石の記憶 回想編 両親の引越し
回想編
―両親の引越し―
「ひかるも、おてつだいするー!」
三歳のひかるが、小さな段ボールを両手で抱えながらよたよた歩く。
「ひかる、それ軽いのにしようね。」
雅美が慌てて声をかけると、
「だいじょうぶ!」
と、得意げに胸を張った。
「ひかるちゃん、頑張ってるね。」
夫の広道が笑う。
「でも、転んだら危ないから、お父さんと一緒に運ぼうか。」
「うん!」
一方、小学一年生の銀河は、少し大きめの荷物を抱えていた。
「おじいちゃん、それどこに置けばいい?」
「おお、銀河は頼もしいな。」
祥一郎が嬉しそうに目を細める。
定年を機に、夫婦で故郷へ戻ることを決めた。
今日は、その引越しの手伝いだった。
段ボールが積み上がった実家。
慣れ親しんだ風景も、今日でひと区切りになる。
「雅美、ちょっとこれ見て。」
母の優子が、本棚の整理をしながら一冊の本を差し出した。
「これ、あんたのじゃない?」
「え?」
受け取った瞬間、雅美は思わず笑った。
「うわぁ……懐かしい。」
学生の頃、夢中になって読んでいた本だった。
少し色褪せた表紙。
何度もめくった跡。
好きなページには折り目までついている。
「まだ残ってたんだ。」
「本棚の奥に入ってたのよ。」
優子が笑う。
「捨てようかと思ったけど、雅美が好きだった本だから。」
「ううん。」
雅美は表紙をそっと撫でた。
「持って帰る。」
ぱらり、とページをめくる。
当時は真剣だったこと。
友達と盛り上がったこと。
「次はどうなるんだろう」って夢中になったこと。
そんな記憶が、ゆっくりと蘇る。
「お母さん、それなあに?」
ひかるが興味津々に覗き込んだ。
「お母さんが子どもの頃に好きだった本だよ。」
「えー!」
「お母さんも、こどもだったの?」
無邪気な問いに、雅美は吹き出した。
「そうだよ。」
「ちゃんと子どもだったんだから。」
「しんじられなーい!」
ひかるはけらけら笑った。
「僕も昔のお母さん、見てみたかったな。」
銀河がぽつりと言う。
「今と違ったの?」
「どうだろうね。」
雅美は少し考えた。
「でも、好きなものに夢中になるところは、あんまり変わってないかも。」
「じゃあ、ひかると一緒だ!」
「銀河もね。」
「えー、僕?」
「だって、新しい図鑑が出るたびに嬉しそうじゃない。」
銀河は少し照れくさそうに笑った。
雅美はふと、首元に手を添えた。
服の下には、小さな水晶のペンダント。
あの頃、お店で買ったもの。
チェーンは何度も替えた。
切れてしまったこともある。
少し長めのものにしたこともあった。
けれど、水晶だけはずっと変わらず、今もここにある。
少女だった頃の自分が、「素敵だな」と思って選んだもの。
結婚して。
母になって。
忙しい毎日を過ごして。
それでも、ずっと一緒にいた。
「雅美。」
優子が優しく声をかけた。
「持って帰るもの、まだある?」
「ううん。」
雅美は本を胸に抱いた。
「大丈夫。」
「大事なものは、ちゃんと持ってるから。」
外では、夕暮れがゆっくりと空を染め始めていた。
「お母さん、帰ったら絵本読んで!」
「僕は図鑑見る。」
「はいはい。」
賑やかな子どもたちの声。
広道の穏やかな笑顔。
両親の新しい門出。
そして、胸元で静かに揺れる水晶。
実家という場所はなくなっても。
時間は前へ進んでいっても。
あの頃の自分が大切にしていたものは、ちゃんと今の自分へ繋がっている。
雅美は小さく微笑んだ。
「……ありがとう。」
誰に向けたのか、自分でも分からない小さな呟きは、夕暮れの風にそっと溶けていった。




