が――」
「では猊下に、中央契約印を持ってお越しいただきなさい。偽りがないのなら、公開審査で証明できるはずです」
聖女章を掲げるエステルの手は震えていた。それでも下ろさなかった。
騎士たちは私を連行できず、門外へ監視を置いて引き下がった。
その夜から、私たちは四十一人全員の意思確認を行った。
帳簿を見せ、これまで何を負わされていたか、停止すれば何が起きるかを伝える。字を書けない者には読み上げ、未成年者には本人と、教会から独立した老医師の両方に確認を取った。
「王都の人が困るんじゃないのか」
元兵士の老人が尋ねた。
「困ります。けれど、普通の医療と休養で回復できます。これまで省かれた時間を、今度は本人が過ごすだけです」
「なら、返してやれ。俺はもう、知らない傷で夜中に起こされたくない」
四十一枚の意思確認書が揃った。
最後の一枚は、ダリオだった。
「説明を聞いたうえで、もう一度尋ねます。あなたは、これからも王家や騎士の傷を引き受けたいですか」
彼は長く、自分の左腕を見た。
「あの日、部下十二人を助けるために選んだことは後悔していない」
「はい」
「だが、その一度を理由に、その後の人生まで差し出すとは言っていない」
ダリオは右手で羽根ペンを取り、継続拒否の欄へ署名した。
「俺も、生き残る方を選ぶ」
署名を見た瞬間、胸の奥に詰まっていた息が、ようやく抜けた。
◇
十二日後、オルデン大司教はレオニス王太子と中央契約印を伴って現れた。
国王は、過去に消した病が戻って王都で療養しているという。レオニスは王家を代表する全権委任状を携えていた。
銀の馬車が門前に止まり、王家の騎士と教会騎士が雪の中へ二列に並ぶ。
王太子は認定試験の日より痩せていた。右腕をかばい、ときおり顔をしかめている。監査停止のあと、幼い頃に奇跡で消した骨折の痛みと、幾度もの発熱が少しずつ戻り始めたらしい。
「ずいぶんなことをしてくれたな、ノエラ」
オルデン大司教は院内へ入るなり言った。
「王都では官吏も将軍も床につき、民の治療まで滞っている。今すぐ呪約を再稼働させなさい」
「中央審査が先です」
「聖女候補へ戻す。偽聖女の認定も撤回しよう。望むならエステルと並ぶ聖女の地位を与える」
十三年間、欲しかった言葉だった。
けれど、驚くほど心は動かなかった。
「必要ありません。ここにいる四十一人へ、何を負わせたか公開してください」
大司教の目が冷たく細くなる。
「国家の安定より、身寄りのない四十一人を優先するというのか」
「比べる前に、本人へ説明すべきだったと言っています」
「政治を知らぬ娘の理想論だ」
「ならば、審査の場でお話しください。払っていない側だけで決めることが、なぜ必要な犠牲と呼べるのかを」
中庭には、院の四十一人と職員、王家の騎士、教会騎士が集まっていた。
中央に机を置き、二冊の台帳、四十一枚の意思確認書、ダリオの報告書を並べる。
中央契約印は、大司教が持つ金色の箱に収められていた。初代王の冠と初代聖女の杖を組み合わせた印が、蓋に刻まれている。
「これは教会の機密だ」
大司教は箱へ手を置いたまま言った。
「開示すれば敵国に奇跡の仕組みを知られ、王家が狙われる」
「仕組みを知らないまま狙われていたのは、私たちです」
トーマの声だった。
大勢の前で震えながらも、少年は包帯の残る右腕を下ろさなかった。
王太子がその傷を見る。
「それは……私の試験の?」
「はい」
私が答えた。
「殿下の古い傷の一部は、ダリオにも移されています」
王太子の視線が、革帯で吊られた左腕へ向く。
「ダリオ。お前は近衛隊を負傷で退いたと聞いていた」
ダリオが口を開こうとした途端、聖痕が首へ這い上がった。
私は彼の前に立つ。
「証言を妨げる沈黙呪約があります。違法登録の審査に必要な範囲で、一時停止できます。触れてもいいですか」
「頼む」
彼の左肩と、割れた地方印へ同時に手を置く。
