第1章 南の海の異常|黒電ー海底の火種
秋葉原から、沖縄へ。
今話から舞台が変わります。
東シナ海の無人島「沖ノ鳥瀬」周辺に、正体不明の船団が集結し始めた。公式発表は「嵐からの避難」——しかしその説明は、気象データと十四時間ずれている。
フェイクニュースが日本語・英語・中国語で同時に拡散する。内部からの情報漏洩の可能性も排除できない。
桐島はTE27を秋葉原に置いて、那覇へ飛ぶ。
イブはすでに知っていた。ボスが動く前から。
桐島 玄が出勤する前に、アオイはすでに六時間、モニターの前にいた。
午前七時四分。秋葉原のラボに、GPUサーバーの低い唸りだけが満ちていた。コンビニのコーヒーカップが四つ、デスクの端に並んでいた。
画面には、衛星画像が広がっていた。
沖縄県尖閣諸島西方、無人島「沖ノ鳥瀬」周辺の海域。青い水面に、白い点が群れていた。船だった。数えるたびに増えていた。
非常階段を上がってくる足音がした。
「遅いです」
アオイは振り返らなかった。
「今日は踏切のせいにできないですよ。羽田からのリムジンバスが渋滞するわけないので」
「首都高が詰まってた」
「TE27で首都高に乗ったんですか」
「乗ってない。下道だ」
アオイは小さく息をついた。桐島がコーヒーメーカーに手を伸ばしたとき、振り返った。その目に、いつもの皮肉の色がなかった。
「桐島さん。見てください」
桐島はカップを持ったまま、モニターに近づいた。
衛星画像の中で、白い点が六十三。
「いつからだ」
「昨夜の二十一時ごろから集まり始めています。今も増えています。公式発表は『嵐からの避難』です。でも——」アオイはキーボードを叩いた。気象データが画面に重なった。「嵐の進路と、船団の位置が十四時間ずれています。避難するなら、こっちじゃない」
桐島はカップを置いた。
「イブは」
「さっき入電がありました。黒電話に」
桐島はアオイを見た。
「お前が取ったのか」
「肩が凝りました」
アオイはデスクの端にある黒電話を一瞥した。受話器が、少しだけ角度がずれていた。
「内容は」
「テキストで転送してきました。ガラケー、確認してください」
桐島はチノパンのポケットからガラケーを取り出した。
イブからのテキストが届いていた。受信時刻は午前一時三分。
〈沖縄県尖閣諸島西方、無人島「沖ノ鳥瀬」周辺海域に異常な船舶集積を確認。隻数、現在六十三。増加中。発信源の特定、完了。詳細は追って送付する〉
桐島はテキストを読んだ。
イブはすでに知っていた。ボスが動く前から。いつものことだった。
黒電話が鳴ったのは、午前八時十二分だった。
「桐島か」
ボスの声だった。霞ヶ関の、いつもの無駄のない話し方。
「ああ」
「沖縄だ。那覇に飛べ。今日の便で」
「現地の状況は」
「海保が動けていない。船団の規模が想定を超えている。それと——」ボスは一拍置いた。「フェイクニュースが国内外で拡散している。嵐からの避難という話が、どういうわけか日本語と英語と中国語で同時に流れ始めた。発信源を洗え」
「内部からの可能性は」
「排除できない」
短い沈黙があった。
「桐島。現地に協力者がいる。那覇港で待っている。名前は嘉手納 正。元海上自衛隊だ」
「わかった」
「慎重に動け」
通話が切れた。
桐島はガラケーを開いた。イブへのテキストを打つ。
〈老人の漁師と組むことになった〉
三秒で返ってきた。
〈嘉手納 正。元海上自衛隊第二掃海隊。機雷処理経験十一年。現在、那覇港で漁業。信頼できます〉
桐島はガラケーを閉じた。
イブはすでに調べていた。いつものことだった。
「私も行きます」
アオイが言った。
「ラボにいろ」
「衛星画像の解析と、フェイクニュースの追跡は、ここからでもできます。むしろここからの方が速い」アオイはモニターから目を離さずに続けた。「でも黒電話は誰が取るんですか。桐島さんがいないとき」
桐島は少し間を置いた。
「取ってくれ」
「肩が凝ります」
「知ってる」
アオイは小さく息をついて、キーボードに手を置いた。
「気をつけてください」
桐島は答えなかった。ホルスターのホックを確認し、TE27の鍵——ではなく、今日は財布だけをポケットに入れた。
羽田まで、電車で四十分。
那覇まで、飛行機で二時間半。
桐島 玄は、電気街を後にした。
那覇港は、秋の光の中にあった。
青い空と青い海が、水平線で溶け合っていた。東京とは空気の質が違った。塩と光が混ざった、重たくて明るい空気。桐島はそれを肺に入れて、少しだけ目を細めた。
嘉手納 正は、漁船の船尾に座っていた。
七十二歳。日焼けした顔に深い皺。白髪を短く刈っていた。くたびれた作業着。手が大きかった。海で七十年、何かを掴み続けてきた手だった。
桐島が近づくと、老人は顔を上げた。
「TE27じゃ来れなかったか」
「ああ」
嘉手納は少し笑った。「東京の公安が、よくここまで来た。あんた、海は得意か」
「不得意だ」
老人はしばらく桐島を見ていた。それから頷いた。
「正直な奴だ。乗れ」
2話 フェイクの解剖へ続く