「契約番号、無記載。受益者、中央教会。代価負担者、ダリオ・ヴェルン。告発を妨げる条項を、審査終了まで停止します」
黒い筋が首元から退いた。
ダリオは息を整え、王太子を見た。
「四年前、私は戦場で部下十二人の傷を引き受けることに同意しました。一度だけです。教会はその署名を恒久登録へ転用しました。異議を申し立てると、この沈黙呪約を掛け、私をここへ送りました」
彼は控えの報告書と異動命令を机へ置いた。
「虚偽だ」
オルデン大司教が吐き捨てる。
「ならば、中央印で確かめましょう」
私は王太子へ向き直った。
「殿下。受益者側の最高代理人として、利益と代価をご覧になりますか。一度見れば、知らなかった頃には戻れません」
王太子はすぐには答えなかった。
右腕を押さえ、息を呑む。
「見れば、これまで治された傷が私へ戻るのか」
「見るだけでは戻りません。ですが、改定を選べば、本来必要だった療養の痛みと時間を、段階的に引き受けることになります」
「私は王太子だ。何か月も政務を休めば、国が止まる」
「そうです。簡単な選択ではありません」
「殿下」
オルデン大司教が低く呼びかけた。
「迷われる必要はありません。王家の健康は王国のもの。孤児や罪人が負うわずかな苦痛で国が保たれるなら、それは慈悲ある配分です」
王太子の顔に迷いが浮かぶ。
私は答えを急がせなかった。
やがて彼は、トーマからダリオへ、ミナから四十一人の顔へと視線を動かした。
「わずかな苦痛かどうかを、私は一度も見たことがなかった」
王太子は中央契約印の箱へ手を置いた。
「見る。王太子レオニスの名で、公開審査を命じる」
オルデン大司教の顔が初めて歪んだ。
エステルが聖女章を中央印へ重ねる。私が二冊の台帳に手を置き、ダリオは四十一枚の意思確認書を支えた。
金色の箱が開く。
世界が、痛みの線で満ちた。
黒い糸が中庭を埋め尽くした。
王太子の右腕からトーマへ。第三王女の胸からミナへ。王都の方向から何百本もの糸が伸び、四十一人の身体へ突き刺さっている。
ダリオの左腕には、王家と軍の糸が太い縄のように絡んでいた。
今度は私だけではない。
中央印の光によって、その場にいる全員に見えていた。
悲鳴が上がった。
王家の騎士たちが、自分の古傷から伸びる糸を見つける。教会騎士の一人は、糸の先にいた老人と目が合い、兜を脱いだ。
台帳の番号が剥がれ落ち、その下に実名が浮かぶ。
さらに、ダリオの署名へ継ぎ足された頁が赤く染まった。
改変者――中央教会契約局。
承認印――オルデン大司教。
沈黙呪約の命令者にも、同じ名が現れた。
「必要だった!」
オルデン大司教の声が中庭に響く。
「先王が戦場で倒れたとき、奇跡がなければ軍は崩れ、何千人も死んだ。疫病の最中に行政官まで倒れれば、食糧も薬も届かぬ。私は国を守ったのだ!」
「最初の一度、ダリオは内容を知って選びました」
私は黒い線の中で大司教を見る。
「それを否定してはいません。ですが、必要な制度だったのなら、なぜ対象も期間も隠したのですか。なぜ五歳のミナに署名があることにしたのですか。なぜ拒んだ人を黙らせたのですか」
「説明すれば、誰も引き受けぬ」
「誰も選ばない犠牲を、必要だからと押しつけた。それを搾取と呼ぶのです」
オルデン大司教は答えなかった。
中央印の光が、偽造された頁を一枚ずつ赤く染めていく。
私は王太子へ、改定案を示した。
「今後の転送は、すべて停止します。過去の負担は傷そのものを一度に返さず、本来必要だった療養期間へ分けて戻します。政務は摂政団と官吏へ分担し、医師の治療を受けてください」
「受苦者はどうなる」
「新しい症状は増えません。残った傷と病は、王家と教会の財産で治療します。生活、教育、仕事を失った分も補償します。将来、負担を伴う術を使うなら、利益を受ける者と払う者の双方へ内容を示し、いつでも撤回できる契約にします」
「王太子が床につけば、敵国は好機と見るぞ」
大司教が言った。
王太子の手が震えた。
「怖くないと言えば嘘になる」
彼は、右腕の古い痛みに顔をしかめながら続けた。
「私は、奇跡があるから傷ついても構わないと育てられた。そのつけを払うのに、何年かかるかも分からない。王位を継げなくなるかもしれない」
沈黙のあと、王太子は中央印を握った。
「それでも、子どもを病ませなければ立てない王なら、立つ資格がない。政務は分ける。国は一人の無傷な王太子だけで動くものではない」
レオニスは改定案へ署名した。
エステルも、聖女の起動権者として名を記す。
四十一枚の意思確認書が、一枚ずつ光った。
最後にダリオの署名が浮かぶ。
「ノエラ」
彼が右手を差し出した。
「一人で読むな。戻ってこられるよう、俺がここにいる」
契約を書き換えれば、四十一人分の痛みが流れ込む。意識を失えば、途中で条文を誤るかもしれない。
私は自分から、彼の手を取った。
「離さないでください」
「約束する」
中央印へ触れる。
熱、骨折、剣傷、毒、眠れない夜。四十一人の痛みが一度に身体を貫いた。
喉から声が漏れた。視界が白く焼ける。
それでも、右手にダリオの体温があった。
「新たな傷病の転送を、ここに停止する」
一つ目の条文を書き換える。
中庭を埋めていた黒い糸が切れた。
「既存の負担は、受益者へ安全な療養期間として返還する」
二つ目。
切れた糸から黒い色が抜け、細い銀色の光となって、それぞれの受益者へ戻っていく。
王太子が右腕を押さえ、膝をついた。騎士が支えようとしたが、彼は自分で立ち直った。
「今後、代価を伴う術は、双方の説明と撤回可能な同意なく成立しない」
三つ目。
中央印の金色が消え、透明な結晶へ変わった。誰か一人が隠して使えない、すべての条文が外から読める印になった。
オルデン大司教が中央印を奪い返そうと手を伸ばした。
透明な結晶が赤く光る。
記録改変者――オルデン。
監査妨害につき、契約権限を失効。
炎のような文字が彼の手を弾いた。大司教がよろめくと、教会騎士たちは支えるどころか、一斉に彼から距離を取った。
ダリオの左腕から、黒い縄がほどけていく。
痣も、動かない指も残っている。失われた四年が一瞬で戻ることはない。
それでも、もう新しい傷は増えない。
「終わりました」
言った途端、足から力が抜けた。
ダリオが私を抱き留める。
意識を失う前に見えたのは、オルデン大司教の手から中央印の箱を回収する王家の騎士たちだった。
「中央契約印の不正使用、記録改変、強制契約の容疑で、オルデンを拘束せよ」
王太子の命令が響く。
「私は王国を守った!」
「その正否は、記録を公開した法廷で審理する」
大司教はもう、奇跡の名で誰かを黙らせることができなかった。
◇
目を覚ましたとき、三日が過ぎていた。
枕元にはダリオがいた。椅子へ座ったまま眠り、私の手を右手で包んでいる。
身じろぎすると、すぐに目を開けた。
「痛むか」
「少し。でも、私の痛みです」
「そうか」
短い返事なのに、彼の肩から力が抜けるのが分かった。
その日の午後、王太子とエステルが見舞いに来た。
王太子は杖をつき、右腕を布で吊っている。しばらく辺境で療養しながら、王都の摂政団へ指示を送るという。
「ノエラ。私はあなたを偽聖女とする認定を撤回する」
彼は寝台の前で頭を下げた。
「本物の聖女として、王都へ――」
「いいえ」
自分でも驚くほど、はっきり言えた。
「私は聖女にはなりません」
十三年間、他に道はないと思っていた。
今は違う。
「私は呪約師です。誰が救われ、誰が支払うのかを隠させない。その仕事を、ここで続けます」
王太子は一瞬目を見開き、それから苦笑した。
「また、私の望む答えではないな」
「申し訳ありません」
「いや。望まぬことを望まぬと言う者が必要なのだと、ようやく分かった」
エステルは笑いながら、目元を拭った。
ダリオは何も言わなかった。
ただ、私の手を包む指に、少しだけ力を込めた。
◇
半年後、辺境聖痕院の門から、欠けた聖印が取り外された。
新しい看板には「王立呪約監査院」と刻まれている。王家と教会のどちらからも独立し、代価を伴う魔法契約を調べるための場所だ。
オルデンの私有財産と、制度を支えていた教会資産の一部は、四十一人の治療と補償へ充てられた。彼自身は王都の公開法廷で審理を受けている。
トーマの右腕には細い傷跡が残ったが、雪玉を投げられるまでに回復した。ミナは熱を出さずに一月を過ごし、今は文字を習っている。
エステルは王都に残った。
彼女の祈りに代価が生じるときは、術を使う前に内容を公開する。今のところ、他人へ傷を移す治癒は一度も行っていない。医師と薬師を増やし、奇跡で省いていた療養を支えることが、彼女の最初の改革になった。
レオニスは療養を続けながら、摂政団との分担で政務へ戻った。受苦者補償法と、魔法契約の説明義務が成立したという報せも届いている。
ダリオの左腕は、少しずつ動くようになった。
その朝、彼は書類の束を左手で支え、右手で私の机へ置いた。まだ長く持つことはできない。それでも半年前には動かなかった指が、紙の端を確かにつかんでいる。
「南部の鉱山から、新しい契約の調査依頼だ」
「代価の記載は?」
「報酬だけ大きく書いて、寿命が縮む条項は裏に隠してあった」
「行きましょう」
「ああ。ただし、その前に話がある」
ダリオは珍しく言いよどんだ。
「腕が治れば、王都の騎士団へ戻るのだと思っていました」
先に口にすると、彼は首を横に振った。
「戻らない。俺はここで、監査院の調査官を続ける」
安堵が胸へ広がる。
けれど、仕事を続けることと、私の隣にいることは同じではない。そう言い聞かせたとき、ダリオが机の上へ一枚の紙を置いた。
小さな家の見取り図だった。
「院の東に、空き家がある。屋根を直せば住める。部屋は二つ、台所は一つだ」
「職員住宅の申請ですか」
「違う」
彼は灰色の目で私を見た。
「仕事の相棒としてだけではなく、あなたと同じ家で暮らしたい。朝も夜も同じ食卓につき、これから先のことを二人で選びたい」
私の返事を急かさず、続ける。
「恩を返すためではない。腕を救われたからでもない。あなたが誰にも命じられず選ぶ言葉を、これからも一番近くで聞きたい。ノエラ、あなたが好きだ」
聖女になるかと問われれば、教会が望む答えを探した。
何が食べたいかと聞かれても、残ったものでいいと答えてきた。
自分が何を望むかを口にするのは、今も怖い。
それでも、今度は沈黙しなかった。
「私も、ダリオと暮らしたいです」
彼の目がわずかに見開かれる。
「調査へ出て、帰ってきて、同じ食卓で話したい。あなたが一人で傷を引き受けようとしたら止めたいし、私が帳簿の上で倒れそうになったら、止めてほしいです」
「分かった」
「それから……私も、あなたが好きです」
ダリオが右手を差し出した。
私は自分から、その手へ指を重ねる。
「触れても?」
「はい」
彼は私の頬へ手を添え、ゆっくり顔を寄せた。
重なった唇は、雪の日に飲んだスープよりも温かかった。
教会は私を偽物と呼んだ。
今も、本物の聖女になるつもりはない。
誰かの痛みを見えない場所へ押しつけず、自分の望みも隠さず、選んだ人と生きていく。
私には、それで十分な奇跡だった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
ノエラとダリオの物語は、ひとまずここで完結です。
もし、二人が呪約監査院で新たな事件へ挑む姿や、恋人になってからの生活、エステルによる王都の教会改革などを含む長編版を読みたいと思っていただけましたら、感想欄で「長編版希望」と一言いただけると嬉しいです。
ページ下部からの評価も、長編化を検討する際の大切な判断材料にさせていただきます。
お読みいただいたことに、改めて感謝いたします。




